目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報
第二話 麻生薫 弐

 吾桑あそう邸へ向かう道すがら、薫は初めて乗った車の揺れにどぎまぎしつつ、吾桑伯爵から事の経緯を聞かされた。全ての発端は、吾桑伯爵家に男児が誕生しなかったことにあった。

 華族令によって、嗣子ししは男系子孫の世襲でなければならず、伯爵位を相続させなければ財産は国に没収され、お家お取り潰しとなってしまう。しかして華族には、皇室の藩屏はんぺいとして皇室を支え、四民の範となる義務がある。

 それ故に吾桑伯爵は、後継者に足り得る血族の男子――薫を必ず迎える必要があったのだという。


「――だが、麻生男爵に渋られてしまってね。の家は資金難に陥っていただろう? 非常に不本意ながら、麻生男爵に提示された金額で、君を買い取らせて貰った。……このような話を幼い君にするのは酷な話だろうが、遅かれ早かれわかることだ。ならば、包み隠さず、私の口から伝えるべきだと思ってね」

「……いいえ。ありのままを話してくださってありがとうございます」


 薫は鳥打帽とりうちぼうしを脱いで、深々と頭を下げた。其の姿を見た吾桑伯爵は、目尻の皺を深くして、小さな金髪の頭を見下ろした。この礼儀正しく素直な良い子が、十になるまで不当な扱いを受けていたと思うと、胸を締め付けられる思いがした。


「そうだ。薫くん」

「はい。なんでしょう?」

うちには、十二歳の一人娘が居るのだよ。名を『絹依きぬえ』と言うのだが、絹依についても話しておかなければならない」


 そう言った吾桑伯爵が真剣な眼差しを向けてきた。


 ――余程、重要な話なのだろう。


 そう考えた薫は身体ごと吾桑伯爵に向き合うと、いつも隠して生活してきた両眼の碧眼で、吾桑伯爵の黒々とした瞳をじっと見上げた。

 吾桑伯爵は、薫の誠実な態度に満足しながら話始める。其の話の内容は、薫にとって、思いも寄らないものだった。


「ぼ、僕が吾桑伯爵様の御息女と婚約……!?」

「――と言っても、何も今すぐに、という話ではないのだがね」

「そっ、そうですか……」


 薫はほっと息を吐いて、驚きと緊張のあまり一気に乾燥してしまった口を、もごもごと動かした。


「……私の娘と婚約するのは嫌かね?」

「いっ、いえ! 嫌というわけではなく……!」

「父親の私が言うと、色眼鏡で見ていると思うかもしれないが、絹依は気立てがよく器量よしでね。するなら、それ相応の相手でなければ、到底手放せないと思っているのだよ」


 吾桑伯爵の子煩悩ぶりに呆れることなく、薫は当然だと言わんばかりに、真剣な面持ちで相槌を打つ。吾桑伯爵は、年端のいかぬ薫の早熟た顔を見て、そうならざるを得ない環境で育った薫を不憫に思った。


「今日から君は、公家華族・吾桑伯爵家の嗣子となる。そして弱冠の頃になれば、絹依と婚姻を結び、吾桑伯爵家繁栄の為に尽力してもらわねばならぬ。……君の人生は私が買った。行く末も決まっている。不満に思うだろうが、承服してもらわねばならないのだ」


 そう言って、吾桑伯爵は、シルクハットを脱いで頭を下げてきた。薫は思わぬ出来事に吃驚びっくりして狼狽うろたえてしまう。頼むから頭を上げてくれと懇願しても、吾桑伯爵は首を縦に振らない。困り果てた薫は、たった一言「わかりました」と言った。漸く顔を上げた吾桑伯爵に、薫は図々しくも一つ提案を挙げた。其れは、絹依の自由恋愛を認めてあげてほしいというものであった。


「僕は今まで、人間ひととしての扱いを受けてきませんでした。その原因は、この見目です。僕の母は、望まぬ御方との婚姻を嫌がった末、当時ピアノ講師としてお邸に出入りしていた家庭教師と深い仲になりました。……僕を産んで母は亡くなってしまったので、真相は藪の中ですが、母は本当に父を愛していたのでしょうか? そして、僕の父は何処に消えてしまったのでしょうか? ……僕にはただ、母が現実から目を背けたようにしか思えません」

「薫くん……君は……」

「ですから僕は、吾桑伯爵様の御息女には、心の底から愛する殿方と一緒になって頂きたいのです。僕の新しい……いえ。の家族には、幸せになって欲しい……ですから――」


 尚も言い募ろうとした薫の肩に、吾桑伯爵の大きくて温かい手が優しく置かれた。


「……みなまで言わずとも、薫くんの、絹依をおもんぱかってくれる気持ちは、十分に伝わったよ」

「では――」

「ああ、良いだろう。君の望みを叶えよう。――ただし、条件はつけさせてもらうよ」


 吾桑伯爵が提示した条件とは、絹枝が高等女学校を卒業する十七歳までに婚約相手が見つからなければ、予定通りに薫と婚約させるというものであった。薫は大変満足し、何度も何度も頭を下げて喜んだ。これで絹依は――薫の義姉となる女性は、辛い婚姻をせずに済むのだと、薫の母とは違った人生を歩むことが出来るのだと、涙を流して喜んだのだった。


 ――れど、この時の自分を、薫は一生恨むことになる。


 かくの如き未来が待っていることなど知る由もない薫は、初めて『家族』の一員となれることに歓喜し、新たな生活に心を躍らせていたのであった。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?