熱帯夜の蒸し暑さも徐々に過ぎ去っている気がする10月。鈴虫の羽音を聞きながら
打ち出される文字を目で追いながら、文章を考えて指を動かし続ける。
もの凄い速さで文章が出来あがっていき、10分もすれば数ページ分の小説が出来あがっていた。
「ふう」
溜息を吐き、目をつぶる。今後の展開を頭に思い描きながら、小休憩を挟んで再びPC画面に向きなおる。
それを繰り返し、気が付けば22時を超えていた。
「ダメだ、全然進まない」
締め切りが近づいているのに、上手いこと物語が進んでいかない。このままでは担当編集に謝罪と締め切りの先延ばしを交渉しなければならず、それを苦手としている彼女は非常に焦っていた。
凜はPCの画面から目を離し、現実逃避として開いている窓から外を眺めた。
「地元に帰ってきたのは正解だったかもな」
こちらに戻ってきて2週間足らずだが、とても満足していた。最近まで住んでいた東京では夜でも騒がしく、窓など開けてはいられなかった。しかし今聞こえるのは虫の声と夜風と女性の叫び声だった。
「あぁ~マズいマズい! その攻撃はさっきまでしてこなかったじゃん。なんでこのタイミングで――。死んだーーーー!」
随分と物騒な言葉だが、ゲームか何かをしているのだとすぐに理解できた。しかし同時に疑問も湧いてきた。
「なんで窓閉めてないんだよ」
このマンションは防音対策が出来ているというマンションであり、窓をしっかりと閉めてしまえば楽器でも問題ないという部屋だった。にも
「隣ってどんな人だっけ」
そう考えたが不動産屋に女性の単身者は防犯として、隣近所に挨拶をしない方が良いと言われたので、そのアドバイスに従って挨拶をしていなかった。
誰が住んでいるのかは知らないが、どうにも気になる。
「くっそー。死にゲーだからって理不尽すぎるでしょ。クリアできるんか、これ?」
どうにもゲームに集中していて、窓が開いていることに気付いていないのか絶叫が響いた。
「あ~、うるさい」
普段であれば、のちのち面倒になりそうな事を避ける凜だったが、仕事が進んでいないイライラが募り、気が付けば部屋の壁を叩いていた。
その瞬間、騒いでいた隣の声がピタリと止んで、窓が閉まる音が聞こえた。
「よし」
静かになった事で、再び虫の声のみになった。凜は大きく伸びをしてから、PCの画面に視線を向ける。
そして物語を描くべくキーボードに指を這わせる。こうして黒井凜の秋の夜は過ぎていった。
■
時間は少し遡る。
「今日も良く働いたなぁ」
バイト先であるスーパーで販売しているサバの味噌煮と玉子焼きだけのシンプルなものだったが、食事に特段のこだわりもない彼女にとって、何の不満もない夕食だった。
18時の夕食を終えシャワーを浴びてから、ゆっくりとソファーに座り一息をつく。
「今日は22時の配信だったわよね」
大きく伸びをして、テレビを点ける。
バラエティー番組が流れた瞬間から笑い声が響き、1人しかいない空間が微かに華やいだ。
その笑い声をBGMに、香奈乃は軽く目を閉じる。
本当はベッドで眠りたい欲求もあるのだが、今眠ってしまえば22時前に起きる自信はない。なので、ソファーでの仮眠くらいが丁度良かった。
うつらうつらと舟を漕ぎ、気が付くと21時を過ぎたくらいだった。
「ヤバッ。準備しないと」
テレビの電源を切り、勢いよくソファーから立ち上がってPCが置いてある机に向かう。椅子に座り電源を入れると、機械の駆動音と共に画面が明るくなる。
配信に必要なアプリの確認を済ませ、今日配信するゲームを立ち上げる。
「ダウンロードも終わってるし更新も無し。軽く設定だけ弄っておくか」
画面設定や音のボリュームを調整し終えると、SNSを確認する。
普段使っているSNSのアカウントではなく、配信者としてのアカウントに接続した。
名前が
「もうすぐ配信始まるよ。新作のゲームすっごい楽しみ。皆で楽しもうね~。っと」
音読しながら文字を打ち込んでツイートをする。
その瞬間からポツポツと閲覧人数が増えていくのを確認し、香奈乃は笑みを零す。
「個人勢としてはまずまずな感じよね」
彼女、京極香奈乃は趣味でVtuberとして活動していた。事務所等には所属していない個人での活動をメインとしており、ゲームの配信や雑談を動画投稿サイトで行っていた。
環の登録者数は30万人と、個人勢としては成功している。そのため、配信環境を整えるために数年前に防音対策の整っているこのマンションに引っ越したのだが、問題もあった。
「暑い」
防音という事は密閉性が高く、すぐに室温が高くなる。そこでエアコンを入れることも考えるが、彼女の体質なのかエアコンとの相性が悪く、すぐに体調を崩すので窓を開けることにした。
「大分涼しくなってきたかな」
熱帯夜であった時が懐かしく思えるほどの気温。外気を部屋に入れ、もう一度SNSを眺める。
コメントも付き始め、楽しみにしてくれているのが伝わってくる。
そして時刻は21時50分。準備は万端に済ませ、サイトにログインして22時を待つ。
時間が近づくにつれ視聴者の待機人数も増えていき、その勢いのままライブ配信が始まった。
「今日も私のサボタージュに付き合ってくれてありがとう。君たちもゆっくりしていってね~。という事で始めていこうか。今日はこのゲームをプレイしていきます。私は完全に初見なので、ネタバレ禁止でお願いね」
そう言ってキーボードとマウスを使ってニューゲームを選択した。
ムービーが流れ、バウンティーハンターとなった少年の物語が始まりを告げる。
「ムービー綺麗だったねぇ。結構話題になってたから楽しみだったんだよね。まずは操作に慣れないと」
キーボードをカチャカチャと操作して前後左右と攻撃のモーションを確認する。
そんな事をやりながらゲームを進めていくうちに強めの敵にエンカウントした。
「最初の難敵か。敵の攻撃パターンに慣れるのが大事だよね」
1度で倒す事など考えず、複数回の挑戦を覚悟して攻撃を喰らい続ける。4度の挑戦を繰り返し、攻撃のタイミングを掴んできた事で5回目にして本挑戦に望んだ。
紙一重で攻撃を交わす
「あぁ~マズいマズい! その攻撃はさっきまでしてこなかったじゃん。なんでこのタイミングで――。死んだーーーー!」
思わず絶叫を口にした。コメントもそれに伴って大いに盛り上がっていく。
「くっそー。死にゲーだからって理不尽すぎるでしょ。クリアできるんか、これ?」
そしてその盛り上がりと同時に壁が叩かれた。決して強くは無いが、確実に苦情を告げるための行動に思えた。
(ヤバッ、騒ぎ過ぎた。でも防音なのになんで?)
壁もそれなりの厚さがあるはずなのに。そう考えていると、彼女の頬を風が撫でた。
(これか!!)
先ほど開けた窓。そんなものが開いていれば、防音であっても何の意味もない。飛びつくように窓に手をかけて閉める。
幸いにも視聴者にはバレていないようだったので、何事もないようにしてゲームを続けた。
(隣どんな人だっけな?)
頭の片隅で考えていたが答は出ず、いつの間にかゲームに夢中になり完全に忘れたのだった。