「俺と結婚してくれないか」
目の前に座る彼は、そう真剣な表情をして私に告げる。
噂通りの、芸能人顔負けなくらい端正な容姿。
まるで全てのものを持ち合わせているような人。
“冷徹社長” 住む世界が違うと思っていた人と、どうしてこんなことにーーー?
♢
「宮内さーん、この資料も急ぎ30部お願い」
男性社員から資料を受け取って、小走りでコピー機に向かう。
資料をセットして印刷にかけたら、またデスクに戻ってやりかけだったデータ入力を再開する。
そのうちに仕上がった資料を社員に渡して、データ入力を終わらせたところで、ふうと息を吐いた。
派遣先であるこの会社に勤めて、もうすぐ3年近くになるだろうか。
私の仕事は広告営業の社員のアシスタント。
見積書や企画書の作成、スケジュール管理、商談への同行やその他の雑用全般……やることは多岐にわたる。
私を除いた全員が正社員で、その殆どが男性だ。
以前は同じ仕事をする派遣社員がもう1人いたのだけれど、辞めてしまってからは中々人員補充されず私だけ。
その分仕事はうんと増えて、目まぐるしい忙しさだった。
オフィスの扉が開いて、営業先から戻った社員が入ってくる。
「あ、おかえりなさい太晴さん。契約どうでした?」
「ただいま。ああ、楽勝楽勝。契約とってきたよ」
「さっすがぁ!
今度俺にもコツ教えてくださいよー」
目を輝かせる後輩の言葉を軽く受け流す彼は、
部署内で契約数No. 1の稼ぎ頭で、実は社長の甥であることは公然の秘密となっているため、みんなから一目置かれる存在だ。
そんな彼と目が合う。
「宮内さん、コーヒー貰っても良い?」
「あ、はい!」
私は頷いて、淹れたてのホットコーヒーを彼の元に運ぶ。
「ありがとう。……今夜、家来れるよな?」
コーヒーを受け取った彼が、私に囁く。
「う、うん。じゃあ、先に部屋で待ってるね」
私も声をひそめて答えた。
「ああ。じゃあまたあとで」
簡単な会話を終えて、私は席に戻る。
今日は、久しぶりに2人でゆっくりできるかも。
思わず緩む頬。しかし机にできた仕事の山を見て現実に戻される。
……まずはこれをどうにかしなくちゃ。
気合いを入れ直して、私は再び仕事に取り掛かるのだった。
♢
彼―――太晴と私は、恋人同士だ。
太晴は派遣として働き始めた当初から気さくに声をかけてくれて、おかげで私はすぐに職場に馴染むことができた。
歳が同じということもあって、意気投合した私たち。
恋愛には消極的だった私だけど、太晴からの猛アプローチを受けて晴れて付き合うことになった。
派遣に手を出す形になったのを大々的に知られては心象が悪いということで、社内では私たちの関係は秘密。
社長の甥という立場と、整った容姿を持つ太晴は女の子によくモテた。
こんな私でいいのかな?そう不安になることはありつつも、何やかんやお付き合いが続いて2年。
私たちの関係は順調……のはずだった。
「太晴、t社のデータまとめ終わったよ」
「あーうん、じゃあ次こっちね」
仕事が終わって、今は約束通り太晴の家にお邪魔している。
私が声をかけると、太晴はろくにこちらを見ずもせずに次の作業を言い渡してきた。
……今日も結局、こうなっちゃうんだ。
きっかけは、太晴に仕事を手伝って欲しいと頼まれたことだった。
多くの顧客を抱える太晴は、中々業務時間内にデータ収集や提案資料の作成まで手が回らないことも多い。
だからこそアシスタントの出番なのだが、人手が減ってからは私も業務に追われる日々。
派遣にあまり残業はさせられないということで、業務外の時間に個人的な手伝いをして欲しい、と。
多忙な彼氏の役に少しでも立てるなら。
そう思って了承してからは、2人で過ごす時にこうして度々手伝いをするようになった。
はじめのうちはそれでも良かった。
太晴は大袈裟なくらいの感謝を伝えてくれていたし、私の協力が太晴の成果に繋がるのだと誇らしく思う気持ちもあった。
けれどいつの間にか、太晴からの感謝の言葉は減っていって、私が手伝うことが当たり前の空気が出来上がっていって。
そもそも最近は仕事以外で会うことも頻度も下がっていて、やっと会えたと思った時は必ずのように仕事の手伝いが待っている。
モヤモヤする気持ちは増えるばかりだ。
作業が終わって、ここからはようやく2人でゆっくり過ごすことができる。
「ねえ太晴」
「……何?」
太晴はどこか面倒くさそうにスマホに落としていた目線をこちらに向ける。
「今度の週末、たまには一緒にどこか出かけない?」
「今週……?
あー悪いパスで。色々と予定入ってんだよね」
誘いはあっさりと断られてしまう。
「……せめてどこか、空いた時間で食事だけでも一緒に行けないかな?
だって私たち、最近全然デートらしいデートなんてしてないし……」
食い下がる私を見て、太晴は大きくため息を吐いた。
「あのさぁ、俺は毎日忙しくて疲れてんの。
空き時間くらい家でゆっくりしたいって分かんない?」
いかにも迷惑そうなその表情を見たら、もう何も言えなかった。
「……風呂入ってくるわ」
言葉に詰まる私を置いて、太晴はさっさと浴室に向かう。
「……昔はこんなんじゃなかったのにな……」
あなたにとって、私はただの便利屋ですか?
