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第6話

「―――内容を確認して問題がなければ、ここにサインを」


机を挟んで、私は再び早川社長と向かい合っていた。

机の上に置かれているのは1組の書類。

私と彼の“契約結婚”についての条件が記された契約書だ。


契約結婚を受ける選択をして、今日はその契約を正式に交わす日。

私は契約書を手に取って上から下まで目を通す。


契約書らしくお堅い文章で書かれているけれど、内容はこの間早川社長が口頭で説明してくれたのとほぼ同じ。

他には、婚姻中・離婚後問わず早川社長の秘密については一切の口外を禁ずること―――秘密保持の項目が追加されていた。


それともう1つ、“1ヶ月間のお試し期間を設けること”

これに関しては、先ほど早川社長から説明があった。


私たちは、お互いがどういう人間なのかもよく分かっていない。

あくまで契約の関係とはいえ、実際に生活を共にする上で何か耐え難い事柄が発生した場合。

話し合いの上、1ヶ月の間ならこの契約を無効にすることができるというものだ。


つまり、長めのクーリングオフみたいなものというか。

私的にもその方が安心できるから異論はない。


婚姻届を提出するのは、その1ヶ月が経過してからということになった。


ペンを取り、契約書にサインを書く。

押印までを済ませたそれを、早川社長に差し出して。

今ここに契約は成立した。


「うん、確かに。

それじゃあこれからどうぞよろしく」


「こちらこそ、よろしくお願いします……!」


まるで全てのものを持ち合わせているようで、住む世界が違うとばかり思っていた人。

そんな人の世界に、私は今日から飛び込んでいく。



「……広い……」


室内に足を踏み入れて、まず出てきた率直な感想がこれだった。

間違いなく呆けた顔をしていたことだろう。


早川社長の住む家は、都内一等地の高級マンションの一室だった。

コンシェルジュが常駐していて、セキュリティもばっちり。


広々としたリビングはシックな印象で纏まっていて、まるでモデルルームのように綺麗だった。


「こんなところに住めるなんて、さすがですね」


「今日からは君の家でもあるからな」


思わず呟けば、さらりとそう返ってきた。


……そうだった。

私は今日からここで、早川社長と一緒に暮らすことになるんだ―――。


「ここがキッチン。

俺は殆ど自炊をしないし自宅で食事をとることもそう多くないが、君は自由に使ってくれていい」


「分かりました」


設備や各部屋の用途について、早川社長が簡単に説明しながら案内してくれる。


それを聞きながら室内を観察していると、リビングの一角にあるものに目が留まる。


「……ああ、あれは犬化した時用の自動の給餌器と給水器だ。

人間の時と同じってわけにもいかないんでな」


「なるほど……」


ポメラニアンになっても身の回りのことは自分でやるって言っていたのは、こういうことだったんだ。

というかこの感じだと、その時はドッグフードを食べてるってことかな?

