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第14話

通常互いの両親への挨拶の後に行われることの多い両家顔合わせは、律さんの祖母・聡子さんの病気のこともあり、互いの納得の末に見送りとなった。

こうして結婚するための準備を終えた私たち。


そんな休日の朝、いつものように二人で朝食をとった後。

律さんに呼び止められて、私は改めてダイニングに座って律さんと向き合う。


「これに記入をお願いしたい」


そう言って、差し出されたのは婚姻届だった。


これが婚姻届。

テーブルの上に置かれたそれを、まじまじと見つめる。

漫画やドラマなどで見たことはあったけれど、こうして実物を目にするのは初めてだ。


渡された婚姻届には、すでに律さんの名前や住所などの情報が記載されていた。

これを書いて役所に提出してはじめて、私たちは法的な夫婦として認められることになるのだ。


「分かりました」


頷いてからペンを手に取る。


夫になる人―――早川律。

そして妻になる人―――宮内音。


私、本当にこの人と結婚するんだ。

今というほどに実感が湧いて、書く手が震えた。


「証人は高峰とその弟に頼んで、すでに記入してもらっている」


そう言われて確認すれば、確かに証人の欄には2人分の高峰の文字。

高峰さんは下の名前が優吾さんだったはずだから、こちらの翔さんが弟さんだろう。


「高峰さん、ご兄弟がいたんですね」


「ああ。あまり似ていないがな。

高峰曰く“自分から筋肉と元気と熱苦しさを足したのが弟”だそうだ」


確かにそれは、高峰さんとは似ていないかも。

今度お会いすることがあったらお礼を言おうと思いながら、私は間違えないよう慎重に記入を進めていく。


「書き終わりました」


そうして無事に記入が完了した婚姻届。

それを差し出せば、律さんが一通り確認した後に頷く。


「ありがとう。問題なさそうだ」


「よかったです」


「じゃあこれは後日役所に提出してくる。

ところでこの後時間はあるか?」


律さんからの質問に、特に予定などなかった私はそのままを答えた。


「それなら付いてきてほしい。

結婚指輪を選びに行こう」



自分でメイクをすると、あの日のパーティーでしてもらったプロのメイクの凄さがよく分かる。

そんなわけで当たり障りないメイクを施し、着替えをして、外出の準備ができたら律さんと共に家を出る。

マンションのエントランスを出れば、高峰さんが車を回して待っていてくれた。


「お待ちしておりました。どうぞ」


丁寧なエスコートを受け、車に乗り込む。

律さんも私の隣に座った。


「高峰さん、いつもすみません。

ありがとうございます」


「いえ。どうか私に気を使わないでくださいね」


相変わらずの物腰の柔らかさ。

この人に筋肉と元気と熱苦しさを足したという弟さんのイメージ図がますます想像できなくなる。

弟さんといえば、と私は口を開く。


「婚姻届けの証人の件もありがとうございました。

弟さんにもお礼をお伝えください」


「弟は何故か社長に憧れているようなので、奥様にお礼を言われたと知ったらきっと喜びます」


「何故かは余計だろ」


律さんが口を挟むも、高峰さんは「仕事に関しては私も尊敬していますよ。人使いは荒いですが」

そう微笑みながら言う。


仲良いなぁ。

さすが、秘密を共有する(元)唯一の人だっただけある。


そんな風に二人のやり取りを眺めていれば、ルームミラー越しに高峰さんと目が合った。


「ところで婚約届を出されたら”早川音”さんになられるのですね」


「へ、あ……そう、ですね」


そっか私、もう”宮内”じゃない。

”早川”―――律さんと同じ苗字になるんだ。


それがこの人と結婚するということ。

当たり前のようで、それは重い実感だった。


早川音、早川音、早川音……心の中で何度か繰り返す。

何だかくすぐったいような気持ち。

いやいや契約結婚だっていうのになに浮かれてるのと、緩みそうな顔を引き締める。


「何だかしっくりくる響きですね」


高峰さんがそう言うのに、思わず律さんの顔を見る。

私の顔を見つめ返して、少し目を逸らして。


「……そうだな」


律さんの口から出たその言葉に、やっぱり少し顔が緩んでしまった。



そうしてたどり着いたのは、貰った婚約指輪と同じ高級ブランドのお店。

もしかしなくても、結婚指輪もここで……?


