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第四話 吾桑絹依 壱

 食器とカトラリーが触れるほんの僅かな音と、小鈴の音に似た可憐な笑い声が食堂ダイニングに響く。笑い声が絶えない朝食の席は、吾桑あそう伯爵家の日常風景で、その中心には、吾桑家にとって太陽のような存在である、絹依きぬえの姿があった。


「それでね、お父様。桜子さんったら、『お菓子を頬張る姿が栗鼠リスみたいですわね』って笑いましたのよ? わたくし、頬張ってなんかいないわっ。きちんと、お行儀よくいただいていたもの。失礼しちゃう!」


 ぷりぷりと怒りながら朝食のオムレツを頬張る姿が、まさに『栗鼠』そのもので、父と母は顔を見合わせて吹き出した。其れに驚いて手を止めた絹依は、含み笑う両親を見て怪訝な顔をする。


「……お二人とも、どうしてお笑いになるの? わたくしは怒っておりますのよ?」


 気分を逆なでされた気がして気を害した絹依は、付け合わせのチェリートマトに、怒りのままフォークを突き立てた。真赤まあかに色づいた果実を、口の中に放り込み、もぐもぐと咀嚼する。チェリートマトを噛んだときの厚い皮が弾ける感触と、中から甘い果実と果汁が溢れる食感が、絹依は大好きだった。先程までの不機嫌さは消え失せ、チェリートマトを美味しそうに頬張る姿は、まさしく『栗鼠』そのものであった。


「……妻よ」

「ええ、旦那様」

「あれは栗鼠だね」

「ええ、立派な栗鼠ですわね」


 神妙な面持ちで頷き合う両親を見て、絹依はもぐもぐと口を動かしながら、こてんと首をかたむけた。其の愛らしい姿を見て、両親は再び顔を見合わせると、堪らずプッと吹き出した。ハハハ! ホホホ! と笑い声を上げる両親を見て、絹依はむうっと頬を膨らます。そして又もや笑い出す両親の姿に、絹依は「もうっ! 知りませんわっ」と言って席を立った。

 本日、高等女学校は休みである。天気も良いので、園芸ガーデニング日和だ。絹依は伯爵令嬢ながら、土いじりや花を育てることが趣味だった。初夏の早朝は涼しく、空気も澄んでいる。


 ――きっと、花の世話をしている間に、気分も良くなることだろう。


 絹依がさっそく身支度をして庭園に向かおうとしたところで、父に呼び止められた。予定が決まったことで気分良くなっていた絹依は、機嫌良く後ろを振り向いた。父はナプキンで口元を拭くと椅子から立ち上がる。――どうやらこれから出掛けるようだ。


「絹依。庭園に行くのだろう? 私もこれから外出するんだよ。玄関まで一緒に行こう」

「あら、お父様。こんなに朝早くからどちらに?」


 聞けば、以前から話題に上がっていた、傍系の男児を迎えに行くのだという。ここ数日、執事長や女中メイドたちが忙しなかったのはそのせいだったのかと、絹依は今更ながら納得した。であれば、土いじりをしている場合ではないのではないか。絹依がしょんぼりと落ち込むと、父は大きな手で絹依の頭を優しくなでた。


「麻生家は帝都の外れにある。行って戻って来る頃には昼になっているだろう」

「でしたら、土いじりをしてもよろしいの?」

「ああ。せっかくの休日だ。有意義に過ごしなさい」


 父の言葉に、絹依はぴょんと飛び跳ねて、トトトと食堂を後にした。その後ろをゆったりとした足取りで父が追いかけてくる。絹依は真赤まあかな振り袖をひるがえして、父を振り返った。ペルシア絨毯張りの客間を歩きながら、迎えに行く子はどのような子か尋ねる。すると父は眉尻を下げて神妙な面持ちになった。絹依が首を傾げると、父はピタリと歩みを止めた。同時に絹依も足を止める。


「……どうなさったの、お父様? 何か問題がある子なんですの?」

「お前は根が真っ直ぐな子だから心配していないのだが、今日迎えに行く子は混血児ハーフでね。聞けば、赤子の頃に母親を亡くし、父親の行方は知れず、麻生家では下男以下の扱いを受けているらしい」

「まあ……なんて酷い。その子に罪は無いではありませんか!」

「……お前なら、そう言ってくれると思っていたよ」


 客間で佇立ちょりつしていると、父のジャケットとシルクハット、ステッキを抱えた執事長が階段ホールから現れた。どうやら存外、立ち話をしすぎたようであった。急いで身支度を整えた父は、執事長と共に玄関へと向かった。その頃になると、食事を終えた母も絹依と合流し、玄関ポーチで父を見送った。アイアン製の柵の向こうに、黒い車が見える。父はこちらを向いて、シルクハットを持ち上げると、車に乗り込み視界から消えていった。

 絹依は母と父の車を見送ったのち、胸中にモヤモヤとした不快な気持ちが渦巻いているのを感じていた。絹依の様子を心配した母に、絹枝は父から聞いたことを包み隠さず話したが、其れは母も知っている情報であった。


「『可哀想な子』として接するのは、失礼にあたるでしょうからね。今まで辛い思いをしてきた分、吾桑家では温かく迎えてあげましょう」

「お母様のおっしゃる通りね。……あっ! ねえ、お母様! こういうお迎えの仕方はいかがかしら? 喜んでもらえると思いまして?」


 絹依が母に提案した内容は、実に絹依らしく、真心がこもった物であった。母は、絹依の真っ直ぐで優しい性分を誇らしく思いながら、たすき掛けをする絹依の後ろ姿を見守ったのであった。

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