確かに体が犬化しているならそれが1番なのかもしれない……けど今の姿からはやっぱり想像もつかない。


「それでここが君の部屋。内から鍵がかかるようになっている」


最後に案内されたのは、私の部屋となる一室だった。


「ありがとうございます。こんな広い部屋、いいんですか?」


「ああ。

不干渉の約束通り、俺のことは気にせず気楽に過ごしてくれ」


「は、はい……」


プライベートな空間が確保されているのは有り難いことだ。

でも気楽に……この人と一緒に暮らす環境で果たしてそれができるかは疑問である。


「今日は移動で疲れただろうから、ゆっくり休むといい」


そう言い残して、早川社長は部屋を出ていった。



1人になって、私はふうと息を吐く。


今日から、まずはお試しの1ヶ月が始まる。


これまで私が暮らしていたワンルームの部屋は、念のためまだ解約はしていない。

無事お試し期間が終了したら解約して、本格的にここに移り住む予定だ。

そのためここに持ってきた荷物も最小限にしてある。


事前に送っておいた荷物の中から、愛用していた折りたたみの座椅子を取り出して座ると、改めて室内を見渡す。

この部屋だけで前のワンルームくらいの広さはありそうだ。まだ家具も少ないから、より広々として見える。


これから新しい生活が始まるんだ。

ついこの間まで他人同然だった人との同居がそう上手くいくのか、不安はあるけれど。


「なるようになれ、だよね」




そうして始まった同居生活は、思いの外快適なものだった。


というか初日以外、早川社長とまともに顔を合わせていない。

朝早く出勤して、深夜近くに帰宅するような忙しい日々を送る早川社長。


朝はコーヒーだけで、夕食は会食を含め外で済ませてくることが多い早川社長とは食事を一緒にとることもない。

というか私がここに来たばかりの頃の冷蔵庫には、お酒とエネルギーチャージのゼリーしか入っていなかったけれど、ちゃんとした食事はとっているのだろうか。


洗濯だってささっと自分でやるかクリーニングを活用したりと上手くやっているようで、私が何かを担うことはなかった。


契約には“お互いの生活には不干渉”というルールが含まれていたから、私もなるべく早川社長の

在宅中は自分の部屋にいるようにしていた。


だけど正直、ここまで関わりのない生活になるとは思っていなかった。


仕事をしていない今の私は、専業主婦(仮)だ。

とはいえ実際やっていることは自分の分の家事だけ。

共用部の掃除くらいはと率先してやるようにしているけれど……それで十分すぎるくらいの生活費を貰っている現状。

本当にこんなのでいいの?なんて、逆に不安になってくる。


今日はもう、やろうと思っていた家事の大体が終わってしまった。


「……とりあえず、買い物行こう」


早くも暇疲れ気味かも……働いていた時を考えれば贅沢な、そんなことを思いながら

私は近くのスーパーへ行く準備を始めるのだった。



その日はもうやることも全て終えて、あとは眠るだけとなった夜。

もう少し眠くなるまでと、私はベッドで小説の続きを読んでいた。

そんな時、突然部屋の扉がノックされたことに驚いて体が跳ねる。


な、何事……!?


この家には私と早川社長しかいない。だからノックをしたのも彼しかいない。

だけど今まで、こんな風に早川社長が部屋を訪ねてくることはなかった。


「……話したいことがある。

今から少し時間をくれないだろうか」


リビングで話そうと言う要望に応え、私は部屋を出た。

もう寝るだけだと思っていたから、今の私はパジャマ姿だ。

辛うじて近くにあったカーディガンを羽織ってきたけれど、なんとなくいたたまれない気分になる。


対する早川社長は、つい先ほど帰ってきたばかりなのだろう、ジャケットだけを脱いだスーツ姿のまま。

私たちはダイニングテーブルに向かい合って座った。


久しぶりにまじまじと見る早川社長の顔は、何だか疲れているように見える。


「お仕事お疲れさまです。あの、それで話って……?」


私が切り出すと、早川社長が話し始める。


「ありがとう。話というのは、俺の例の体質のことだ。

……恐らく明日の夜辺りにでも、俺の体は犬化する」


犬化……それはつまり、ポメラニアンになるということだ。


「え……それって自分で分かるんですか?」


疑問をそのまま尋ねれば、早川社長は頷く。


「なんとなくは。これまでの経験上、そろそろだっていう予感のあることが多い」


「そういうものなんですね」


前兆があるとはいえ、定期的に体が犬になってしまうって大変だよなあ。

完全に未知の感覚だけど、体調に異変なんかは起こらないのだろうか。


「それで、君には事前に伝えておこうと思った。

俺が犬化している期間は大体1日から1日半の間くらい」


でもポメ化が明日の夜くらいからなら、次の日から休日に入るし、お仕事にあまり影響はなさそう。


「前にも言った通り、そうなっても身の回りのことは基本自分で行うが……ひとつ頼みたいことがある」


「頼みたいこと、ですか?」


早川社長は一度席を立ち、何かを手に持って戻ってきた。

そしてそれを私に差し出す。


「……これは……」


パッケージには可愛い犬の写真と、“とりささみ”の文字。

袋の中にはスティックが何本か入っている。


これは……犬も猫も大好きな例のあのおやつ……“チャオちゅ〜む”!?


「見ての通り、犬用の栄養補助食だ。

もしも日曜の夜……そうだな、21時頃になっても俺が人間に戻っていなかったら、これを食わせて欲しい。

摂取量は一袋丸ごとくらいが目安だ」


「一袋……ってこれ全部ですか!?」


一袋で10本近く入っているように見える。

そもそもなんでちゅ〜むを……?


「どういうメカニズムかは分からないが、これを大量摂取することですぐに元の姿に戻れるんだ」


「ええ……!?」


このちゅ〜むにそんな効果が……!?


「ただ、この方法を使うとしばらくは体調に支障が出る。

だから緊急時以外は、なるべく自然に元に戻るのを待つようにしている」


「そ、そうなんですね……」


本当に、一体どういうメカニズムなんだろう。

いやそれをいったら、そもそも人が犬になること自体が謎すぎるけれど。


「早速迷惑をかけるが、頼まれてくれるだろうか」


「は、はい。そのくらい全然迷惑なんかじゃないですよ!」


「……ありがとう」


私の返答に、早川社長が少し表情を緩めた。

ドキッと高鳴る私の鼓動。

普段はほぼ無表情な彼の微笑みは、それだけで特別なように思えてくる。


「寝るところを引き止めて悪かった。……おやすみ」


「おやすみなさい」


この家に来てはじめて交わすおやすみの挨拶は、何だか少し私の心を温かくするのだった。






















































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