大正十年、夏。
時が経つのは早いもので、薫が
「――あっ、いけないっ!」
薫は足元の鞄や衣類を蹴って机に駆け寄ると、風にさらわれる寸前に、大切にしている花の栞を手にすることが出来た。手先が不器用な絹依が、薫のために一生懸命作ってくれた花冠の一部――ラベンダーとヒメジョオンを押し花にして、薫が手作りした栞を壊れ物のように胸に
トトトと、こちらに向かってくる足音が聞こえて、薫は栞をズボンの尻ポケットに隠し入れた。木製の扉がコンコンと叩かれる。其れに返事をして入室を許可すると、
薫の部屋に入ってきた淑女は、
「かおくん! お支度はお済みになりましたの?」
ハッと気づけば、絹依は二歩分の距離に居た。「いや、まだ途中です」と言えば、絹依はじいっと薫の首元を見つめてきた。薫は成長し、身長が伸び、目線の高さは絹依とほぼ同じになっている。絹依の顔が近すぎて、心臓がどきどきと、強く拍動した。
一刻も早く落ち着きたくて、薫は何をしに来たのかと、絹依に問いかける。すると絹依は、
「かおくんのお手伝いに参りましたの。わたくしのお支度は済みましたから」
と言って、日焼けしていないスラリとした白い指先を、
「かおくんったら。こんなに暑いのだから、詰襟の釦くらい外しなさいな。……今は夏季休暇中でしてよ」
絹依の言葉にハッとする。同時に、激しく高鳴っていた心臓が急速に
「そうだったね、ぬい姉様。もう
薫は自分の手で、詰襟の釦を二つ外した。たったこれだけのことで、得も言われぬ開放感を得て、外から流れ込んでくる風が涼しく感じた。晴れやかな気持ちで絹依を見ると、絹依は親指の爪をカリッと噛んで、暗い表情を浮かべている。――このままにしておいては、絹依の美しい爪が傷ついてしまう。
薫は、絹依の大好きな愛らしい微笑みを作り、絹依の肩にそっと手を置いた。すると、光を失っていた黒い瞳に輝きが戻り、白磁のような肌がほんのり赤く色付いた。
「……かおくん。本当に、もう大丈夫ですの?」
「うん。大丈夫だよ。僕だって、日本男児なんだ。いつまでも引きずってはいないし、休み明けには違う先生が来るって、お義父様がおっしゃっていたから」
「そう……かおくんがそう言うのなら、わたくし、信じるわ」
「心配かけてごめんね。でも、心配してくれてありがとう。ぬい姉様」
「いいのよ。わたくし達は、たった二人きりの
薫が微笑みを浮かべると、絹依も笑顔を見せてくれた。――そう、それでいい。絹依から美しい笑顔を奪う存在は許さない。それが己自身であっても。
いつもの調子を取り戻した絹依に、薫は準備が終わらないんだと泣きついた。すると絹依は、「お姉様にお任せなさい!」と言って、
今回の『出来事』がなければ、薫は一生気づかないままでいただろう。己の容貌やしなやかな肢体が、男を誘惑してしまうということを。
薫は、あの『出来事』を思い出しそうになり、ふるりと肩を震わせた。蒸し暑い筈なのに、鳥肌が立ち、身体が内側から冷えていく。薫はチラリと絹依の姿を盗み見た。絹依は薫の言葉を信じ、荷造りに没頭している。其れに安堵の息を吐いて、薫は開けっ放しの窓から、突き抜けるような夏の青空を眺めた。
忌々しい『出来事』が起こったのは、今日のように青空が広がる、蒸し暑い日であった。