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第三話 吾桑薫 壱

 薫は吾桑あそう伯爵と車中で打ち解けたことで、生まれて初めて、『父親』という存在の偉大さを痛感していた。吾桑伯爵――父親とは、くも頼もしく、思いやりがあり、優しい存在なのかと、驚嘆きょうたんするばかりだった。次いで、皇室の藩屏はんぺいである華族として、誇りと責任を重んじる姿勢には尊敬の念を抱いた。


 ――自分にも、せめて父親がいれば。


 などと、せんないことを考える。父がいれば、母がいれば、などと考えるのは、うの昔に止めたというのに。

 薫の気が沈みかけていたとき、走り続けていた車の速度が落ちていき、やがてゆっくりと停車した。


「薫、見なさい。あそこが今日からお前の家になる屋敷だよ」


 吾桑伯爵――義父ちちが車窓の外を指差した。薫はその指先を目で追って後ろを振り返る。


「……わあ〜〜!」


 薫は身体ごと振り向いて、感嘆の声をもらしながら、車窓から外の風景に見入った。薫の視線の先には、陽光を反射する白塗りの壁に、蒼天にも勝る蒼い屋根が美しい、立派な洋館が建っていた。


「気に入ったかね?」

「はい、とっても!」


 義父は、ようやく見ることができた、薫の年相応の反応に笑みを深める。その間に運転手が車を降りて扉を支えた。


「さあ、降りよう。薫」

「はい、お義父とう様!」


 薫は車から地面に着地するときにたたらを踏んだ。生まれて初めて車に乗ったせいか、頭がふわふわとして、地に足がついていないような不思議な感覚に襲われる。心配する義父に、大丈夫だと伝えて、奇妙で面白い感覚を楽しんだ。しかして、平衡感覚が戻って来ると、薫は森の中にひっそりと佇む洋館を眺めた。

 今の季節は初夏。

 瑞々しい若葉が青々と生い茂り、アイアン製の門扉もんぴ近くの木の幹には金銀花スイカズラが巻き付いて、白と黄の花はそよそよと風に揺れている。義父に促されて門扉に近づいてみれば、柵に絡まる茉莉花ジャスミンの甘く爽やかな香りが、薫の小さな鼻腔を満たしてうっとりとした気分にさせてくれた。

 運転手が門扉を開けてくれ、薫は、門扉を通り抜けた義父の後ろをついて行く。地面には敷石が敷かれており、その左右には苺の花に似た黄色い小さな花――ポテンティラや、青や紫に白といったヤグルマギクが咲き乱れていていた。薫はまるで、花の世界に迷い込んだみたいだと思った。ずっと足元を見ていたので、今度は上を見上げてみる。すると、美しく咲き誇る木香もっこう薔薇の、淡い黄色と緑のアーチがかかっていた。上を向いたまま歩を進めると、薔薇と葉の隙間から、毎回違った空が見えて心が踊った。

 花と緑のアーチを通り抜けると、几帳面に芝生が敷かれた、開けた場所に出た。ここにも、そこかしこに花々が咲いており、話に聞いたことのある『妖精の国』にでも来てしまったのではないだろうかと思ってしまう。薫がうっとりと陶酔感に浸っていると、白いガーデンテーブルの椅子に座っていた、女性と少女が立ち上がった。


「あなた、おかえりなさいませ」

「お父様、おかえりなさい!」

「ああ、ただいま。絹依。喜ぶといい。お前の義弟おとうとを連れて戻ったよ。――さあ、薫。こちらにおいで」


 義父が手招きするので、薫は、女性と少女が並び立っている場所まで歩みを進める。緊張しながら義父の横に並び立つと、目の前に立つ少女に、がしっと両手を握られてしまった。驚いて見開いた、ビー玉のように透き通った蒼い瞳に映ったのは、薫の短い人生で初めて目にする美少女のかんばせだった。

 薫の義姉あねになる可憐な少女は、赤い振り袖を着こなし、ぬばたまの黒髪を背中に流して、髪の一房だけを菫色のリボンと一緒に編み込んでいた。


「あなたがわたくしの弟になるお方ですの?」


 小鈴の音に似た愛らしく響く声に、薫はふっくらとした頬を、桜桃さくらんぼ色に染めた。


「は、はい! 薫と申します!」

「わたくし、吾桑絹依あそうきぬえと申します。お友達には『ぬい』とも呼ばれておりますの。よろしかったら、『ぬい姉様』とお呼びになって」


 おっとりと朗らかに笑う絹依に、薫は「よろしくおねがいします。ぬい姉様」と言った。すると絹依は、心の底から嬉しいと言わんばかりに、太陽のような笑顔を見せた。そのまばゆいばかりの笑顔に、薫の心は一瞬で奪われてしまった。それは薫が、絹依に一目惚れし、生まれて初めて『愛』という感情を抱いた瞬間だった。


「お父様ったら酷いわ! かおくんがこんなに愛らしい子だなんて、わたくし聞いておりませんでした」

「か、かおくん……?」

「あら、いやだ。わたくしったら。薫さん。わたくし、薫さんのことを、『かおくん』とお呼びしたいの。……駄目かしら?」


 絹依は握りしめたままの薫の両手を、着物の合わせ目まで持ち上げて、こてんと首をかたむけた。


 ――絹依の表情と仕草の、可憐で可愛らしいこと! このように懇願されて、断れる日本男子がいるだろうか? いや、いない。


 薫は顔を真赤まあかに染めて、こくこくと壊れた人形のように、何度も頷いてみせた。其れを見た絹依は、萎れていた花が息を吹き返すように、ふわりと花笑んで見せた。薫の心臓が、今にもはち切れてしまいそうなほど、激しく拍動した。


「かおくん、お顔が真っ赤ですわよ? 照れていらっしゃるのね? ああ、なんて可愛らしいのかしら! かおくんみたいな、綺麗で愛らしい義弟おとうとができて、わたくしはとっても幸せですわ!」

「ぼ、僕も! ぬい姉様みたいな、美人で優しいお姉様ができて、とても幸せ者だなって思っています!」

「あら。それじゃあ、わたくし達は両思いですわね!」


 うふふ、と心から嬉しそうに笑う絹依はまことの太陽のようで、薫は眩しげに目を細めて微笑んだのだった。

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