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第十六話 吾桑薫 伍(過去編1)

 ――江戸川槍輔! 槍輔! 槍輔!!


 薫は階段を駆け下り、千代子の声を無視して靴を履くと、勢いよく玄関から飛び出した。邸の裏手にまわって、湖の畔まで全速力で走り、船着場の端に到着したところでようやく足を止めた。

 怒りで火照った頬を、緑の匂いを含んだ清涼な風が、さらりとなでていく。


「僕に……僕に、夢中になっていたくせに……っ!」


 確かに槍輔は、彼自身気づかないまま、薫に好意を抱き始めていた。

 れど其れは『恋の種』を芽吹かせるには程遠く、槍輔の心の中には変わらず、絹依への恋心が芽吹いていたのであった。さりとて、薫が植え付けた恋の種が腐ってしまったのではない。ただ、種を芽吹かせるには、薫は幼く心身も未熟であっただけのこと。

 絹依はまだ学生で槍輔も学生である。特に絹依は十四歳と嫁ぐには若く、吾桑伯爵の様子を見ても、可愛い愛娘を手放す気はなさそうであった。


 ――焦らなくていい。大丈夫、大丈夫だ。


「……ぬい姉様は、あいつのことを愛してはいない。ぬい姉様のお心にいるのは、僕だけだ……!」


 薫が唸るように言葉を発した時だった。小走りする草履の音が聞こえてきて、薫は嫉妬で醜く歪んだ顔を、一瞬で儚げな表情に変えた。


「はぁ……はぁ……! かおくん……っ」

「……ぬい姉様」


 今にも泣き出しそうな顔で振り返った薫の姿を見て、絹依は酷く傷ついた表情を浮かべた。『間の悪いところを見られてしまった』と、気まずく思っている風にも見える顔に、薫の涙腺は自然と緩む。陽の光を吸収して輝く美しい碧眼から、ぽろりと真珠のような大粒の涙が流れた。


「っ、かおくん……!」


 まるで傷つき怯える猫に近づくように、絹依はそろそろとした足取りで、どうにか薫との距離を縮めようとする。一歩、また一歩。やがて二人の距離が二歩分になると、絹依は薫に向けて恐る恐る手を伸ばした。絹依のほっそりとした腕が、硝子細工のような薫の心を壊してしまいそうな緊張から小刻みに震えていた。

 しかして、やっとのことで絹依は薫の華奢な身体を抱きしめることができたのであった。


「かおくん……っ」


 背ばかりが伸びて、ほっそりとした薫の身体を、絹依は強く抱きしめる。


「ぬい……姉様……」


 ――絹依は、槍輔ではなく、薫を選んでくれたのだ。


 薫は、絹依の抱擁を受け入れるために、だらりと横に垂らしていた両腕を動かした。その時――


「…………薫」


 耳元で名を呼ばれたのち、薫は無意識に、絹依の身体を突き飛ばしていた。薫は両手を前に突き出した姿のまま、後方にたたらを踏んだ絹依を見遣る。よろりとしたのち、どうにか体勢を整えた絹依は、出会ってから初めて、得体の知れないものを見る目を薫に向けた。


 ――薫が絹依を拒絶したのは、これが初めてであった。


 絹依は毛穴一つ見えない白磁の肌を真白ましろくし、常ならば、黒真珠の如く多様な色を見せる黒い瞳は、くすんだ黒曜石のように輝きを失っていた。


 ――ああ。僕はこのを知っている。……そうだ、確か……。


 薫は白昼夢を見るかの如く、ゆらゆらと視線を動かし、何もないちゅうを見上げた。その時、脳裏に浮かんでいたのは、もう二度と会うことのできない、一人の少女の姿であった。


「スミ……」


 懐かしい少女の名を呼ぶと同時に、色鮮やかであった視界が、一瞬で真白に染まった。それから一拍もせぬうちに白い光は収縮し、薫の目蓋の裏には、記憶から消し去ることができなかった――帝都郊外にある麻生屋敷が浮かび上がっていたのである。


 ――これは、『逆行再現フラッシュバック』というものだろうか?


 そうでなければおかしい。


 そうでなければ、薫の目の前にいるは、一体誰だというのだろうか?


 ――あれは、ぼくだ。


 それも、麻生伯爵家の下男として働いていた頃の薫である。齢十になったばかりの、まだ、『家族』も『愛』も知らない、憐れな少年――麻生薫。


 ――そう。この日は、帝都中が大雪に見舞われたのだったか。


 年を越したばかりだというのに、宴席に呼んでもらえず、同世代の子供達と遊ぶことも出来ない薫は、門扉の前に降り積もった雪を、スプーン状のシャベルで除雪していたのであった。

 薫は、自分の身長程もある大きくて重いシャベルの刃先を雪に突き刺すと、全体重を乗せるようにして足掛けに右足をかける。積雪量がそこまで多くはないので、刃先はすぐに地面へ到達した。取っ手をしっかり握り、体重をかけて下に押す。スコップ面に雪がのっているのを確認して、その雪は数歩先に置いてある、ブリキ製のバケツの中へ流し入れた。雪が降った日は、門扉の前から玄関前まで、この作業を永遠と繰り返すのだ。

 はぁ、と白い呼気を吐き出して、使用人仲間が編んでくれた空色のマフラーを、鼻先が隠れるまで引き上げる。このマフラーを編んでくれたのは、薫より一つ年上の『スミ』という女中見習いであった。

 スミは、初めて出会った時こそ薫を避けていたが、心境の変化があったのか、ここ一月ほど、薫に絡んでくるようになったのだ。


 ――酔狂な人だな。


 そう思いはしても、拒絶することはなかった。

 混血児あいのこである薫に近づいた理由があるはずだ。自分は其の理由が知りたいだけ。決して、人の温かみに触れて、ほだされたせいではない。

 れど、その考えは間違いであったことを知る。


「――ふぅ。……こんなものかな」


 薫はバケツに雪を入れ終えると、シャベルの柄を両手で持ち、綺麗に除雪された一本の道を満足気に眺めていた。さて、さっさと道具を片付けて、次の仕事に取り掛かろう。そう思って、足元に置いてあったバケツの持ち手に指を引っ掛けた時、ザクッザクッと雪を踏みしめる音が聞こえてきた。


 ――誰だろう?


 バケツから指を離して、上体を起こしながら、足音のする方向を見遣る。しかして、薫の碧眼に映ったのは、使用人棟の方角から来たのであろう、薫と同じ空色のマフラーを巻いたお下げ髪の少女――スミであった。

 スミは雪に足を取られそうになりながら、真剣な表情で一歩、また一歩と薫に向かって歩いてくる。しかる、薫の視線に気がついたらしいスミは、酷いあかぎれの手を冷気で真っ赤に腫らして、ぶんぶんと大きく手を振ってきた。

 雪面が反射した光を吸収した真黒まくろな瞳は生命力にあふれて綺羅綺羅と輝いている。


「薫〜〜!」


 下男以下の扱いをされている薫に対して、スミは頬と鼻先を真赤まあかに染めて、屈託のない笑顏を浮かべていた。其れにつられて、手を振り返しそうになった薫であったが、長年受けてきたいじめのせいで心を開くことができずにいたのである。さるは、スミは何かと薫の世話を焼きたがった。其れが原因で、今では、かつて仲良くしていた女中達から避けられているらしい。


 ――何故、そうも気にかける?


 そう問えばいいだけの話であるが、スミから与えられるぬるま湯が心地よくて、今の現状から抜け出せずにいたのであった。

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