コンコン、と控えめなノックの音が響いたのは日付を回る少し前のことだった。
「夜分にすまない。少し話せるだろうか」
今日は昼間についうっかり仮眠してしまったから、どうせまだ眠れそうにない。
早川社長の後を追い、ダイニングに向かい合って座る。
「今日もお仕事お疲れさまです」
「ありがとう」
「それで、話っていうのは……?」
この人に“暇”という概念はあるのだろうか。
そんなことを思いながら、早川社長の次の言葉を待つ。
「互いの両親への挨拶についての話がしたい」
「挨拶、ですか」
「ああ。
やはりそこはきちんと筋を通すべきだろう」
確かに、一般的な結婚だったらそういうのを経るものなのかもしれない。
「だが、俺の方は母が既に亡くなっている。
父も海外を転々としている人だから、申し訳ないが挨拶がいつになるか分からない」
「そうなんですね」
契約結婚を申し込まれた時、両親に代わって祖母に育てられたのだということは聞いていた。
けれどご両親については、今初めて知ることばかりだ。
「だから、君には祖母に会って欲しい。
君のご両親への挨拶と、俺の祖母への挨拶。
その2つが終わったら籍を入れようと思う」
「え、お父様へのご挨拶が済む前でいいんですか?
こういうのってやはりご両親のお許しもいただくものでは……」
「問題ない。
父はこちらに関心のない人だからな。
事後報告でも構わないくらいだ」
早川社長は、どこか自嘲するような口ぶりでそう言った。
もしかして、お父さんとの仲はあまり良くないのだろうか。
でも、本人がいいっていうなら、これ以上口出しすることじゃないよね。
「分かりました。
私の両親にも聞いてみます」
そう言いながら、気分は重い。
両親のいる実家に帰るということは、必然的に
私はいまだに―――あの人を許せない。
「大丈夫か?」
早川社長の声に、ハッと顔を上げる。
「すみません、ちょっとぼうっとしてました」
誤魔化すようにそう笑って、ドロリと侵食しかけた過去の記憶を封じ込めた。
「それと、君には今度開かれるMFTグループの創業記念パーティーに同行して欲しい」
「パーティーに?」
「30周年の節目として大々的にやるようで、うちを含む取引先企業なんかが招待されているんだ」
MFTグループといえば、太晴が担当者として関わっていたはずだ。
もしかすると、太晴もパーティーに来ることがあるのかもしれない。
知らずのうちに、膝の上で握る手に力が入った。
「君をお披露目するいい機会にもなる。
とはいえ、籍を入れるまで立場は“婚約者”となるが……」
でも、きっとこれも契約にあった“公の場での妻としてのふるまい”に該当するだろう。
私の都合で迷惑をかける訳にはいかない。
「はい。一緒に参加します」
そう答えれば、早川社長がほのかに微笑む。
「ありがとう」
あまり表情の変化は大きくないけれど、早川社長は思ったよりよく笑う人だ。
こうしていると“冷徹社長”だなんて思えない。
そんな早川社長が「じゃあ」と続けた。
「買い物に行こう」
「……え?」
目の前には、見るからに高級そうなドレスショップ。
そして店内に入れば、待ち構えていたように店員さん達が出迎える。
「早川様、お待ちしておりました」
何だかとっても……デジャヴを感じます。
早川社長の婚約者としてパーティーに参加するからには、やはりそれなりの格好が求められる。
という訳で、私は早川社長に連れられてドレスを選びにやって来ていた。
「こちらのお部屋になります」
これって所謂、VIPルームなのでは……?
まるで一流ホテルのような接客を受けながら案内されたのは、明らかにそう分かるような個室の部屋。
落ち着かない心地で室内を見渡す。中にはドレスがズラリと並べられていた。
「……すごい……」
これが上流の世界かぁ。
煌びやかなドレスの数々に心が躍る。
「どうぞゆっくりご覧くださいませ」
店員さんは笑顔でそう言ってくれるけれど、どうにも緊張してしまう。
「気に入ったのがあったら好きに試着してみるといい」
そんな私の様子を見ていた早川社長が、声をかけてくれる。
「は、はい。
でも中々どれがいいか選べなくて……」
それを聞いた早川社長が、少し考え込む風にドレスを眺める。
「俺もこういうのにはあまり詳しくないが……これなんか似合うんじゃないか」
早川社長がそう手に取ったのは、淡いブルーのドレス。
胸元に繊細なレースがあしらわれたそれは、私の好みにも合っていた。
「わ、綺麗……。
ありがとうございます、これも着てみます!」
早川社長が選んでくれたドレスの他、数着のドレスを持って試着室に案内してもらう。
そうして試着を重ねた結果、これだというものが決まった。
ドレスを着たまま、そっと試着室のカーテンを開ける。
するとソファに座って待っていた早川社長が気づいて立ち上がった。
「……どうでしょうか?」
何だか妙に気恥ずかしくて、若干目を逸らしたまま尋ねてみる。
私が最終的に選んだのは、早川社長の勧めてくれたブルーのドレスだった。
「やっぱりよく似合うな」
その言葉に、ますます顔が赤くなった気がする。
「……そうだ、これを」
早川社長がそう言って取り出したのは、黒の指輪ケース。
両開きにしたその中には、光り輝くダイヤの指輪が納めされていた。
そこに記されているのは、私でもわかる高級ブランド。
「手を」
早川社長がそっと私の左手をとり、薬指に指輪をはめる。
「婚約者として公の場に出る時は、これをつけていて欲しい」
そうして私の左手に宿った輝き。
こういうのって芸能人の結婚会見とかで見たことある大きさ。
「……もしかしてというか絶対、お高いですよね……?」
「見せびらかすつもりはないが、こういうところで妻への愛が評価されることもまだあるだろう。
サイズは問題ないだろうか」
「サイズは大丈夫そうですけど……」
私たちの関係は、契約結婚でしかないというのに。
お金をかけすぎではないだろうか。
「万がいちパーティーまでに失くした時には言ってくれ。
新しいものを手配するから」
「お、落とせませんよ!何があっても!」
そんなことがあろうものなら、私は腹を斬ってお詫びしなければならないレベルですから!
勢いに任せて言えば、早川社長が珍しくクッと声を上げて笑った。
……もしかして今のって軽い冗談でした?
「絶対に大切にします」
誓いを込めてそういえば、早川社長がまた優しく微笑んだ。