凜は一度集中してしまえば、それが途切れることなく書き上げてしまう事もあった。しかし。その集中が今回は発揮されず、2本目のコラムは暗礁に乗り上げていた。
「思いつかないなぁ」
リクエストされたテーマである『1人暮らし』に沿った内容を考えても、上手いこと話しができない。多少の苛立ちを感じながらベッドに寝転がる。
ダラダラしても怒られないし
流石に若くはないな。と自分に諦めをつけ、寝っ転がりながら天井を見つめる。
視線を外に向ければ、空は晴れ雲が流れていく。それを眺めながら、コラムの話しを様々な角度から考える。
そんな時間を過ごしながら、体力と気力を回復させると、ベッドから起き上がり身支度を始めた。
完全にドツボにハマっている今の状況で、部屋にこもっていても良いことは無いのは経験として知っていた。
彼女が出かけようとしているのはスーパー『
歩いて15分程の場所にあるスーパーという事で、日頃から大いに活用しているのだが、このスーパーというのが地域トップレベルで商品の質が良かった。
系列店ではなく個人商店なのだが、肉や野菜、魚に至るまで鮮度が抜群に良いのが特徴だった。
そして何よりも総菜が美味い。適当なおざなりではなく、力をいれた安心の味。
だが今日は総菜は買う必要は無い。夕飯は凜が自分で作るので、その材料の購入が目的だった。
自動ドアが開き、スーパー特有の匂いが凜に押し寄せる。彼女はカゴを手に取ると、野菜のコーナーに足を向ける。
「一応作るもの決めてるし、余計なものは買わないようにしないと」
スーパーに来ると、ついつい目に止まったものを買いたくなるのだが、結局は食べきれない可能性もあるので自制心が必要だった。
紫玉ねぎ、ニンジン、ピーマン、カボチャをカゴに入れる。そして鮮魚コーナーに向かうと、目当ての魚を品定めする。
「この時期なら丁度いいのがあるな」
手に取ったは
他にも色々と必要なものを買ってからスーパーを出る。
買い物袋をぶら下げながら帰路に就く。
「ただいまっと」
袋を床に置いて一息を吐く。普段から外を出歩くことの少ない小説家という職業ゆえに、体力の低下を実感する凜。
コップに水道水を注いで一気に飲み、それから買ってきた物の中で不要なものを冷蔵庫に仕舞い、使うものは出しておく。
「さて、作るか」
凜は気合を入れて、調理に取り掛かる。
まずは野菜。紫玉ねぎはスライサーで薄くスライスしたものを水にさらして辛味を抜く。ニンジンは千切りにし、ピーマンとカボチャは包丁で薄く切る。
野菜を切り終わったので、次は小鰺の下処理に移る。
「はぁ」
美味しく食べる為とはいえ、魚の内臓と血にまみれるのは気が重かった。だが、今さら悩んでも仕方がない。食べたいのならばやるしかないのだ。
覚悟を決めた凜は包丁を握り、小鰺の鱗とゼイゴを取り、腹を開いて内臓とエラを取り除く。
合計で12匹の小鰺を捌いてすぐに油の準備をする。
油が温まるまでの間に、紫玉ねぎを水から引き上げてニンジン、ピーマンと共に大きめのタッパーに入れる。
そこに酢と顆粒だし、醤油を加えて漬けておく。
油が温まった事を確認すると、まずは油が汚れないカボチャから揚げる。
鍋の底に沈んだカボチャは暫くすると小さな気泡を吐き出し、段々と揚がっていく。出来あがったカボチャをパットに置いておく。
全てのカボチャを揚げ終えてから、小鰺に取り掛かる。軽く塩コショウを振り小麦粉をつけてから油に入れる。
弱火でじっくり揚げる事で骨の水分まで飛ばし、食べられるようにする。
10分ほどで1度取り出し、別の鰺を油に入れる。それを5回ほど繰り返し、全ての鰺を揚げてから油の温度を上げた。
「やっぱ2度揚げはしとかないとな」
2度揚げをしておくと油の切れも良くなるし、より表面がカリカリに仕上げる効果がある。
最初の鰺を鍋に入れると、油が弾ける高音が響く。
油が跳ねてコンロ周りを汚していくのに目をつぶり、どんどんと鰺を揚げる。
「よし、こんなもんか」
息つく暇もなコンロの火を消し、出来あがった鰺を野菜の入っているタッパーに入れ漬け込む。
