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第六話 吾桑薫 壱

 大正十年、夏。

 時が経つのは早いもので、薫が吾桑あそう家の養子となってから、既に二年が経過していた。絹依きぬえが通う東京高等女学校は、夏季休暇に入っていた。いで、高等師範学校の生徒に家庭教師として通ってもらっていた薫も、生徒の夏季休暇に合わせて休暇となっている。――あと四十日間も絹依の、白い一本線が入った紫紺しこん袴姿を見られないのかと思うと寂しかったが、昨年と同じく一緒に過ごせるのは純粋に嬉しいのであった。

 しかうして、七月も終わりに近づくと、吾桑家は猫の手も借りたい程に忙しくなる。れは、家族全員と一部の使用人達を連れて、軽井沢の別荘へと出掛けるためだった。大体の準備は執事や女中メイドがしてくれる。

 れど、己の持ち物ばかりは、各自で準備しなくてはならなかった。なので薫は、二本手の手提鞄ボストンバッグに着替えや、読書用の本を入れていく。しかる間、開けっ放しにしていた格子窓から入ってきた風に撫でられ、机の上に置いていた読みかけの本のページがぱらぱらとくられていった。


「――あっ、いけないっ!」


 薫は足元の鞄や衣類を蹴って机に駆け寄ると、風にさらわれる寸前に、大切にしている花の栞を手にすることが出来た。手先が不器用な絹依が、薫のために一生懸命作ってくれた花冠の一部――ラベンダーとヒメジョオンを押し花にして、薫が手作りした栞を壊れ物のように胸にいだく。栞の台紙に染み付いた、ラベンダーの爽やかな香りが、薫の鼻腔びくうに広がった。次いで、思い出すのだ。純粋な愛の気持ちを抱いたあの頃を。

 トトトと、こちらに向かってくる足音が聞こえて、薫は栞をズボンの尻ポケットに隠し入れた。木製の扉がコンコンと叩かれる。其れに返事をして入室を許可すると、躊躇ためらうことなく扉が開いた。

 薫の部屋に入ってきた淑女は、淡黄たんこう地に薄桃色の薔薇の手描き染めが美しい、で織りあらわされている着物を着ていた。其れに、普段は背中に流したままのぬばたまの髪を、ラジオ巻きにして薄桃色の細いリボンを結んでいる。――なんと涼し気で、可憐なのだろう。


「かおくん! お支度はお済みになりましたの?」


 ハッと気づけば、絹依は二歩分の距離に居た。「いや、まだ途中です」と言えば、絹依はじいっと薫の首元を見つめてきた。薫は成長し、身長が伸び、目線の高さは絹依とほぼ同じになっている。絹依の顔が近すぎて、心臓がどきどきと、強く拍動した。

 一刻も早く落ち着きたくて、薫は何をしに来たのかと、絹依に問いかける。すると絹依は、


「かおくんのお手伝いに参りましたの。わたくしのお支度は済みましたから」


 と言って、日焼けしていないスラリとした白い指先を、詰襟つめえりシャツのボタンにひっかけた。


「かおくんったら。こんなに暑いのだから、詰襟の釦くらい外しなさいな。……今は夏季休暇中でしてよ」


 絹依の言葉にハッとする。同時に、激しく高鳴っていた心臓が急速にいでいく。薫は一瞬だけ躊躇ったのち、絹依の小さな手を優しく掴んだ。――身長は変わらずとも、手足の大きさは、薫の方が勝っている。


「そうだったね、ぬい姉様。もうは来ないのだから、釦を緩めたっていいんだよね」


 薫は自分の手で、詰襟の釦を二つ外した。たったこれだけのことで、得も言われぬ開放感を得て、外から流れ込んでくる風が涼しく感じた。晴れやかな気持ちで絹依を見ると、絹依は親指の爪をカリッと噛んで、暗い表情を浮かべている。――このままにしておいては、絹依の美しい爪が傷ついてしまう。

 薫は、絹依の大好きな愛らしい微笑みを作り、絹依の肩にそっと手を置いた。すると、光を失っていた黒い瞳に輝きが戻り、白磁のような肌がほんのり赤く色付いた。


「……かおくん。本当に、もう大丈夫ですの?」

「うん。大丈夫だよ。僕だって、日本男児なんだ。いつまでも引きずってはいないし、休み明けには違う先生が来るって、お義父様がおっしゃっていたから」

「そう……かおくんがそう言うのなら、わたくし、信じるわ」

「心配かけてごめんね。でも、心配してくれてありがとう。ぬい姉様」

「いいのよ。わたくし達は、たった二人きりの姉弟していなんですもの」


 薫が微笑みを浮かべると、絹依も笑顔を見せてくれた。――そう、それでいい。絹依から美しい笑顔を奪う存在は許さない。それが己自身であっても。

 いつもの調子を取り戻した絹依に、薫は準備が終わらないんだと泣きついた。すると絹依は、「お姉様にお任せなさい!」と言って、たもとからたすきを取り出した。襷掛たすきがけをする絹依の後ろ姿に微笑みかけて、薫は荷造りを再開した。――絹依には、大丈夫だと言ったが、スースーと風通しの良くなった首元に心許なさを感じる。

 今回の『出来事』がなければ、薫は一生気づかないままでいただろう。己の容貌やしなやかな肢体が、男を誘惑してしまうということを。

 薫は、あの『出来事』を思い出しそうになり、ふるりと肩を震わせた。蒸し暑い筈なのに、鳥肌が立ち、身体が内側から冷えていく。薫はチラリと絹依の姿を盗み見た。絹依は薫の言葉を信じ、荷造りに没頭している。其れに安堵の息を吐いて、薫は開けっ放しの窓から、突き抜けるような夏の青空を眺めた。


 忌々しい『出来事』が起こったのは、今日のように青空が広がる、蒸し暑い日であった。



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