浮かんだ言葉は、喉の奥で声にならずに消えていった。
♢
昨日は太晴の家に泊まったけれど、太晴が冷たくなってしまった理由とかそんなことを考えて中々寝付けなかった。
だから朝起きるのが遅くなって、いつものようにお弁当を作る時間もなかったから、今日は久しぶりに社員食堂での昼食だ。
「ねえ見て!
Gliateの早川社長がニュースに取り上げられてる!」
「あ、本当だ。写真でも相変わらずかっこいい〜」
私の後ろには、他部署の女子社員2人が座っていた。
2人はスマホを覗き込みながら声を弾ませる。
株式会社Gliate―――立ち上げから僅か数年で上場し、右肩上がりに業績を伸ばし続けているIT企業だ。
社長の
早川社長が抜群のスタイルと芸能人顔負けのルックスを持つことも、注目を集める要因のひとつになっているのだろう。
太晴の商談に同行した際に一度だけ、早川社長と会ったことがある。
確かに彼は、今までに会ったどんな人よりも綺麗な顔をしていた。
「こんな人とお近づきになれたらなぁ……彼女とかいるのかな?」
「どうだろ……でもさぁ、私の友だちでGliateで働いてる子がいるのね。
その子曰く、早川社長って社内一の美女に言い寄らせてもぜんっぜん靡かなかったらしいよ。
超仕事人間!って感じで、むしろ浮ついた人にはすごい冷たいんだって」
「えーそうなの!?
女には興味ないって感じなのかな?」
「だからさ、陰では“冷徹社長”なんて呼ばれたりしてるらしい。
まぁ確かに、なんか近づきがたいオーラっていうか、冷たくて怖そうな感じはあるよね」
盛り上がる会話をバックに、注文したうどんをすする。
確かに、美形すぎる人って妙な迫力があるというか、私も対面した時は凄く緊張したのを覚えている。
「そんな冷徹社長の奥さんになれるのは、どんな人なんだろうね」
所詮、私とは住む世界の違う人だ。
気づけば昼休憩の終わりも迫ってきている。
午後からの仕事に間に合うように、私は急いでうどんを食べ進めるのだった。
♢
それは、いつものように仕事を始めようとした朝のことだった。
「えーでは、今日から一緒に仕事をする
そう言って課長が紹介したのは、1人の歳若い女の子。
部署内の皆の前に立って、彼女―――倉谷さんはにっこりと微笑んで見せた。
「初めまして、倉谷レナです。
みなさん今日からよろしくお願いしますっ」
「そのうち」と言われ続けていた欠員の補助として、倉谷さんは地方の支社から異動してきたようだ。
私と違って、倉谷さんは正社員。
けれど仕事内容は同じだから、必然的に私が倉谷さんに教えるような形になった。
けれど……倉谷さんは、私の言うことをまるで聞こうとしなかった。
私が仕事の説明をしている時は、つまらなそうに自分のネイルを眺めているばかり。
出来ないことがあれば男性社員の元に行き、教えて欲しいと甘えるように強請る。
「あの……倉谷さん。
同じ仕事をしているのは私だから、分からないところはまず私に聞いてくれませんか?」
そう伝えると、返ってきたのは嘲笑じみた表情と言葉。
「えーだってぇ、宮内さんって派遣さん……ですよね?
派遣さんにわざわざ教えて貰わなきゃいけないことなんて、別にないっていうかぁ……」
彼女は完全に私のことを見下していた。
倉谷さんがやることといえば、例えば男性社員一人ひとりの好みに合わせたお茶出しをして、愛想を振りまくことだった。
23歳と若くていかにも男ウケしそうな愛らしい容姿を持つ倉谷さんに、早くも男性陣はメロメロだった。
「やだぁ、荒井さんってば何言ってるんですかもぉ〜」
そして、一番気になることは
声のする方に目を向ければ、そこにあるのは倉谷さんと太晴の姿。
「冗談だって。何でも信じちゃって、ほんと純粋だなぁ」
「倉谷さんのイジワルっ」
至近距離で楽しそうに会話をする2人。
こんな光景を見るのは、最近ではいつものことだった。
倉谷さんは仕事中、何かと理由をつけては太晴のところに行く。
それで毎度2人は、こうやって仲良さげな様子を見せるのだ。
2人は倉谷さんが支社にいる時から知り合いだったようだけど……それにしたってくっつきすぎじゃない?
秘密にしているけれど一応私は太晴の彼女なわけで、見せられるのは気分が悪い。
そんな私の思いをよそに盛り上がる2人。
その仲睦まじさを見た通りすがりの男性社員が、茶化すように言った。
「お二人さんやけに仲良いっすね〜もしかして、付き合ってたりなんかして!?」
太晴が口を開くより早く、倉谷さんが答える。
その言葉に私は凍りついた。
「えーバレちゃいました?
実はそうなんですぅ。私たち、お付き合いしてまぁす」
「……え……?」
一瞬、意味が理解できなかった。
付き合ってる? 誰が?
……倉谷さんと太晴が?
信じられない思いで、太晴に目を向ける。
「ね、たぁくん?」
「……ああ、実はそうなんだよ。
恥ずかしいからお前らには秘密にしてたけどな」
太晴は否定するどころか、倉谷さんの言葉に頷いてみせた。
私と目が合うと、気まずけにさっと視線を逸らして。
「な……何だよー水くさいな、そういうのは早く教えてくれよー!」
一瞬の沈黙の後、わっとその場が盛り上がる。
何なの……これ。誰か嘘だって言ってよ。
1人状況が飲み込めず呆然とする私を見て、倉谷さんが嬉しそうに嗤っていた。