薫と槍輔の二人きりになった客間で、薫は梅子特製のレモネードを飲みながら、傾けたグラス越しに槍輔を見遣った。薫が蒔いた『恋』という名の種は、間違いなく、槍輔の『心』という土に埋まったはずだ。その証拠に、槍輔の肌は紅潮し、忙しなく動くチョコレート色の瞳はトロリと溶ける寸前である。
――あと一押しで、種は芽吹き、槍輔は薫のものになる。
そうほくそ笑んだ時、何かに視線を向けた槍輔の瞳が、健全な色を取り戻したではないか。
――いったい、何が起こったのだ。
焦った薫が後ろを向くと、白いワンピースから夏用の振り袖に着替えてきた絹依が、たすき掛けをしながらこちらに歩いてきていたのであった。白菫色の正絹の振り袖には、手書き染めで、今にも香ってきそうなほど緻密に描かれたラベンダーの花が咲いていた。
思わず椅子から立ち上がった薫は、泣きそうな顔で絹依を見つめた。其の切実な視線に気づいた絹依は、ふわりと微笑み返そうとして、瞬時に表情を強張らせた。何故、絹枝が傷ついたような表情を浮かべたのか分からなかった薫は、コテンと首を傾けた。すると、陶器のように滑らかな青白い肌を、生温い何かが伝い落ちていったではないか。薫は絹依から視線を外して、まろい頬を手の甲で拭った。其の拭ったものを見て、薫はようやく、自分が涙を流していたことに気がついたのであった。
「槍輔さん。これは一体、どういうことですの!?」
普段の絹依から、想像することは難しいであろう強い口調で詰め寄られ、槍輔は可哀想なほど顔を青ざめさせている。槍輔は椅子から立ち上がり、大きな両の手の平を前に突き出し、「どうやら誤解があるようです!」と言った。
「誤解……? 誤解ですって……? 槍輔さん。わたくしが、今、どのような誤解をしているのか説明することができて?」
「そ、それは、その……!」
正真正銘、
「薫くん! 頼む! 私は君を泣かしていないと、絹依さんに説明してはくれまいか……!」
槍輔を破滅させ、絹依から遠ざけるには、今の状況は願ってもない好機だった。
然れど――
薫は再びその碧眼に絹依の姿を映した。正確には、絹依が身にまとっている振り袖のラベンダーを。瞳を閉じれば、絹依に出会い恋をした、あの初夏の日の光景が目蓋の裏によみがえる。
――あの日のことを、宝物のように大切に抱いているのは薫だけだと思っていた。
然れど、そうではなかった。絹依も大切に思ってくれていたに違いない。言葉にされたわけではないが、あの白菫色の振り袖に描かれているラベンダーの花が証明してくれている。ならば、薫と絹依の愛おしいあの初夏の日を、槍輔の存在などで汚してはならない。
薫はできるだけ可憐に見える仕草で涙を拭い取り、頬を
「かっ、かおくん?」
お互いに成長していくにつれて減っていった肉体的接触。まさか、今までの展開から、薫が抱きついてくるなどと想像もしていなかったのであろう。驚きながらも喜びを隠しきれていない絹依の顔を間近で見つめて、薫は絹依のほっそりした真白い手を取り、自分のまろい頬に当てた。
「……ぬい姉様。誤解なんです。槍輔さんは、僕に何もなさっていません」
「でも、かおくん。あなた、泣いて――」
「この涙は、ぬい姉様のせいですよ?」
薫の告白に、絹依と槍輔が同時に素っ頓狂な声を上げる。何故だか二人の反応が面白く思えてしまい、薫は赤くなった目尻を人差し指でなぞりながら、クスクスと笑い声を上げた。其の姿を目にして、ようやく誤解を解いたのか、絹依と槍輔は気まずそうに苦笑いを浮かべる。
冷え性な絹依の手に薫の熱が移り、ほんのり温かくなったきた頃になり、薫は離れがたく思いながら絹依の手を解放した。
「ぬい姉様。驚かせてしまってすみませんでした」
「わたくしに謝る必要はないわ、かおくん。かおくんに関することなら、わたくしは、驚くのも悲しむのも楽しむのも、其れ以外も、全部共有したいと思っているのだから」
「ぬい姉様……」
「ですからまずは、二人で一緒に、槍輔さんに謝罪しましょうか?」
「はい。ぬい姉様のおっしゃるとおりですね。――槍輔さん。この度は驚かせてしまいまして、誠に申し訳ございませんでした」
「あ、いえ……」
「槍輔さん。理由を明かすことは出来ませんが、かおくんは一度恐ろしい目にあっているのです。それでわたくしは……槍輔さんの素晴らしいお人柄を知りながら、疑惑の目を向けてしまいました。全ては
佳人と美少年に、丁寧な謝罪を受けた槍輔は、逆に恐縮してしまっていた。
「あのっ、お二人とも! どうか頭を上げて下さい! 私は――いえ。自分は、学生の身ではありますが、大日本帝国の軍人です! 軍人としての自分が守るべき御方に頭を下げさせるなど、万死に値します!」
「ええっ! 槍輔さん……死んでしまわれるのですか……!? せっかく、初めてのお友達ができたと思ったのに……!」
「まあ。お二人はお友達でしたのね! それも槍輔さんは、かおくんに出来た初めてのお友達ですわっ! まあまあまあ! わたくしったら、ほんに無礼を働いてしまいまして、どう償えばよいか……!」
三人の会話が噛み合わず、混乱状態に陥っていた客間は、絹依の母の介入で無事収めることができたのだった。伯爵夫人が登場したこともあり、混乱に乗じて御暇しようとしていた槍輔を引き止めたのは、絹依でもなく、薫でもなく、何故か吾桑伯爵その人だった。
「折角、家内と娘が客室を整えたのだから、今夜はうちで
「いや、伯爵様! 未婚の女性がいらっしゃるお邸で寝泊まりするなどと、そのような無礼は――」
「当主である私が許す! ……というておるのだ。何も遠慮することはない。――なあ、皆のもの!」
吾桑伯爵の一言で、伯爵夫人から下男下女まで、さっと頭を下げて同意した。
「こ、これが、権力……」
思わず口をついて出てきたのであろう、槍輔の言葉に、薫以外の全員が楽しげに笑い声を上げたのであった。