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第十四話 江戸川槍輔 参

 吾桑伯爵の強引な誘いと、その場の雰囲気に流されて、あれよあれよという間に吾桑家の別荘に宿泊することになってしまった槍輔である。流されやすく、軍人を目指す人間にしては、押しに弱すぎる自分にため息をつく。


「はあ……どうしてこのような展開ことに……」


 さて、槍輔の実家である伯爵家の邸も『あめりか屋』住宅ではあるが、自室は畳敷で布団を敷いて寝ている身としては、この別荘の内装はあまりにも洋風すぎて落ち着かなかった。小屋裏を部屋として使用する発想は吾桑伯爵のものであろうか? 今は窓掛けカーテンで覆われている屋根窓も立派であった。


「……流石は、かの有名な吾桑伯爵家……というところか」


 海外から取り寄せたという寝台ベッド敷布団マットレスは、本来ならば寝心地が良いのだろうが、綿入りの敷布団を愛用している身には、少々寝心地が悪かった。さりとて、この部屋を設えてくれたのは、槍輔が恋焦がれる絹依であった。今ばかりは、変態だと罵られても良い。この寝台の敷布シーツを整えたのが、絹依のあの白魚のような真白い手だと思うだけで、まるで絹依に抱擁されているように感じてしまうのだから始末に負えない。敷布からほのかに香る清潔な石鹸の香りと、絹依のものであろう薔薇の芳香に包まれて、ようやくウトウトとしてきた頃に、寝室の扉がノックされた。

 槍輔はむくりと起き上がり、寝台に腰掛けると、整理棚チェストの上のランプの明かりを付けた。


 ――遠慮がちで弱々しいノックだったことを鑑みるに、おそらくは薫が訪ねてきたのだろう。


 槍輔はベッドから立ち上がり、扉に近づいてドアノブを回した。内開きの扉を開けると、寝衣ゆかた姿で大きな枕を抱えた、吾桑薫が立っていた。薫は俯いていて、その表情をうかがい知ることはできない。


「薫くん。このような夜更けにどうしたんだい?」

「えっと、僕……槍輔さんと……初めて出来たお友達と一緒に寝てみたくて。失礼を承知でこうして訪ねて参りました」


 俯けていた顔を上げた薫の双眸は、宵闇の中で見ると、夜明け前の海を思わせる濃い藍色をしていた。部屋からもれ出たランプの明かりを吸収して、朝焼けの海のようにも見え、槍輔はその瞳に溺れてしまいそうな心地になった。

 黙ったままの槍輔を見て、不安に駆られたのだろう。


「や、やっぱり、迷惑……ですよね?」

「いや……」

「すっ、すみませんでした! じゃあ、おやすみなさ――」

「待ってくれ」


 そのまま見送ればよかったのものを、槍輔は咄嗟に伸ばした手で薫の手首を握っていた。薫からは槍輔の顔は影になってはっきりと見えないはずだ。でなければ、おとなしく捕まっているわけがない。


 ――なんということだ。齢十二の小年の肌に触れただけで興奮する男の姿など、下種ゲスな犯罪者以外の何者でもないではないか!


「――槍輔さん?」

「っ、す、すまなかった。薫くん」

「いいえ、大丈夫です。……其れより、体調がお悪いようにお見受けしますが……?」

「……折角、もてなして頂いたのに申し訳ないのだが、畳敷の部屋に変えてもらうことは出来ないだろうか? いつもは畳敷の部屋に布団を敷いて寝ているんだ。そのせいか、なかなか寝付くことができなくてね」


 薫が右腕を動かした際に、槍輔はさり気なくほっそりとした手首を手放すことに成功した。槍輔は人知れず安堵の息を漏らしたが、なにやら考え込んでいる様子の薫は、槍輔のことなど気にも留めていないようであった。そのことに対して、ほんの少しだけ痛んだ心には気づかない振りをした。


「――槍輔さん」

「うん、なんだい?」

「その、槍輔さんさえよろしければ、これから僕の寝室に行きませんか?」

「…………うん?」


 槍輔は畳敷の部屋で静かに休むことができればそれでいいのに、何故こうも事がややこしくなるのだろう? そう考えているうちに、槍輔は薫に連れられて、薫の寝室へと足を踏み入れた。そして、ハッとする。完全な洋風造りの邸の中で、薫の寝室だけは完全な和風造りになっていたのである。


「さあ、どうぞ。遠慮なくお入りください。押入れの中にもう一組ひとくみ布団が入っているはずですので、そちらをお使いください。――あっ。僕も手伝いましょうか?」

「いいや、一人で大丈夫だ。……それに、薫くん」

「はい。なんでしょう?」

「友人同士はもっと気楽に話すものだ。私は君のことを『薫』と呼ばせてもらうから、薫も私のことを『槍輔』と呼んでくれ。あと、もちろん、敬語も不要だ。……どうだ? できそうか?」


 布団を敷き終わった槍輔が、綿入りの敷布団の上で胡座をかくと、布団の上で正座したままの薫が難しそうな顔をした。


「槍輔さんが僕のことを気軽に呼んでくださるのは嬉しいですけど……僕なんかが、将来立派な帝国軍人におなりになる方を気安くお呼びしてもよろしいのでしょうか? その上、敬語も不要だなんて……」

「何を言っている? 薫は吾桑家の小伯爵ではないか。このように立派な別荘まで所持している、由緒正しい華族令息が、何故自分を卑下するようなことを言う?」

「それは……だって、僕は……こんな見た目をしていますから……」


 言って、悲しげに目を逸らした薫の両頬を手の平で包み込み、光を吸収して美しい輝きを放つ碧眼を覗き込む。


「薫。君の瞳は美しい。昼は蒼穹を思わせ、夜は静かな海を見ているようだ。それに、君が厭う白い肌には、太陽の下で輝く稲穂のような黄金の髪が良く似合う」

「太陽の下で輝く……?」

「そうだ。君は君自身のどこを恥じらうこともない。ただ美しい姿を持って生まれただけの、立派な日本男児なのだから」

「……僕、そんなことを言われたのは初めてです。……凄く嬉しい。ありがとう、槍輔」


 迷いが吹っ切れた様子で晴れやかに、然れど神秘的な妖しさをもって、薫はにこりと笑ったのであった。

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