ついに、この日が来てしまった。
一歩進む足が重い。
相手のご家族に挨拶に行くよりも、自分の家族に会いに来る方が躊躇いがあるなんて。
「……大丈夫か?」
隣に立つ律さんは、そんな私の様子に気づいたように声をかけてくれる。
「大丈夫です」
心配させないようにヘラりと笑って、私は呼び鈴を押した。
扉が開かれて、出迎えたのは私の両親。
「いらっしゃい」
「よく来たな」
私の顔を見た両親は、少しだけ気まずさを残した笑顔を見せる。
「……久しぶり」
だから私も、同じように笑い返した。
そして両親の目は、自然と律さんの方に向けられた。
「初めまして。早川律と申します。
本日はお忙しいところお時間をいただきありがとうございます」
律さんが私の両親に頭を下げる。
「これはご丁寧に……よく来てくださいましたね」
「こちらへどうぞ。座ってゆっくりしていってください」
両親はよそ行きのにこやかさを保ちながら、私たちを中へと誘う。
その後を追ってリビングに進めば、待っていたのは兄・和也の姿。
「よ、よう音。いらっしゃい」
私と目が合って軽く手を挙げた兄は、律さんに向けてもペコリと頭を下げる。
そして、そんな兄の隣には―――「こんにちわ、音ちゃん。婚約者さんも」
鼓膜を嫌に震わせ、背筋がうすら寒くなるようなその声。
「……お久しぶりです、深雪さん」
兄の奥さんである深雪さんもそこにいて微笑んでいた。
両親と兄が座り、私たちと律さんはその向かい側に並んで座る。
そして深雪さんが空いている私の右隣に座った。
「なんか音が来るのほんと久しぶりだよなー」
会話の先陣を切ったのは兄だった。
あくまでも軽く、明るい口調で私を見る。
「そうよね、この子ったら中々顔出さないんだからもう。
なのに結婚するって急に連絡がきたものだから驚いたわ」
母はそこで律さんの顔をまじまじと見つめる。
「それにこんなにカッコいい人だなんて……ねえ?」
「ああ。驚いたよ」
母から賛同を求められた父がそう頷く。
上部に流れるこのぎこちなさを、悟られてはないだろうか。
普通の家族の顔ができているだろうか。
私の顔は、引き攣ってはないだろうか。
「早川さんはお仕事は何を?」
父が律さんに尋ねる。
「はい。Gliateという会社を経営しています」
律さんの返答を聞いた兄が驚きの声を上げた。
「え、社長さんなんですか!?
Gliateってそういえば聞いたことあるな……」
深雪さんは私たちの会話をニコニコと聞いている。
「そんなすごい人とうちの娘に、どうしてご縁が……?」
「音さんとは仕事を通じて知り合いました。
それをきっかけに音さんの優しさや気配りに触れ……私の方がどんどん惹かれていったんです」
そう言って優しい瞳で私を見る律さん。
これは両親に信じてもらうための演技。
律さんにとって、契約結婚に必要な過程の一つにすぎない。
分かっているのに顔に熱が集まるのを感じた。
「本日は改めて、ご両親に音さんとの結婚の了承をいただきたいと思っております」
居住いを正した律さんが、両親に向けてそう切り出した。
「先日、音さんにプロポーズし結婚の承諾をもらいました。
音さんと二人で、幸せな家庭を築いていきたいと考えております。
結婚をお許しいただけるでしょうか」
そう言って頭を下げる律さん。
その表情と声は真剣そのもので、私まで信じてしまうそうになる。
「うちは見ての通り庶民的な一般家庭でねえ……。
早川さんのご両親は結婚にご納得しているのかな」
「うちは母が既に亡くなっていて、父は放任主義な人なので異存はありません。
それに私の親代わりを務めてくれた祖母は、音さんのことをとても気に入っていて。
結婚にも賛成してくれています」
それに、と律さんが続ける。
「音さんは仕事ばかりでおざなりになる私の体のことを気にかけ、生活を支えてくれています。
一緒にいると心地よくて……音さんはなくてはならない存在です」
例えこの言葉が嘘にすぎなくても、嬉しかった。
「……そうですか」
律さんの答えに、父が頷く。
そして母と顔を見合わせると、改めて二人が律さんを見つめた。
「音のことをどうぞよろしくお願いします」
そして、頭を下げる両親。
余程のことがない限り、結婚に反対されることはないと分かっていた。
無関心と呼べるほど情がないとは言わない。
でも娘のことを心配してあれこれ口を出したり、嫁に出すことを惜しむようなそれを“親心”や“親子の絆”と呼ぶのなら。
そんなものがないことだって知っていたから。
それでも無事ミッションを終えたかのようにほっとする。
その場の緊張感が解けたところで、これまで微笑んでいるだけだった深雪さんが口を開く。
「音ちゃん、愛されてるね。羨ましいなぁ」
深雪さんの発言は、先日のパーティーでのレナのものとほぼ同じだった。
でもレナのように表情は引き攣っておらず、ニコニコと微笑んだまま。
でも私はずっと、彼女のその笑みを象る瞳の奥が怖くて堪らない。
「料理は普段音ちゃんが作るんですよね。
音ちゃんの料理で一番好きなものは何ですか?」
深雪さんが愛想良く律さんに尋ねる。
律さんは少し考えるような素振りを見せてから答えた。
「どれも美味しくて選び難いですが……ぬか漬けは絶品です」
「ぬか漬け?
