薫は
――自分にも、せめて父親がいれば。
などと、
薫の気が沈みかけていたとき、走り続けていた車の速度が落ちていき、やがてゆっくりと停車した。
「薫、見なさい。あそこが今日からお前の家になる屋敷だよ」
吾桑伯爵――
「……わあ〜〜!」
薫は身体ごと振り向いて、感嘆の声をもらしながら、車窓から外の風景に見入った。薫の視線の先には、陽光を反射する白塗りの壁に、蒼天にも勝る蒼い屋根が美しい、立派な洋館が建っていた。
「気に入ったかね?」
「はい、とっても!」
義父は、
「さあ、降りよう。薫」
「はい、お
薫は車から地面に着地するときにたたらを踏んだ。生まれて初めて車に乗ったせいか、頭がふわふわとして、地に足がついていないような不思議な感覚に襲われる。心配する義父に、大丈夫だと伝えて、奇妙で面白い感覚を楽しんだ。しかして、平衡感覚が戻って来ると、薫は森の中にひっそりと佇む洋館を眺めた。
今の季節は初夏。
瑞々しい若葉が青々と生い茂り、アイアン製の
運転手が門扉を開けてくれ、薫は、門扉を通り抜けた義父の後ろをついて行く。地面には敷石が敷かれており、その左右には苺の花に似た黄色い小さな花――ポテンティラや、青や紫に白といったヤグルマギクが咲き乱れていていた。薫はまるで、花の世界に迷い込んだみたいだと思った。ずっと足元を見ていたので、今度は上を見上げてみる。すると、美しく咲き誇る
花と緑のアーチを通り抜けると、几帳面に芝生が敷かれた、開けた場所に出た。ここにも、そこかしこに花々が咲いており、話に聞いたことのある『妖精の国』にでも来てしまったのではないだろうかと思ってしまう。薫がうっとりと陶酔感に浸っていると、白いガーデンテーブルの椅子に座っていた、女性と少女が立ち上がった。
「あなた、おかえりなさいませ」
「お父様、おかえりなさい!」
「ああ、ただいま。絹依。喜ぶといい。お前の
義父が手招きするので、薫は、女性と少女が並び立っている場所まで歩みを進める。緊張しながら義父の横に並び立つと、目の前に立つ少女に、がしっと両手を握られてしまった。驚いて見開いた、ビー玉のように透き通った蒼い瞳に映ったのは、薫の短い人生で初めて目にする美少女の
薫の
「あなたがわたくしの弟になるお方ですの?」
小鈴の音に似た愛らしく響く声に、薫はふっくらとした頬を、
「は、はい! 薫と申します!」
「わたくし、
おっとりと朗らかに笑う絹依に、薫は「よろしくおねがいします。ぬい姉様」と言った。すると絹依は、心の底から嬉しいと言わんばかりに、太陽のような笑顔を見せた。そのまばゆいばかりの笑顔に、薫の心は一瞬で奪われてしまった。それは薫が、絹依に一目惚れし、生まれて初めて『愛』という感情を抱いた瞬間だった。
「お父様ったら酷いわ! かおくんがこんなに愛らしい子だなんて、わたくし聞いておりませんでした」
「か、かおくん……?」
「あら、いやだ。わたくしったら。薫さん。わたくし、薫さんのことを、『かおくん』とお呼びしたいの。……駄目かしら?」
絹依は握りしめたままの薫の両手を、着物の合わせ目まで持ち上げて、こてんと首を
――絹依の表情と仕草の、可憐で可愛らしいこと! このように懇願されて、断れる日本男子がいるだろうか? いや、いない。
薫は顔を
「かおくん、お顔が真っ赤ですわよ? 照れていらっしゃるのね? ああ、なんて可愛らしいのかしら! かおくんみたいな、綺麗で愛らしい
「ぼ、僕も! ぬい姉様みたいな、美人で優しいお姉様ができて、とても幸せ者だなって思っています!」
「あら。それじゃあ、わたくし達は両思いですわね!」
うふふ、と心から嬉しそうに笑う絹依は