熱々の鰺が出汁酢に浸かる度にジュージューと音を立てていく。
カボチャも一緒に漬け込んで、鰺の南蛮漬けが完成した。
「夕飯の時まで漬け込めば味も染み込むでしょ」
タッパーの蓋を閉めて冷蔵庫にしまう。
「……掃除するか」
後回しにしても良いのだが、面倒ごとは早めに済ませてしまうのが凜の癖だった。疲労の勢いのままにコンロ周りの油跳ねを拭いていく。
「実家に居た頃はコンロの掃除なんて考えたことも無かったな」
料理は作っても掃除までは発想に無かった。誰がやっていたのかなど考えるまでもなく母親だろう。 1人暮らしをして初めてわかることも多かったが、切実に理解したのが掃除だった。
「これ、使えるな」
残っていたコラムのアイディアとして、今の事を書くのはどうだろうかと頭で文章を考える。
そんな事を考えながらコンロ周りの掃除を終えると、時間は16時半を過ぎていた。
「アイツが来るまで時間はあるし、それまでに書き上げる」
鉄は熱いうちに打て。その言葉を体現するように、凜はPCに向かうと先ほど考えた文章を次々に文字として起こしていく。
600字でまとめるコラムだったが、1時間で書き上げてしまった。
先ほどまで完全に沼っていたのが嘘のように出来あがった原稿を眺め、凜はガッツポーズをして喜んだ。
「よっしゃ終わった。これで心置きなく今日は酒が飲める」
締め切りを気にしながらアルコールを飲んでも、気持ちよく酔うことはできない。せっかく油と格闘しながら鰺の南蛮漬けを作ったのだから、それをツマミにビールが飲みたかった。
「おっと、夕飯の支度をしよう」
時計を見て慌てて夕飯の準備を始める。
今日は香奈乃が夕飯を食べにくる日とあって、南蛮漬けだけではない。
タイマーで炊飯してあった米をおにぎりにする。掌ほどのおにぎりを4つ作り、トースターにアルミホイルを敷いてごま油を垂らし、おにぎりを並べる。
「ごま油って食欲を刺激する匂いだよなぁ」
香ばしく、どこか甘い匂いを感じながら、トースターのタイマーを15分に設定して焼き始める。
トースターの中がほんのりとオレンジ色に染まり熱を持つ。
焼けていくおにぎりを眺めるのも良いが、他にもやることがある。
冷蔵庫から大葉とミョウガを取り出して細かく刻んでいると、インターフォンが鳴った。
凜は時計を確認すると、誰が来たかを予想できた。
念のためドアスコープを覗いて確認してからドアの鍵を開ける。
「よお、お疲れ」
「今日はホントに疲れちゃったわよ」
言葉を交わし、凜は香奈乃を部屋に招き入れた。
「お邪魔します」
香奈乃は靴を脱ぎ部屋に上がると、一直線に冷蔵庫に向かった。
ガチャリと扉を開け、中からビール缶を掴み出す。それを見ていた凜は、呆れたように口を開いた。
「お前、せめて手は洗えよ」
「――ッ。解ってるわよ」
日頃、仕事から帰ってきてすぐに冷蔵庫に駆け寄って酒を飲んでいるんだろうな。と察した凜と、思わず自宅での癖が出てしまった香奈乃。
香奈乃はビールを冷蔵庫に戻し、洗面所に向かった。
その後ろ姿を見送って、凜は夕飯の準備を再開する。
冷蔵庫から鰺の南蛮漬けを取り出し、蓋を開けてみると野菜も魚もほどよく漬かっている。
「なにか手伝おうか?」
手を洗ってきた香奈乃が戻っていた。
「無理すんな。ビール飲んで待ってろ」
「ちょッ、変なこと言わないで。アレは偶然よ!」
どんなに言いつくろっても見てしまったものは変わらない。それは香奈乃も理解しているようで、文句を言うのを諦めて冷蔵庫からビールを取り出してリビングに向かった。
凜は焼きおにぎりの様子を確認するべく、トースターの扉を開ける。そこには茶色く焼き目の付いたおにぎりが湯気を立てている。
それをひっくり返し、扉を閉める。
焼きおにぎりの完成が近い事を考え、冷蔵庫から豆腐を1丁取り出し、半分に切ってから2皿に乗せる。
そこに先ほど切った大葉とミョウガ、かつお節を振りかける。
そして鰺の南蛮漬けも大皿に見栄え良く盛り付けた。
「夕飯できたぞ」