今日はちょっと変わり種に、落とし卵のお味噌汁。
皮をパリパリに焼いた鮭に、ほうれん草のおひたし。
ぬか漬けは初めてみょうがも入れて漬けてみたけれど、中々いい仕上がりなんじゃないだろうか。
「おはようございます。
もうすぐご飯できますよ」
「……おはよう。
ああ、ありがとう」
リビングにやって来た早川社長は、まだ眠そうに瞬きをする。
「顔を洗ってくる」
そう背中を向けた後頭部に寝癖がついていることは、教えてあげた方がよかっただろうか。
出来上がった料理をお皿に盛り付けながら、小さく笑いがもれた。
「いただきます」
向かい合わせに座って、2人揃って手を合わせる。
早川社長が自宅で過ごせる休日は、こうして一緒に朝食をとるのが定番のようになってきた。
「この卵の味噌汁は初めて食べたな」
味噌汁に口をつけたあと、早川社長が呟く。
「うちではわりと出てきたんですけど、定番ではないですよね。
お口に合いますか?」
「美味い」
即答する辺り、特に好みだったようだ。
心なしか頬が緩んでいる。
好物が出ると、多分こうして自然と表情に出る人なのだ。
「良かった。
また作りますね」
穏やかな空気。
こんな風に過ごす時間は心地よくて、つい私も顔が綻ぶのだった。
♢
「どうぞ」
「ありがとうございます」
ドアを開けて待っていてくれる高峰さんにお礼を言ってから、車に乗り込む。
そして反対側から早川社長が乗り込んで、私の隣に座る。
助手席じゃなくていいのかな。
そうは思っても口に出すのは憚られた。
「高峰さん、お休みのところありがとうございます」
高峰さんも本来はお休みだったはずだから、改めて感謝を伝える。
「私は運転手も兼任しておりますので」
高峰さんはそう言って穏和な笑みを見せた。
「いつも悪いな」
早川社長が続けてそう言えば、高峰さんはにこりと笑みを作ったまま答える。
「いえ。
運転中にポメラニアンになって事故を起こされる方が困りますので」
そこで早川社長が、私に目を向ける。
「……そういうことで、基本運転は高峰に頼むことが多い。
今日は特に君を乗せていく訳だからな」
今日はこれから、早川社長のおばあさんに挨拶に伺う予定となっている。
この車は、おばあちゃんが入院する病院へと向かっているのだ。
「あの、早川社長のおばあさんってどんな方ですか?」
突然私みたいなのが結婚相手ですって現れて、大丈夫なんだろうか。
目的地が近づくに連れて、不安が高まっていく。
「穏やかな人だと思う。
少なくとも、頭ごなしに否定するようなことは決してない」
その答えを聞いて、少しホッとする。
それなら門前払いをくらうことはないだろう。
「ところで、その“早川社長”という呼び方についてなんだが」
「え?」
「結婚する相手だというのに、そう呼んでいては不自然じゃないだろうか」
「確かに……」
早川社長に言われ、それはそうだと思い至る。
変えるきっかけもなくてそのままになっていたけど、いつまでも社長呼びは変だよね。
それなら……「どうやって呼ぶのが正解でしょうか……?」
「……まあ、お互い名前呼びが無難だろうな」
ということは、早川社長をそう呼ぶなら……。
「り……」
“律さん”
改めてそう呼ぶとなると、何だかかなり恥ずかしい。
「ま、まず心の中で練習させてください……」
予行練習を繰り返しているうちに、気づけば目的地の病院に到着していた。
「行ってらっしゃいませ」
高峰さんに見送られながら、私たちは揃って車から降りる。
早川社長の後を追って、院内を進めばとある個室の前にたどり着いた。
ネームプレートには“早川”の文字。
緊張が一気に舞い戻ってきて、心臓の音が早くなる。
私の格好、変じゃないかな。
失礼じゃない程度には化粧もしてきたつもりだけど、ちゃんと見れる顔になってる?
「行こう。
―――音」
それは、初めて呼ばれた名前。
ドッと撃たれたかのような衝撃が心臓を揺らし、一瞬で頬が染まるのが分かった。
「は、はい!
……律さん」
ある意味緊張なんて吹っ飛んでしまった。
早川社長……律さんに続いて、病室に入る。
「よく来てくれたわね」
ベッドの上にいるその人が、律さんを見上げてそう言って微笑む。
「じゃあそちらの方が……」
その視線は、すぐに私の方に向けられた。
「宮内音と申します!
今日はお時間いただきありがとうございます」
「こちらこそ来てくださってありがとう。
律の祖母の聡子です」
聡子さんは表情から優しさが滲み出しているような、穏やかな雰囲気の人だった。
しかし体つきは細すぎるくらいで、袖から見える手首は少し力を加えたら折れてしまいそう。
「こんな格好でごめんなさいね」
「いえそんな……!
