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第十五話 吾桑絹依 肆

 ――ひと晩で何があったのだろう?


 朝、槍輔を起こしに千代子が部屋を尋ねると客室はもぬけの殻で、次いで薫の部屋に行くと槍輔と薫が仲良く並んで寝ていたらしい。しかして今、朝食の席で二人は敬語を取り払い、『薫』『槍輔』と呼び合っている。なんにせよ、薫に信頼できる同性の友人ができたことは喜ぶべきであるが、少々寂しさを感じてしまうのも事実であった。


 薫に慕われている槍輔にヤキモチを焼いた絹依は、無理やり二人の会話に混ざってみたのだが――


『かおくん! わたくしのことも、『絹依お姉様』と呼んでみてちょうだいな』

『……? ぬい姉様はぬい姉様ですから、それはちょっと……』

『……槍輔さんのことは名前で呼んでいるじゃないの』

『槍輔は友人ですから。ぬい姉様とは違います』


 その後、暫くねばってみたが、けんもほろろであった。


「――絹依お嬢様。体調がお悪いのですか?」


 淹れたてのコーヒーの香りと共に、春の日差しを思わせるやわらかい声が頭上に降ってきて、絹依はハッと我に返った。


「……あら、千代子。どうして? わたくしはなんともなくってよ」

「ですが、お顔の色が悪うございますよ」

「……わたくし、そんなに顔色が良くないかしら?」

「はい。無理をせず、居室でお休みになられてはいかがですか?」

「……そうね」


 絹依は、ハァとため息を吐いて、食事もそこそこに食堂の席を立った。


「あらまあ、絹依さんったら。朝食に殆ど手を付けていないじゃないの」

「ええ……なんだか少し、気分が悪くて……」


 ちらりと横目で薫と槍輔を見遣るが、二人は話に夢中で、絹依が席を立ったことにも気づいていない様子であった。二人に混じって、ハハハ! と大きな声で楽しそうに笑っている、父もしかり。


「……どうやらお父様は、役に立たない娘よりも、頼りがいのある息子が欲しかったご様子ね」

「これ、絹依さん。旦那様のことをそのようにおっしゃっては、」

「はい。絹依が悪うございました。親不孝者で申し訳ございません。わたくし、体調が優れませんので、部屋に戻らせていただきますわ」


 絹依は流れるような動作で頭を下げて、その後わざとらしくふらついて見せると、颯爽と食堂から去っていった。其の後ろ姿を、ポカンと見つめていた伯爵夫人は、常と変わらぬ態度で給仕をこなす千代子の腕を捕まえる。傾きかけた銀製のティーポッドを正常位に戻しつつ、千代子は立った状態のまま膝を曲げ、伯爵夫人の言葉に耳を傾けた。


「奥様、いかがなさいました?」

「もしかして……反抗期かしら……?」

「反抗期、ですか?」

「だって、絹依さんったらあんなに刺々しい態度を取るんだもの! こんなこと初めてだわ……」

「絹依お嬢様もお年頃ですし、反抗的になるのは成長の証にございます。ですが、先程の絹依お嬢様は反抗なさっているのではなく、ただ、ご気分が優れないだけのように見えましたわ」

「あら、そう?」


 「はい」と、千代子は言って、伯爵夫人の殻になったカップにコーヒーを注いだのち、心配そうな表情で絹依の軌跡を見つめたのであった。



◆◇◆◇◆◇



 自室に戻った絹依は、振り袖姿のまま行儀悪くベッドに寝転がり、枕をボカスカと叩いていた。


「もう! かおくんったら! 槍輔さんと楽しそうに話て盛り上がっちゃって! わたくしが席を立ったことにも気づいてないのではないかしら!?」


 薫に友人が出来たことは素直に嬉しい。だからと言って、絹依を蔑ろにするのは許せない。


「はぁ……わたくしって、心が狭い上に面倒くさい姉でしたのね……」


 そう思えど、槍輔に薫を奪われてしまったという悲しみと怒りは、簡単におさまりそうにない。もう一発くらい、枕に拳をめり込まそうか。そう考えていた時、扉をノックする音が室内に響いた。


