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第8話:喫茶店のホットケーキ

 その日、凜は朝から憂鬱ゆううつだった。


 澄み渡るような青空と全てを祝福しているかのような太陽だったが、今の彼女にはそれは無意味な気象状況だった。


「はぁ」


 短く溜息を吐く。


 出来る事なら回避したいと思っているが、それが仕事である以上は逃げることはできない。数ケ月に1度だが、毎回この考えが頭を過る。


「打ち合わせかぁ」


 担当編集者と会い、書いている小説の方向性や矛盾が無いかをチェックしする作業。この出版社に出向いて行う打ち合わせが、凜は途方もなく苦手だった。


「はぁ」


 もう一度溜息をして覚悟を決める。こうしていてもらちは開かないし、朝食や身支度の準備が減る一方だ。


「オムレツでも焼くか」


 美味しいものでも食べて気を紛らわす作戦に出る。


 綺麗なオムレツを作るのには苦労した。目指すのはレストランのような淡い黄色だが、家庭のコンロでは火加減が難しくコツを掴むのに数年間を練習に費やした。


 そのおかげか、今では火加減を理解し、完璧にきれいなオムレツを作れるようになっていた。


 卵を溶き牛乳と砂糖を少し入れ、フライパンを温めてバターを投入。そこに卵液を一気に流し入れ固めていく。


 火加減を気にしながらガチャガチャと混ぜ、ある程度固まったら巻いて行く。


 最終的に出来上がったのは綺麗な黄色のオムレツ。そしてそれを皿に乗せる。


 トーストした食パンとコーヒーも用意して、リビングのテーブルに着く。


「いただきます」


 オムレツにフォークを入れる。すると何の抵抗もなく切れ、中からトロリとした半熟卵が流れ出てくる。


「今回も成功だな」


 納得できる仕上がりだったことに満足しながら、凜はオムレツを口に運ぶ。


 ふわトロ食感とほのかな甘さ。そこにトーストとコーヒーを合わせていくのが幸せだった。この瞬間だけは数時間後に迫る打ち合わせの存在を忘れさせた。


 朝食を終え、出かける準備をし、出版社に向かう。


 東京に住んでいた時は出版社に向かうのも電車で30分ほどだったが、今は電車で1時間半も掛かる。電車に揺られながら景色を眺めていると、段々とビルが増えていく。


(相変わらず都会だなぁ。まぁ懐かしくもないし、嬉しくもないけど)


 引っ越してからまだ数ケ月しか経っていない事もあるだろうが、やはり都会という場所は自分には合っていないと実感できた。


 電車を降りて改札を抜け、出版社へと向う。


 そして出版社で担当編集者との打ち合わせが始まった。


「新作も好調ですね」


「そうですか。私にとって新しいテーマで書いたんで評価が別れるかと思ったんですが、好評なら良かったです」


「刑務所とホラーがテーマですからね。でもファンレターだって沢山届いてますよ」


 そう言って紙袋に詰め込まれたファンレターを渡された。


「有り難いですね。私の小説で楽しんでもらえてるなら、書いた甲斐があります」


 世間話などを織り交ぜながら、時間をかけて構想をすり合わせ矛盾や表現をチェックしていく。


 段々とスピードに乗るように、思考が途切れる事無くまとまっていく。


「では、以上のような感じでお願いします」


「わかりました。出来あがり次第連絡します」


 その言葉で打ち合わせは終了した。


 互いに一息を付いて、表情に余裕が戻った。


「そう言えば、最近引っ越したんですよね?」


 聞かれた凜は頷いた。


「ええ、地元に戻ったんです。地元と言っても関東なんで、あんまり代り映えはしませんけどね」


「そうなんですか。こんなことを言うのはアレなんですけど、戻って良かったのかもしれませんよ?」


「?」


「なんというか。以前と比べて顔色が良くなったと思います。以前は常に眉間にしわが寄っていましたから」


 そんな指摘をされ、思わず凜は自分の眉間を撫でる。


「今の環境が良いって事じゃないですか? コチラとしては先生の仕事がはかどるのは嬉しい限りです」


 そう笑いながら担当編集者は席を立った。


「私はこれから会議ですので、これで失礼します。何かあったら連絡してください」


 去っていく背中を見送りながら、凜も変える支度をして席を立った。


(前は眉間に皺が寄ってたのか)


