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第十話 吾桑薫 参

 湖畔に設置されている木製の階段から、見事な釣り竿さばきで帽子を救った青年は、針から帽子を取り外して絹依に向かって笑いかけた。


 ――あの偉丈夫は誰だろうか。


 薫は、初めて会う男に訝しげな表情を向けた。

 しかし絹依はふらりと立ち上がり、白い足首を晒しながら裸足のまま、湖に伸びる船着き場の先端まで走って行く。薫は其の後ろ姿に静止の声をかけたが、絹依の耳には届かなかったようだ。絹依と青年は、暫しの間、生き別れた恋人同士のように見つめ合った。そのような二人の姿を黙って見ていられなかった薫は耐えきれず、自分も裸足のまま、絹依の側に駆け寄った。


「ぬい姉様! どうなさったのですか? ……あの御方はお知り合いですか?」


 薫に問われて我に返った絹枝は、夢から覚めたような潤んだ黒い瞳で、薫に振り返った。

 れど、口火を切ったのは、絹依ではなく青年の方だった。


「――絹依さん! このような場所でお会いできるとは、大変驚きました!」

「わ、わたくしもですわ。槍輔そうすけさん」

「少々、手荒な方法をとってしまいましたが、貴女の帽子は無事ですよ」

「危うく、お気に入りのお帽子が水浸しになるところでしたわ。見事な釣り竿捌きで救ってくださって、どうもありがとうございます」


 絹依は透けるように白い頬を薔薇色に染めて、両手で胸元を押さえながら槍輔と楽しげに、然し少し緊張した面持ちで会話を続けた。絹依の隣には薫が立っているというのに、槍輔は絹依しか見えていない様子で話し続ける。会話を弾ませる二人の姿を不愉快に思いながら、男の情報を得るために、薫は黒子に徹した。其の結果、槍輔は、絹依が通う高等女学校の友人――江戸川桜子の兄で、陸軍士官学校の三年生だということがわかった。来年には卒業だと話しているのを聞くに、槍輔の年齢は十八歳ではないかと推測する。

 自分より四歳も下の少女に入れ込んでいる姿に見苦しいと思ったが、義弟である自分も義姉に対する並々ならぬ想いを寄せていることを考えると、思い上がりも甚だしいなと思う。

 薫は欲しい情報を手に入れることができたので、これ以上二人の楽しい時間を長引かせる必要はないと判断し、日差しに当たってほんのり赤くなった絹依の腕に抱きついた。


「ぬい姉様。そろそろ中に戻りませんか? ぬい姉様の白い肌が赤くなってしまっています。それに僕……日に当たりすぎたのか、少しめまいがするんです……」

「まあ! それは一大事だわ! 早くお邸に戻りま――」

「絹依さん! まだ話したいことが沢山あるんだ。迷惑でなければ、今からお邸にお邪魔しても構わないだろうか?」


 ――迷惑に決まっているだろう!


 薫は槍輔を睨みながら、絹枝の腕に絡ませた自身の腕に力を込めた。


「えっ、ええ! もちろんですわ。折角、こうしてお会いすることが出来たのだもの。槍輔さんさえよろしければ、うちに寄っていってくださいな」

「な……っ、ぬい姉様!?」

「あら。どうなすったの、かおくん。顔色がよろしくなくってよ。早くお邸に戻って横になったほうが良いですわ。ね?」

「……はい。ぬい姉様」


 薫は、自分の発言が裏目に出てしまったことに唇を咬みしめながら、身体を優しく支えてくれる絹依の肩越しに槍輔を見遣った。麦わら帽子を脱いで階段を降りてくる槍輔は、日に透けて茶色く見える色素の薄い髪と、チョコレートのように茶色い瞳をした垂れ目がちの甘い風貌の男だった。


 ――見た目では、どう見ても薫の方が勝っている。


 だというのに、絹依が槍輔を見つめる瞳には、隠しきれない好意の色が見て取れた。然れど、其の好意は、『尊敬』に近いものに思えた。

 絹依は、『恋心』や『愛』というものに対して、非常に鈍感な少女であった。そうでなければ、早々に薫の恋心に気づいていただろうし、槍輔の瞳に宿る熱の意味にも何かしらの反応を示したはずだ。

 さりとて、絹依は薫に対して、家族以上の情を抱いていないのも確かだった。

 邸のポーチにたどり着き、少し高い場所から槍輔を見下ろす。槍輔の人懐っこそうな優しげな風貌と、士官学校で鍛えられたのであろう均整のとれた体格。絹依の身体をすっぽりと包みこんでしまえる長身は、今の薫が持ち得ないものばかりであった。


「……気に入らない」


 無意識に口からこぼれ落ちた悪態は、青葉を揺らす風の音にかき消され、絹依の耳には届かなかったようだ。


 ――この男槍輔は危険だ。絹依から遠ざけなければ。


 そう黒々とした感情を腹に溜め込んでいると、しかる間、女中の千代子が草履を履いて薫の元に駆け寄った。


「あらまあ、お坊ちゃま。お顔が火照っていらっしゃいます」

「大丈夫です、千代子さん。……確かに先程までは、めまいと軽い頭痛を感じていたのですが、涼しい所に戻って来たら落ち着いたみたいです!」


 満面の笑顔で言っても信用しない、頭の硬い千代子に辟易しつつ、若干強引に絹依と槍輔の元に案内をさせる。玄関ポーチからすぐの客間で、吾桑夫妻が快く槍輔を歓迎している様子を見て、薫はますます槍輔のことを嫌いになったのであった。

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