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第七話 吾桑薫 弐

 いつもより更に晴天を近くに感じる、蒸し暑い夏のある日。少しでも涼しくなるようにと、義姉あね絹依きぬえが、部屋の窓辺に洒落た風鈴を下げてくれた。

 れど、この日の暑さは尋常ではなく、薫は詰襟つめえりの第三ボタンまで外していたのであった。蟀谷こめかみから流れた汗が頬から顎先へ伝っていき、ポタリと鎖骨のくぼみに落ちた。不快に思って、手拭いで拭き取ろうとした手首を先生――高等師範学校に通う男子生徒に捕らえられ、生温かくヌメヌメとした舌で、くぼみの汗を舐め取られてしまう。その一瞬の出来事に、薫の脳の情報処理が追いつかないでいた。ただ先程よりも蝉の鳴き声がひどく大きくなった気がして、どこか他人ひと事のように、うるさいなぁと思ったのであった。

 何も言わず抵抗もしない薫を、先生は酷く渇きを覚えたように、じっと見つめている。それに気がついた薫の、けがれのない蒼穹の瞳が、先生の切羽詰まった視線と交わった。

 先生の血走ったまなこに映る薫の容貌は、少女のように無垢で愛らしく、けれど淑女のような色香も匂わせるものであった。其れは、生真面目な男の理性を失わせるに十分な、赤く瑞々しい悪魔の果実のようでもあった。


 ――ああ。食べられてしまう。


 漸く薫が危機感を覚えた瞬間、先生は、薫と唇を重ねようと顔を近づけ――


「一体、何をなさっておられるのです!?」


 盆の上に冷えた麦茶を載せた絹依が、顔を真赤まあかに染めて眦を吊り上げ、わなわなと肩を震わせている。薫にとっては其れすらも暑さによる夢幻の如く。木偶の坊のようにただそこに在るだけの薫を押しやって、先生が上着と鞄を引っ掴んで走り去っていく。


「ちょっと、お待ちなさい!!」


 初めて聞く絹依の怒声が薫の鼓膜を震わせる。次いで、その場に盆を落として、先生を追いかける絹依の足音と、板張りの床に木の盆がコンカラカラと音を立てて落ち、硝子ガラスのコップがパリーン! とけたたましく割れる音を聞いて、薫はようやく自分の身に何が起こったのかを理解したのであった。

 汗をかくほど火照っていた身体の体温が急速に下がり、寒さを感じながら、同じ性別である男に、性の対象にされた恐怖に駆られた。全身が小刻みに震えて、歯の根が噛み合わずカチカチと鳴り、ただただ涙が流れていくばかりであった。

 騒ぎに駆けつけた義母ははに抱きしめられ、薫は漸く声を上げて泣くことが出来たのだった。――しかして、薫は泣くだけ泣いた後、気を失うように眠りについたのだという。

 逃げた先生の身柄は、たまたま邸に居た義父ちちと家令に取り押さえられたらしい。最初に先生を捕まえて、逃げないように拘束していたという絹依は、先生の激しい抵抗に合って軽い怪我を負った。其れを聞いた時、薫は初めて自己嫌悪に陥った。薫が日本男児らしく抵抗し、身柄を拘束していれば――と。

 れど薫はたかだか十二歳の子供である。冷静に考えれば、十七、八歳の男子学生に力で勝てる筈もなく。この日の出来事は、薫にとって晴天の霹靂で、精神的外傷トラウマとなったのである。されどもこの出来事が、のちに薫が修羅に生きるきっかけになるとは、誰も知りはしない。



◆◇◆◇◆◇



「かおくん、どうなさったの?」

「――ううん、なんでもないよ。ぬい姉様」


 さりとて、薫の言葉を簡単に信じる絹依ではないだろう。絹依は別荘に持っていく薫の衣服を畳んでいたのだが、その手を止めて衣服を端の方に避けると、薫をちょいちょいと手招いた。薫は、どうしたのだろう? と思って首をかたむけたが、想い人である絹依の要求に応えない、という選択肢は存在しなかった。

 薫は膝立ちのまま、緊張しながら、絹依ににじり寄っていく。しかうして、お互いの膝頭ひざがしらが触れ合う距離まで近づくと、絹依は薫の右肩をポンポンと叩いた。さて、絹依は穏やかに微笑みながら、自分の膝を指差したのだ。薫は驚愕に、ポカーンと目口を見開いた。――ひ、ひ、膝枕だって!? 其れも、愛する義姉さんの!!

 薫が一人で百面相をしていると、待ちくたびれた絹依の手によって、強制的に膝枕をされてしまった。薫の身体は緊張でガチガチに硬くなり、手汗脇汗足汗が酷いことになっている。臭くないだろうか? そう思った時だった。


「――不思議だわ。かおくんの身体を撫でていった風から、ラベンダーの爽やかな香りがするのよ。ほんのり土の匂いがして、とても落ち着きますこと」


 ズボンの尻ポケットに入れておいた栞のラベンダーの香りが薫を救ってくれた。元はと言えば、絹依が花冠を贈ってくれたことがきっかけである。あの頃は、絹依の花冠に救われた気持ちがしたが、今回も再び救われてしまった。


「……僕はぬい姉様に助けてもらってばかりで、情けない男だよね。こんな弱い男、ぬい姉様はお嫌いでしょう?」

「なにを馬鹿なことを! かおくんはこれから強く逞しい日本男児におなりになるのです! まだ十二歳になったばかりだというのに、今から悲観的になってどうするのです? まだまだ人生は続いていくのですよ? ……それに。たとえ、どのようなことが起ころうとも、わたくしがかおくんを嫌いになることなど万が一にもありませんわ」

「万が一にも?」

「ええ。だって、初めて出会った時からずっと、かおくんはわたくしの自慢の義弟なのですもの。これは、わたくしの本心でしてよ。信じていただける?」


 俯いたまま首を傾けた絹依を見上げて、ああ、やはりこの女性ひとを愛している。と、薫は心臓を高鳴らせながら、ふわりと微笑みを浮かべた。


「はい、信じます。大好きな、ぬい姉様のお言葉ですから」


 いつも胸に秘めている『愛してる』の気持ちを『好き』だと言って誤魔化す。

 然れど、絹依には充分だったようで、花がほころぶような笑顔を見せてくれたのであった。

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