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第十三話 吾桑薫 肆

 薫と槍輔の二人きりになった客間で、薫は梅子特製のレモネードを飲みながら、傾けたグラス越しに槍輔を見遣った。薫が蒔いた『恋』という名の種は、間違いなく、槍輔の『心』という土に埋まったはずだ。その証拠に、槍輔の肌は紅潮し、忙しなく動くチョコレート色の瞳はトロリと溶ける寸前である。


 ――あと一押しで、種は芽吹き、槍輔は薫のものになる。


 そうほくそ笑んだ時、何かに視線を向けた槍輔の瞳が、健全な色を取り戻したではないか。


 ――いったい、何が起こったのだ。


 焦った薫が後ろを向くと、白いワンピースから夏用の振り袖に着替えてきた絹依が、たすき掛けをしながらこちらに歩いてきていたのであった。白菫色の正絹の振り袖には、手書き染めで、今にも香ってきそうなほど緻密に描かれたラベンダーの花が咲いていた。

 思わず椅子から立ち上がった薫は、泣きそうな顔で絹依を見つめた。其の切実な視線に気づいた絹依は、ふわりと微笑み返そうとして、瞬時に表情を強張らせた。何故、絹枝が傷ついたような表情を浮かべたのか分からなかった薫は、コテンと首を傾けた。すると、陶器のように滑らかな青白い肌を、生温い何かが伝い落ちていったではないか。薫は絹依から視線を外して、まろい頬を手の甲で拭った。其の拭ったものを見て、薫はようやく、自分が涙を流していたことに気がついたのであった。


「槍輔さん。これは一体、どういうことですの!?」


 普段の絹依から、想像することは難しいであろう強い口調で詰め寄られ、槍輔は可哀想なほど顔を青ざめさせている。槍輔は椅子から立ち上がり、大きな両の手の平を前に突き出し、「どうやら誤解があるようです!」と言った。


「誤解……? 誤解ですって……? 槍輔さん。わたくしが、今、どのような誤解をしているのか説明することができて?」

「そ、それは、その……!」


 正真正銘、理由わけもわからず、好意を抱いている絹依にゴミを見るような視線を向けられた槍輔が助けを求めたのは、当然ながら薫にであった。


「薫くん! 頼む! 私は君を泣かしていないと、絹依さんに説明してはくれまいか……!」


 槍輔を破滅させ、絹依から遠ざけるには、今の状況は願ってもない好機だった。

 然れど――

 薫は再びその碧眼に絹依の姿を映した。正確には、絹依が身にまとっている振り袖のラベンダーを。瞳を閉じれば、絹依に出会い恋をした、あの初夏の日の光景が目蓋の裏によみがえる。


 ――あの日のことを、宝物のように大切に抱いているのは薫だけだと思っていた。


 然れど、そうではなかった。絹依も大切に思ってくれていたに違いない。言葉にされたわけではないが、あの白菫色の振り袖に描かれているラベンダーの花が証明してくれている。ならば、薫と絹依の愛おしいあの初夏の日を、槍輔の存在などで汚してはならない。

 薫はできるだけ可憐に見える仕草で涙を拭い取り、頬を桜桃さくらんぼ色に染めて、セーラーカラーをひるがえしながら絹依の身体に抱きついた。


「かっ、かおくん?」


 お互いに成長していくにつれて減っていった肉体的接触。まさか、今までの展開から、薫が抱きついてくるなどと想像もしていなかったのであろう。驚きながらも喜びを隠しきれていない絹依の顔を間近で見つめて、薫は絹依のほっそりした真白い手を取り、自分のまろい頬に当てた。


「……ぬい姉様。誤解なんです。槍輔さんは、僕に何もなさっていません」

「でも、かおくん。あなた、泣いて――」

「この涙は、ぬい姉様のせいですよ?」


 薫の告白に、絹依と槍輔が同時に素っ頓狂な声を上げる。何故だか二人の反応が面白く思えてしまい、薫は赤くなった目尻を人差し指でなぞりながら、クスクスと笑い声を上げた。其の姿を目にして、ようやく誤解を解いたのか、絹依と槍輔は気まずそうに苦笑いを浮かべる。

 冷え性な絹依の手に薫の熱が移り、ほんのり温かくなったきた頃になり、薫は離れがたく思いながら絹依の手を解放した。


「ぬい姉様。驚かせてしまってすみませんでした」

「わたくしに謝る必要はないわ、かおくん。かおくんに関することなら、わたくしは、驚くのも悲しむのも楽しむのも、其れ以外も、全部共有したいと思っているのだから」

「ぬい姉様……」

「ですからまずは、二人で一緒に、槍輔さんに謝罪しましょうか?」

「はい。ぬい姉様のおっしゃるとおりですね。――槍輔さん。この度は驚かせてしまいまして、誠に申し訳ございませんでした」

「あ、いえ……」

「槍輔さん。理由を明かすことは出来ませんが、かおくんは一度恐ろしい目にあっているのです。それでわたくしは……槍輔さんの素晴らしいお人柄を知りながら、疑惑の目を向けてしまいました。全ては義弟おとうとを愛するが故のことでしたの。厚かましいのは承知の上でお願い申し上げます。これからも、今までと変わらぬお付き合いをよろしくお願い致します」


 佳人と美少年に、丁寧な謝罪を受けた槍輔は、逆に恐縮してしまっていた。


「あのっ、お二人とも! どうか頭を上げて下さい! 私は――いえ。自分は、学生の身ではありますが、大日本帝国の軍人です! 軍人としての自分が守るべき御方に頭を下げさせるなど、万死に値します!」

「ええっ! 槍輔さん……死んでしまわれるのですか……!? せっかく、初めてのお友達ができたと思ったのに……!」

「まあ。お二人はお友達でしたのね! それも槍輔さんは、かおくんに出来た初めてのお友達ですわっ! まあまあまあ! わたくしったら、ほんに無礼を働いてしまいまして、どう償えばよいか……!」


 三人の会話が噛み合わず、混乱状態に陥っていた客間は、絹依の母の介入で無事収めることができたのだった。伯爵夫人が登場したこともあり、混乱に乗じて御暇しようとしていた槍輔を引き止めたのは、絹依でもなく、薫でもなく、何故か吾桑伯爵その人だった。


「折角、家内と娘が客室を整えたのだから、今夜はうちで夕食ディナーを食べて、一晩泊まって行くと良い」

「いや、伯爵様! 未婚の女性がいらっしゃるお邸で寝泊まりするなどと、そのような無礼は――」

「当主である私が許す! ……というておるのだ。何も遠慮することはない。――なあ、皆のもの!」


 吾桑伯爵の一言で、伯爵夫人から下男下女まで、さっと頭を下げて同意した。


「こ、これが、権力……」


 思わず口をついて出てきたのであろう、槍輔の言葉に、薫以外の全員が楽しげに笑い声を上げたのであった。

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