ごとごとと、それまで走っていた馬車が止まった。
目を閉じる。そして今一番の願い事を一字一句間違わずに、頭の中の黒板に書く。
「さあ着きましたよ」
隣の
閉じた目の裏側が赤く明るくなる。三つ数えて開いた。
それは彼女の母親が、昔よく話してくれたおまじないだった。
目を閉じてその時何よりも大切な願い事をして、三つ数えて目を開けるの。そうしたら必ずそれはかなうのよ。
何を願ったの、とアーランは判りもしない頃からよく訊ねた。すると母親は意味も判らない子供に、それでも大真面目に答えた。
母親が何と言ったのか、彼女は今ではうまく思い出せない。だけどこんなことを言ったんじゃないかと思う。
幸せになりたい。決して裕福でなくてもいいから、穏やかに暮らしていきたい。
でもその願いはどうやら母親の信じる神様には届かなかったらしい。
だってそれを願ったはずの母さんは決して幸せじゃなかったじゃないの。好き合っていた筈の父さんには捨てられて、一人であたしを産んで、働きすぎて病気になって、とうとう救護院行きよ。
アーランは時々そうやって「神様」に愚痴をもらす。
彼女は「神様」は信じていなかった。
尤もこの国では信仰というものは年々価値を無くしていたので、彼女だけが神に背く何とやら、という訳ではなかったが。
母親は彼女を連れ歩いて帝国中さまよった。
それはそれで穏やかな日々だったかもしれない。けれどその結果、母親は倒れた。
倒れた管区の救護院が母親を引き取り、アーランもその隣の養育施設に入れられた。そして六つの歳から十二年間育った。
生命力がそれまでの日々でずいぶんすり減っていたらしく、軽かったはずの病気は短い期間のうちにひどく重くなった。
アーランは母親に滅多に会えなくなり、やがて永遠に会えなくなった。彼女が八つの時だった。
その時彼女は「神様」に叫んだ。
どうしてそれだけのことが叶えられないの!
母親が病気の時に彼女に渡した守護体を投げ捨て、遺体に背を向け、前も見ずに走り出し、ぶつかった庭の木を固く握りしめた手で叩きながら。
だって母さんはそんなたくさんのことを願った訳じゃない! それなのに叶えられなかったって言うんじゃ!
信じない、と叫んだ。あんたなんか、絶対に信じない!
だが、変なものだ。今になって、妙にその信じない「神様」にまですがりつきたい気持ちになっていた。そんな自分の矛盾した心に唇をかみしめる。
願い事は、一つ。たった一つよ。
本当にたった一つなのよ!
どうかこのまま、何ごともなく、留学生として「連合」へ行けますように。
馬車から降り立つと、目の前には大きな建物があった。まだ建てられてそう時間が経っていない、最新式の白い壁と黒い柱、それに大きな窓の。
カバン一つに詰められた少ない荷物を抱きしめて、お世話になった御者氏にアーランはぺこんとお辞儀をする。彼はがんばりなさいよ、と穏やかな笑顔を見せて、再び御者台に乗った。
さてと。
アーランは目の前の建物をにらむように見据えた。