第一次世界大戦の終結を期に、西洋文化が定着し、大衆文化が花開いた時代。
――大正。
その頃おいに、白壁に蒼い屋根が美しい洋館――
没落寸前の傍系の麻生家から買い取られた薫は、アイアン製の柵や門扉に絡まる
「あなたがわたくしの弟になるお方ですの?」
小鈴の音に似た愛らしく響く声に、薫はふっくらとした頬を、
「わたくし、吾桑絹依と申します。お友達には『ぬい』とも呼ばれておりますの。よろしかったら、『ぬい姉様』とお呼びになって」
おっとりと朗らかに笑う絹依に、薫は「よろしくおねがいします。ぬい姉様」と言った。すると絹依は、心の底から嬉しいと言わんばかりに、太陽のような笑顔を見せた。そのまばゆいばかりの笑顔に、薫の心は一瞬で奪われてしまった。それは薫が、絹依に一目惚れし、生まれて初めて『愛』という感情を抱いた瞬間だった。
この当時、薫は十歳。絹依は十二歳であった。
◆◇◆◇◆◇
没落寸前の麻生男爵家には『鬼の子』がいる。されども、その
しかし母を殺して生まれてきた赤子は、祖父母に疎まれており、幼い頃から下男の扱いを受けて育った。この日もいつもと変わらず、炊事と洗濯を終わらせて、
さて、薫の視線など構わず、
――見られてしまっただろうか? この忌々しい青い瞳を。
薫は、難癖をつけられる前に謝ってしまおうと思い、竹箒を地面に置いて両膝をついた。視界の端に、黒光りする革靴のつま先が見えたので、今だ! と思い頭を下げようとした。が、何故か上体を倒すことができない。不思議に思ってのろのろと男を見上げると、男は人好きのする笑顔を浮かべて、薫の栄養失調気味でやせ細った肩を優しく叩いたのだ。
薫は衝撃を受けた。この世には、
男は薫を立ち上がらせて、むき出しの膝についた石粒や砂汚れを払ってくれる。こんなことをされたのは生まれてこの方初めてで、薫は対応に困ったが、結局されるがままでいた。薫はふと思う。父親とは、この男のように頼もしく、温かい手を持った存在のことをいうのではないかと。
「さあ、これで綺麗になった」
「……あの、ありがとう……ございます。旦那様」
「いいのだよ。君が突然ひざまづいた時は驚いたがね」
茶目っ気のある言い方をされて、薫の頬は熟した林檎のように
「ところで坊や。君の名前を教えてもらってもよろしいかね? 私は本家の
まさか名前を聞かれるとは思っておらず、薫は焦って鳥打帽を脱いだ。さらりと陽光に照らされて、眩いばかりの見事な金髪がさらに輝きを増していく。薫は白い肌の
「ぼ、僕の名前は、麻生薫と申します。……もしや、何か粗相をしてしまいましたでしょうか?」
名乗らされた理由が分からず、きっと何か別の理由で、叱責されるのだろうと思っていた。すると吾桑伯爵は身を低くして、薫の碧眼を覗き込んできた。吾桑伯爵の目尻には、笑い皺が深く刻まれており、ますます温かみを感じる薫であった。
「いいや。粗相などしていないよ。それよりも、薫くんは幾つになるのかな? 聞いてもいいかい?」
「はい。旦那様。僕は今、十歳でございます」
「十歳? ……もう少し幼く見えたのだが……身体つきのせいだろうか?」
「旦那様? いかがなさいましたか?」
「いいや、何でもないよ。……まだ幼いのにしっかりしているね。実に立派なことだ」
吾桑伯爵は、ゆっくり持ち上げた手を薫の頭に置くと、よしよしと優しく撫でてくれた。これもまた、生まれて初めての経験で、薫はこそばゆいような気分になった。
そうこうしていると、麻生家の邸の中から、
「私は本日、訪問の約束をしている吾桑だが……君は家令かね?」
吾桑伯爵に声を掛けられて、慌てふためいた家令は、深々と頭を下げた。
「お出迎えが遅れまして申し訳ございません」
「ああ。それは構わない。……だが家令よ。麻生家が資金繰りに苦しんでいると話には聞いていたが、もしや、使用人もまともに雇えなくなっているのかね?」
「はい? それはどういう……」
「私の目に異常がなければ、下男の仕事をしているこの子は、麻生家の次期ご当主に見えるのだが?」
吾桑伯爵の鋭い指摘に驚いたのは、家令だけでなく、話の中心人物である薫もだった。だらだらと脂汗を流し始めた家令を無視して、吾桑伯爵はステッキの
「そこに約束の額が入っている。これで麻生家は薫の親権を手放したことになる。すぐに弁護士がくるだろうから、出された書類にサインを頼むよ」
吾桑伯爵は家令に背を向けて、シルクハットを軽く持ち上げ、被りなおした。然して、ぼんやりしていた薫だったが、薫の紅葉のような手を吾桑伯爵が握ったことで我に返る。
「い、いけません、旦那様!」
「何がだい?」
「僕のような者に触れると不幸になります!」
必死で叫んだ薫の言葉を聞いて、吾桑伯爵は声を上げて快活に笑った。
――この御方は何故笑うのか。不幸が恐ろしくはないのだろうか?
薫が心中で不思議がっていると、吾桑伯爵は目尻に溜まった涙を拭い取り、太陽のように晴れやかに笑った。
「薫くん。君は、我が家に、幸運をもたらしてくれる子なのだよ」
「えっ?」
「はははっ! 話は道中、車内で話そうではないか。さあ、車に乗り給え」
「は、はあ……」
こうして薫は、虐げられ続けた麻生家から解放され、温かな吾桑家へと迎え入れられたのである。