 エレベーターで降下しながら鏡を見る。


 確かに以前までは考える事が多かった気がする。何に急かされる訳でもなく、ただ漠然ばくぜんと家で小説を書き続ける毎日。


 楽しみもなく、趣味も忘れていた日々だったが、今はどうだろう。慣れ親しんだ地元という環境が良い結果を生み出したのだろうか。


 その時、凜のスマートフォンが鳴った。


 画面を確認すると、そこには知った名前とメッセージアプリが映し出されていた。


『材料は私が買ってくるから、アジフライとハムカツが食べたい』


 差出人は京極香奈乃。


 それを見て凜は答える。


『わかった。作ってやるよ』


 簡素な言葉だが、相手は気にした様子もなく、スタンプで喜びと感謝を表現していた。


「コイツも居たな」


 地元に戻ってできた友人。彼女との出会いも良い影響の1つなのかもしれなかった。


 エレベーターが1階に着き扉が開く。


 行きはあれだけ面倒な気分だったのに終わってみれば解放感と充実感が押し寄せている。


 腕時計を見れば正午前。家に帰って食事をするよりも、あの店で食事をしたかった。


「久しぶりに行ってみるか」


 疲れた精神と脳を癒してくれる店を目指し、凜は歩き出した。


 東京にいたころは唯一の楽しみと言っても過言ではないほどに愛用していた店。駅からも出版社からも遠い立地に存在しているその店の名は【緩緩ゆるゆる】。


 凜はそこのホットケーキが大好物だった。


 歩く事14分。喫茶店の看板が見えると、凜の足は自然と速くなった。


 昔懐かしいレンガ調の外壁と、つたに覆われた看板。ドアを開けるとベルが優しい音色を奏でる。


「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」


 50代くらいの女性店主が出迎えてくれる。


 凜はテーブル席に腰掛けると、メニューを開き注文する品を決めて店主を呼ぶ。


「アイスコーヒーとホットケーキをください」


「アイスコーヒーとホットケーキですね。少々お待ちください」


 そう言って店主は去り、ホットケーキの準備を始めた。


 注文を終えた凜はソファーの背もたれに体重を預け、ぼんやりと店内を見回した。明る過ぎず暗過ぎない落ち着いた雰囲気で、ゆったりと流れるBGMもセンスが良い。


 店内には時計は無く、時間を忘れてこの空間を楽しむことができるが、裏を返せば時間に追われている人間には楽しめない場所といえた。


 この空間で、凜がすることはいつも決まっていた。


 ノートと万年筆を取り出し、小説の構想を練るのだ。あえてスマートフォンやPCではなく紙とペンにこだわり、ひたすらに思いつくことを書き留めていく。


 万年筆がノートを引っ掻く音。それに合わせて黒い文字が白地を埋めていく。


(やっぱりはかどるんだよな。これが終わればホットケーキが食べられるって言うご褒美も嬉しいんだろうけど)


 万年筆を止めることなく、どんどんと出てくるアイディアを書き続ける事30分。凜のテーブルが甘い香りに包まれた。


「お待たせしました。ホットケーキとアイスコーヒーです」


 例えどんなに集中していても、この匂いにかれない事など無い。

 凜は顔を上げると、目の前に注文した品が置かれていた。


「相変わらず美味そうだ」


 急いでノートと万年筆をバッグの中にしまうと、代わりにナイフとフォークを手に持った。


「いただきます」


 この店のホットケーキはマンガに出てくるような、厚みのあるふっくらとした2段重ねであり、バターとシロップだけのシンプルなトッピングだった。


 それ故に飽きることなく食べられる。凜が出会った中で最高峰のホットケーキだった。


 ナイフで切ると、湯気と共に甘い香りが立ち上る。そこにシロップをかけ、バターを少しだけ塗る。そしてそれを口へ入れる。


 甘い生地とシロップ。そこにバターという風味が加わることで、口の中が幸せになる。


 2口目を食べる。生地にしみ込んだシロップがジュワリと溢れだす。


 休むことなく一気に1枚目を食べると、そこで初めて落ち着いた。


 暑く甘くなった口にアイスコーヒーを流し込むと、サッパリとはするが、余韻だけはしっかりと残っている。


 1枚でも満足感はあるが、途中で残すなどという選択肢は無い。


 残りの1枚は味わいながら、ゆっくりと食べ進める。


(そう言えば、アイツは今日休みなのか。テレビかなんかでアジフライでも出てたのかな)


 先ほど送られてきたメッセージを思いかえす。


(アジフライ作るのは久々だな)


 そんな事を思いながらアイスコーヒーすすった。


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