ふふ、音ちゃんったらそんなとこまで影響うけてるのね」
思わずといった風に笑みを漏らす深雪さん。
そのまま呟くように言葉を続けた。
「音ちゃんはおばあちゃんっ子だから……全然遊びに来てくれなくて寂しかったなぁ」
その瞬間、空気がピリッと張り詰めるのが分かった。
私に
気まずげに目を逸らす両親。
「深雪……」
咎めるように兄が深雪さんの名前を呼ぶけれど、深雪さんは「何?」と不思議そうな顔。
テーブルの下で握った手が震える。
だからこの家には来たくなかった。
そこで玄関の扉が開く音がして、誰かがリビングに入ってくる。
「ただいまー」
それは兄と深雪さんの息子である智樹くんだった。
「おかえり智樹。
音叔母さんと、婚約者さんが来てくれているのよ」
「こんにちは……」
深雪さんに促され、挨拶をしてくれる智樹くん。
しかしその目には親しくもない他人を急に前にした時の戸惑いが見られた。
「こんにちは。大きくなったね」
無理もないと思う。
今の智樹くんは確か12歳。私が最後に会ったのは彼がもっとずっと小さい時だ。
叔母さんと言われたって実感がないくらい遠い存在だろう。
「じゃあ私はちょっとお先に失礼します」
深雪さんがそう言って立ち上がる。
そして、私の横を通り過ぎて行こうとする時。
そっと耳元で囁いた。
「こんないいお相手ができたんだから、もう人のものはとらないようにね?」
ひゅっと喉が鳴る。
一瞬で乾き切ってしまったように、口の中がカラカラになって。
至近距離で目が合った深雪さんの瞳は、やっぱり笑っていた。
「早川律さん。
これからどうぞよろしくお願いしますね」
律さんに向けてそう挨拶を残し、智樹くんを連れて2階へと上がっていく深雪さん。
私は何も言葉を返せず、ただそこに立ち尽くすことしかできなかった。
♢
表面上は“何も問題のない家族”を装ったまま、両親や兄に「またね」と別れを告げて、帰宅する。
ガンガンと頭が割れるように痛い。
喉の奥に不快感の塊のような重く粘っこい何かがつかえて、吐き気がした。
玄関を開けて、中に足を踏み入れた途端。
緊張の糸が切れたように、私はその場にへたり込む。
「大丈夫か……!?」
律さんが焦ったように声をかけてくれて、私は「大丈夫です」とへラリと笑う。
「家に着いたらなんか気が抜けちゃって……」
そう言いながら立ちあがろうとする。
「……あれ?」
でもどうしてか、手にも足にも力が入らない。
「す、すみません。どうしたんだろ、あはは……」
そんな私の姿を黙って見ていた律さんは、次の瞬間。
ひょいっと私の体を持ち上げて、抱き抱えた。
「り、律さん……!?」
そして律さんは、そのまま室内に進んで行こうとする。
「あああの降ろしてもらって大丈夫です!重いので……!」
慌ててそう伝えるものの、律さんからはさらりと返されてしまう。
「立てないんだろう。無理するな」
「で、でも……」
これは、俗に言うお姫様抱っこ……!