「どうした?別のブランドが良かったか?」


店前で尻込みする私を見て、律さんが言う。


「い、いえ!

そういうわけではないんですが……」


でも絶対、お高いやつですよね。

これまでは近くに来ることがあっても素通りするばかりで、縁がないと思っていたお店だ。


そんな私の心情をつゆ知らず、律さんは迷いなく店内へと足を進める。

律さんに置いて行かれないよう、私も一緒に入店した。


まず、高級感溢れる店内の様子に圧倒される。

ガラスケースの中に飾られたジュエリーのあまりの煌びやかさに目が焼かれてしまいそうだった。


「好きな指輪を選んでくれ」


「ええっと……」


律さんに促され、ガラスケースの中の指輪を覗いてみる。

さすが女性の憧れとして真っ先に名が挙がるだけあって、どれもうっとりするくらい素敵だ。


その中でも目を惹かれたのは、ウェーブがかったデザインで中央に数粒ダイヤがはめ込まれている指輪。

でもそのお値段はギョッとするもので、慌てて他の指輪に目を向ける。


「よろしければお出ししますのでお申しつけくださいませ」


美人な店員さんにそう微笑まれ、何だか場違い感に逃げ出したくなりながらも、この場の中ではまだ価格が低い指輪を順に2つ指さした。


店員さんはにこやかなまま、ガラスケースから2つの指輪を取り出してくれた。

1つずつ指にはめてみる。

一番価格が低いといえども、一般的に見たら安くないお値段の指輪は、十分に綺麗なものだった。


それならもう、これでいいかも。

隣に立つ律さんを見上げ、そう口に出そうとした。


「こちらも見せてもらえますか」


律さんがそう指さしたのは、ウェーブがかったデザインで中央に数粒ダイヤがはめ込まれている指輪。

私が初めに惹かれたものだった。


「勿論です。どうぞ」


店員さんは素早く要望に応え、その指輪が私の前に差し出された。

もしかして、私が気になっていたことに、律さんは気づいていたの?

思わず律さんを見つめる。


「これもつけてみてくれ」


律さんに促され、私はその指輪を指にはめてみる。

……やっぱり綺麗。

こうして間近で見ると、ますます素敵な指輪だった。


「気に入った?」


律さんが私の指にはめられた指輪を見つめながら言う。


「……あ、でもやっぱりこっちを……」


それでもどうしても値段が気になってしまって、私は予定通り一番価格が低い指輪を選ぼうとした。


だってこれは契約結婚で、結婚指輪だってきっと長い間身につけることはない。

それに、ただでさえ婚約指輪に凄いものをもらってしまっているのだから、これ以上出費が嵩むのは避けた方がいいんじゃないだろうか。


「こちらをお願いします」


でも律さんが店員さんに頼んだのは、私が今指につけているウェーブのデザインの方の指輪だった。


「え? どうして……」


「こちらの方が音に似合うと思った。

それとも気に入らなかったか?」


律さんの言葉に、首を横に振る。


「それなら問題ないな。

もう一度よく見せてくれ」


律さんが私の左手を取り、薬指についた指輪を見つめる。


「……うん、やっぱりこれがいいな。

よく似合っている」


そんな風に微笑まれたら、もう何も言えなかった。


「奥様、愛されていますね」

店員さんはそう笑みを深めて私たちを見ている。


「はい。大事な妻です」


律さんが躊躇いなくそう答えるから、私は真っ赤になってしまう。


間に受けたらダメ。

確かに律さんは私を大事にしてくれるけれど、それはあくまで契約上の妻としてのこと。


でも分かっていても、その言葉が嬉しくて。

律さんの言葉に、一喜一憂している私がいる。


「……律さん」


名前を呼べば、私を真っ直ぐに見つめ返してくれる人。


―――ごめんなさい。

やっぱり私、あなたのことを好きになってしまいました。





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