どうかお体楽にしてくださいね」
そう伝えれば、「ありがとう」と微笑む聡子さん。
「改めて、俺は宮内音さんと結婚する」
一歩前に出て、律さんがそう宣言した。
「俺が選んだこの人を、ばあちゃんにも会わせたかったんだ」
「……そう」
静かにそれを聞き終えた聡子さんが、もう一度私を見つめた。
「音さん、何か苦労してることとかない?」
「え?」
思いがけない質問に、思わず聞き返してしまう。
「だってこの子、結構味の好みとかあって面倒くさいでしょ?
年寄りが作る料理ばっかり食べてきたせいか、妙に味覚も渋くてねえ……」
「彼女の作るものは、そんな俺の味覚にも合って全部美味いから」
律さんがさらりと言うのに、また胸が高鳴った。
「音さん」
もう一度名前を呼ばれ、聡子さんに更に近づいた。
聡子さんは手を伸ばし、そっと私の手をとる。
「すみません、ぬか床掻き回すせいで今ちょっと荒れ放題で……」
律さんが喜んでくれるからとつい張り切りすぎたことに加え、今は乾燥の季節だ。
あかぎれができてカサついた自分の手を晒すのが、途端に恥ずかしくなった。
「ぬか床?
音さんはぬか漬けを作るの?」
「あ……はい。
祖母から引き継いだものを今も使っています」
私がそう答えると、「まあ」と聡子さんの目が輝いた。
「おばあさま直伝の?
それはすごいわ。
私も昔やってみようとしたのだけど、管理が難しくて断念してしまったのよ」
そこからは、ぬか漬けに何をつけるのが美味しいか談で話が弾んだ。
今朝はみょうがを漬けて食べたといったら「あなたも中々渋いわね」と聡子さんが笑った。
「ふふ。
あなたたち相性が良さそうね」
思わず律さんのことを見る。
目が合った律さんは、目を細めて小さく微笑んだ。
その直後、聡子さんが激しく咳き込む。
「大丈夫ですか!?」
「ええ……ごめんなさいね」
一旦咳がおさまると、はあっと大きなため息。
律さんが聡子さんの体を支え、ベッドの上に優しく横たえた。
「無理は良くない。
今日はそろそろ帰るよ」
律さんはそう言って、私に目配せをした。
それに倣おうとしたところで、聡子さんが言う。
「見ての通り、私はもうあまり先が長くないの」
本人の口から告げられると、とても重い言葉だった。
否が応でも死期を連想してしまって、胸が締め詰められるような。
「律は昔から感情を素直に表すことが苦手で、誤解されやすいところがあってね。
そんな律が自ら結婚したいと思える……あなたのような人に出会えて良かった」
それでも聡子さんの瞳は穏やかなままで。
心からそう思ってくれていることが伝わってくる。
それでもこれは、あくまで愛のない契約結婚。
騙しているようで心苦しい。
違うんですと口走ってしまいそうになるけれど、律さんはそれを望まないし、言ったところで誰も幸せにならない。
「大事な人に会わせてくれてありがとう、律」
私にできることは、この役目を全うすることだ。
「―――結婚おめでとう」
聡子さんの優しい声。
律さんの顔が、くしゃりと歪むのが分かった。
「……思い残すことは何もないかのような言い方だ」
声もどこか震えていて、その頭には犬耳が……ん?
耳……?
頭で考えるよりも早く、口が動いた。
「あーっっ、窓の外に光るUFOが!!」
「え?」
私の大声につられて、聡子さんが窓の外に目をやった瞬間。
隣から律さんの姿が消えた。
「……クゥン」
代わりに現れたのはポメ川社長。
律さんは今この場で、ポメラニアンに変化してしまったのだ。
私はここ1番の早さで、ポメ川社長の周りに散らばる衣服を回収し、空いている手提げの中にぶち込んだ。
「……あら?」
視線を戻した聡子さんは、突然現れたポメラニアンに対し目を丸くした。
「な、なんかこの子急に迷い込んできてしまったみたいで……!
も、もうダメでしょー!」
言いながら、ふわふわのポメ川社長を抱き上げる。
「そうなの?
それなら律は……」
「あ、律さんはさっき慌ててトイレに走って行きました!」
すみません、咄嗟に思いつく言い訳がこれしかありませんでした。
「……そう……」
聡子さんの目は、パンパンに膨らんだ手提げからはみ出る、律さんのジャケットに向いている。
「い、一部服を脱ぎ捨てていく程、緊急だったみたいですね〜」
「……ワン」
腕の中で、抗議のような鳴き声が聞こえたのは多分きっと気のせい。
……ごめんなさい!
だって他に言い訳の仕様がなかったんです!
この様子だと、やっぱり聡子さんは犬化のことを知らないみたい。
「……どこかで変なものでも食べたのかしら?」
……せ、セーフ……?
さすがに目の前のポメラニアンと律さんが同一とは思わないよね。
そこで扉をノックする音と共に、看護師さんが入室してくる。
「早川さーん調子はどう……あら?
え、犬……?」
にこやかな顔だった看護師さんが、私の腕の中のポメ川社長を見つけると眉を顰める。
何か言われる前に退散しないと。
「今日はありがとうございました。
……律さんのことは絶対幸せにします!」
それは、驚くほど素直に出た言葉だった。
ペコリと一度頭を下げて、私はポメ川社長と共に足早に病室を後にしたのだった。