密着する体と、すぐそばにある律さんの顔。
今起きていることの衝撃に、先ほどまでの暗い気持ちが吹っ飛んでしまったようだった。
「部屋を開けるぞ」
律さんは私を抱えたまま、片手で私の部屋のドアを開けた。
そしてそのまま、優しくベッドに寝かせてくれた。
「今日はありがとう。
疲れたんだろう。まずはゆっくりと休むといい」
優しい声と共に、布団がかけられて。
律さんが私に背を向ける。
離れていく背中が、何だか無性に寂しくなって。
気づけばつい口から溢れていた。
「……もう行っちゃうんですか……?」
律さんが、驚いたように振り返る。
「あっいやその、何だか急に人恋しいというか……すみません……」
我に返って弁解する私の声は、どんどん尻すぼみになっていく。
何言ってるんだ、私。
絶対変に思われたに決まって……「分かった」
「へ?」
私が間抜け面を晒している間に、律さんが戻ってきて、ベッドの端に浅く腰掛けた。
「もう少し、君が眠りにつくまではここにいよう」
私を見下ろす律さんの、長いまつ毛が瞬きの度に揺れるのを見つめる。
「改めて、今日はありがとう。
そして……ご家族を騙すような形になってすまない」
律さんは少し眉を寄せた真剣な表情で、そう言って私のことを見つめ返した。
「契約が終了するまで、君は嘘をつき続ける羽目になる。
今更な話だと分かってはいるが……俺は、君の人生を壊したんだ」
「……そんなことないんです」
私の人生は、太晴に捨てられて倉谷さんに「負け犬」と蔑まれたあの日から、とっくに壊れていた。
「私は自分でこの契約を受けることを決めたんですから」
本当だったらもっと鬱々としてばっかりで、どうしようもない日々を送っていたと思う。
でも今辛いことが薄れて、こうして嬉しくなったり笑顔でいれるのは―――この契約があったからだと思う。
「それに、可愛いポメ川社長をモフれる最高のご褒美がありますし」
そう言って笑えば、早川社長が首を傾げた。
「……ポメ川社長?」
私は思わず手で口を押さえる。
……これは犬ver.時の秘密の愛称なんだった。
話題を戻すために私は再び口を開く。
「その、私の家族のことも気にしないでください。
すでに兄が結婚していて、孫もいて。
両親はそれで満足してるんです」
あの家には、両親が望むものが全て揃っているはずなのだ。
「だから私はおまけ程度というか……今はもう兄嫁さんの方が実質娘みたいなものだと思います」
“こんないいお相手ができたんだから、もう人のものはとらないようにね?”
深雪さんの声がフラッシュバックする。
途端に気分が泥のように重くなって、頭が再び痛みを主張し始めた。
「ええとつまり、本当に気にしないで欲しいってことが言いたくて……」
それを悟られないように笑顔を取り繕う私を、律さんがじっと見つめている。
「音、君は家族と……」
言いかけた言葉を辞めて、その代わりに振ってきたのは優しい声。
「そろそろ寝た方がいい」
「でも、着替えもしてないですし夕飯の仕込みもまだ……」
私の言葉を遮るように、大きな手が頭の上に置かれた。
「大丈夫だ。
今は何も気にせず、体を休めることを優先しよう」
頭の上にあった手が、私の肩口に移動して。
布団の上から、少しのぎこちなさを伴いながらトン、トンと優しく叩かれる。
昔、もっとずっと幼い時。
風邪をひいて上手く値付けない私のことを、お母さんがこうやって優しくトントンして寝かしつけてくれたっけ。
愛されていることを疑いもしなかったあの頃。
どうしてこうなってしまったのだろう。
一定のリズムに揺られて少しずつ重くなっていく瞼で、律さんのことを見上げる。
いつも通りの無表情。
でも私はもう、この人を噂通りの冷徹社長だなんて思えない。
「……私本当に、この契約結婚を受けたこと後悔してません」
遠くなる意識の中で、これだけはどうしても伝えたくなって。
勝手に言葉が口から零れ落ちる。
律さんの手が止まった。
「私も契約結婚の相手が、律さんでよかった。
あなたのことを知っていけることが嬉しいんです」
言いたいことを言えて満足した私は、そのまま意識を手放した。
「……君は本当に変わった女性だな」
だから、手を口で覆ってそう呟いた律さんの頬が、少し赤く染まっていたことなんて。
私は知る由もないのだった。