「かおくん!?」


 絹依はベッドから起き上がると、素早く身支度を整え、こほんと咳払いをして口元に笑みを浮かべた。そして――


「あら、かおくん。どうなさったの?」


 と、機嫌よく扉を開けた先に立っていたのは、待ち人である薫ではなく、槍輔であった。

 絹依は笑顔に亀裂が入るのを感じながら、相手はお客様なのだからと、微笑みを浮かべたまま頬に手を当てた。


「あらまあ、槍輔さんでしたのね。わたくしの部屋を知っているのは家族だけなものですから、つい、かおくんだと勘違いしてしまいましたわ」


 少し棘を含む言い方になってしまったが、生きた妖精である薫にあれだけ懐かれているのだ。ちょっと蜜蜂が針を刺すくらいの痛みには耐えてもらわねば割に合わない。

 然れど、絹依の嫌味に気付かなかったらしい鈍感な槍輔は、絹依を見下ろしたまま言いにくそうに口を開いた。


「あ……その、絹依さんの顔色が悪いのが、ずっと気になっていて……」


 それは貴方のせいです! とは言えず、絹依は困り顔を浮かべた。


「まあ! それでわざわざ様子を見に来てくだすったの? 槍輔さんは紳士ですのね」

「あ、いや、私は……ずっと、貴女を見て来ましたから」

「――え?」

「あっ! その、変な意味ではなく! ……初めてお会いした時から、私の心にはあなたが……絹依さんがいました、ので」


 槍輔は真面目な顔をして、よこしまな気持ちを一切感じさせない、誠実で真剣な眼差しを、動揺する絹依に向けたのであった。


「……え、……えぇっ……?」


 槍輔の突然の告白に、絹依は目を白黒させた。


 ――何故、どうして、このような展開になっている?


 そう思って、ふと、視線をずらした先に、薫が立っていた。薫は瞬きもせず、大きな丸い目を見開いて、よろりと後ろにたたらを踏んだ。


「かおくん……!」

「えっ! 薫?」


 馴れ馴れしく『薫』と呼び、驚いて後ろを振り返った槍輔に、絹依は苛立ちを覚えた。

 薫は滑らかな白皙の肌を真白ましろくし、常ならば、宝石の如く眩い輝きを放つ碧眼は、ひび割れたガラス玉のように光を失っていたのであった。――太陽を失った月は、太陽なしに輝くことは出来ない。

 薫は光をなくし濁った瞳で宙を見遣ったのち、目元を赤く染めて身をひるがえすと、この場から立ち去ってしまう。


「あっ! かおくん! お待ちになって!」


 咄嗟に追いかけようとした絹依の行く手を、槍輔が鍛え上げた身体で塞いだ。思わずたたらを踏んだ絹依は、行く手を阻んだ槍輔をキッと睨み上げる。

 然れど、槍輔には堪えた様子がなく、茶色い瞳を不安げに揺らして絹依の黒い瞳を見つめてきた。


 ――先にこちらを片付けた方がよさそうだ。


 絹依は姿勢を正すと、槍輔に向かって深々と頭を下げた。


「槍輔さん。ごめんなさい。貴方の気持ちには応えられません」

「な、何故ですか?」

「何故、って。私と槍輔さんは華族の息女と子息ですのよ? 惚れた腫れたで、気軽に交際することは許されません。私のお相手は、家長であるお父様がお決めになることです。……それにわたくしは、『恋心』というものがどのような想いなのかも分からない、未熟な小娘にございますので」


 槍輔の瞳を見つめてハッキリと告げる。すると槍輔は、ハッとした様子で、苦しそうな表情をしたのちにゆるゆると頭を下げた。


「そう、でしたね。私たちは華族。勢い余って想いを告げてしまいましたが、先に、家長である吾桑伯爵にお伺いを立てるべきでした。軽率な行動をしてしまって、すみませんでした」

「おわかり頂けたならよろしいの。……正式に父が認めたお相手ならば、わたくしが否やを唱えることはできません。まずは父に申し立てくださいませ」


 では、と言って部屋から出た絹依の背に、槍輔の声がかかる。振り返らずに歩みを止めると、槍輔がハッキリとした声音で言った。


「私が告げた想いは本物です。……それだけは、忘れないで頂きたい」


 真摯に想いを告げられて、其れを無視して歩き出すほど、絹依は無礼者ではない。くるりと槍輔に向き直ると、絹依は深々と頭を下げてから踵を返した。


「……絹依さん」


 トントンと階段を降りていく絹依の後ろ姿を、槍輔は暫しの間見つめていたのであった。



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