一見すると全く接点のない槍輔と絹依であるが、槍輔の妹――桜子の友人として絹依が江戸川伯爵邸に遊びに来ていた時のこと。その場に居合わせた槍輔は、絹依に一目惚れしてしまったのであった。
◆◇◆◇◆◇
――『吾桑伯爵家の息女は大層美しい』とは、高位貴族の子息子女の間では有名な話だった。
妹の桜子は、絹依の親友であることが誇らしいらしく、暇さえあれば槍輔に絹依のことを話して聞かせた。
「絹依さんはね。高等女学校のマドンナなのよ」
「へえ、どんな子なんだい?」
「ええっとねえ……」
絹依は少し長めの前髪に、ぬばたまの艷やかな髪を背に流し、髪の一房だけを菫色のリボンと一緒に編み込んでいる。眉は優しげな
性格も良く、おっとりとしていて、朗らかに笑う姿が愛らしい。
「……まさに『立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花』を地で行く子なのよ」
「私はお前よりも、四年も長く生きているんだぞ? だが、そんな
「あら。それは兄さんが、絹依さんのような
「そうかな?」
「そうよ。……あら。その目は、あたしの話を疑っているのね?」
じろりと
「――いいわ。兄さんに、絹依さんがどれだけ美しい御方なのか見せてあげましょう」
「『見せる』ってお前……」
「絹依さんはね。同じ女学校の生徒でも、気安く話しかけられるような御方ではないの。だけど、
自信満々に言ってのけて、颯爽と客間を出ていった桜子の後ろ姿を、槍輔はやれやれと眺めたのであった。
「お邪魔しております。わたくし、桜子さんの学友の、吾桑絹依と申します。よろしくお願いいたします」
「あっ、いや、その、ご、ご丁寧にどうも……!」
「あら、兄さん。一体、どうなすったの? 小麦色のお顔が赤くなっているわよ?」
「桜子……っ」
それ見たことか、と言いたげな顔をして、桜子は意地悪くクスクスと笑う。絹依はそんな桜子と槍輔の姿を交互に見て、フフッと花開くような笑顔を見せた。その可憐な仕草と表情に、槍輔は目を奪われる。ぼうっとする槍輔の様子に気づかぬまま、絹依は恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「まあ、わたくしったら。突然笑い出したりしてごめんなさい。驚かせてしまいましたわよね?」
「い、いえ、そのようなことは」
「お二人の仲睦まじい様子を見ていたら、つい、弟のことを思い出してしまったのです」
「弟さんがいらっしゃるのですか?」
我に返った槍輔が訊ねると、絹依はその言葉を待っていたかのように、ぱあっと表情を明るくした。次いで、口を開こうとして躊躇した絹依に、是非話を聞かせてくれと頼んだところ、喜び勇んでぴょんと飛び跳ねた。
――かっ、かわいい!
思わず口をついて出そうになった言葉をなんとか飲み込んだ槍輔は、早鐘を打つ心臓を隠すように胸元に軍帽を当てた。気を抜けばだらしなく緩んでしまいそうな唇に力を入れて、さりげなく、絹依に椅子を勧める。
絹依はおっとりと微笑んで礼を言うと、客間の椅子に姿勢良く腰を下ろした。しかして、槍輔と桜子も椅子に座り、終始笑顔で弟自慢をする絹依の声に耳を傾けたのであった。
◆◇◆◇◆◇
日が傾きはじめた頃、吾桑家から迎えの車が到着し、槍輔と桜子が見送る中、絹依は自宅へと帰って行った。黒塗りの立派な車が去っていった軌跡をいつまでも眺めていると、右脇に強烈な肘鉄が入った。堪らず身を屈め、じろりと桜子を睨めつける。
然れど、桜子は
「……お前の話を疑って悪かった」
「ほーら、ほらほら! あたしの言った通りの御方だったでしょう?」
「……ああ。まさか現実に、あのような佳人が存在するとは」
「ね! 信じられないでしょう? あたしも初めて絹依さんとお話したあと、胡蝶の夢でも見たのかしら? って、暫くぼうっとしちゃったわ」
「違いない」
槍輔と桜子は、絹依の話題に花を咲かせながら、仲良く邸の中へと入って行ったのだった。
さて、この日を境に桜子の計らいで、江戸川家に頻繁に訪れるようになった絹依。桜子と絹依が談笑している間に、槍輔が割って入るのが毎度のことだった。自然と二人の距離は近づき、槍輔は絹依への想いを募らせていった。
然れど、ある夏の日から、絹依の来訪はぱたりと途絶えてしまう。詳しい理由は分からないが、桜子に聞くに、原因は絹依の義弟にあるらしかった。
――家庭の事情ならば仕方がない。
其れでも、絹依への恋心は消えることなく、ひたすらに募り続けるばかりであった。