決闘大会を見届けたネフェルとユキメは部屋に戻り、この後の夜会に向けてドレスに着替えていた。
ネフェルのドレスの着付けはユキメが手伝っていた。
夜会用のドレスはとても豪奢で、一人で着替えることはまず不可能だったからだ。
「ユキメお姉さん、ありがとうございます。着替えを手伝ってもらうのはもちろんですが、夜会用のドレスも貸していただけて」
ネフェルはパーティー用のドレスを一応、持参していたが、四大公爵家の一翼であるアスタロッド家のパートナーとして出席するには荷が重く、どうしようか悩んでいたところ、ユキメが自分の
「いいのよ。このドレスは「ここぞ!」という時に使おうと思っていたんだけど、そのことでかえって着るタイミングを逃しちゃって……。だからこうしてネフェルちゃんが着てくれて助かってるの。このドレスだってずっとクローゼットで眠ったままだったから、やっと日の目を見られて喜んでいると思うわ」
「でも、それじゃあユキメお姉さんが着ていくドレスがなくなるんじゃ……」
「大丈夫よ。他にもドレスはあるし、あと私はどちらかというとドレスより
「まあ、もし私が四大公爵家のご令息と夜会に出席するなら
「それに……。そもそも今日の夜会は、私は誰からもお誘いをいただけなかったから。だからドレスの心配はしなくても大丈夫なのよ」
そういうユキメは少し寂しそうだったが、惨めさを感じている印象はなかった。
「私も最初こそは大勢のご令息がお誘いくださって、頑張って夜会に出席したけど……。でも駄目ね。私が本心からお付き合いしたいと思っていないことを相手も感じ取ってしまわれるみたい。二度目を申し込んで下さるご令息はいなくて、だんだんと夜会から遠ざかってしまっているわ。まあ、自業自得よね」
「ユキメお姉さんが本心からお付き合いしたいと思えない理由は……やはり
「あれあれ~? ネフェルちゃん、さすがお姉さんの乙女心をわかってるじゃない」
ユキメは朗らかに笑ったが、ネフェルはその朗らかさは寂しさを表に出さない為の裏返しだとわかっていた。
そしてユキメにとって
「あの、
「そうね。カーコス君からは今回もそうだけど、これまでも一度も夜会に誘われていないわ。でもカーコス君も、他のご令嬢と夜会に出ているわけじゃないの。カーコス君は入学して以来、一度も夜会に出席していないわ」
「そうなんですね……」
ネフェルは子供の頃の
「
ネフェルは寂しそうに洩らした。
「ごめんね、ネフェルちゃん。あのお話が上手くいっていればこんなことにならなかったのに……」
「あっ、ご、ごめんなさいっ! ユキメお姉さんを責めるつもりは全くありません! そういうつもりじゃなかったんです。すみません。どうかユキメお姉さんが負い目を感じないでくださいっ……」
ネフェルは慌てて取り繕った。そして、この事をユキメが少なからず気にしているのに、不用意な失言だったと反省した。
ネフェルはこの件でユキメを責める気持ちは微塵もなかった。結婚の儀はご両親に断られたが、当のユキメは
その為、ネフェルはユキメも好きな相手と結婚できなかった被害者であると認識しており、責任を感じてさらに心痛を増やして欲しくなく、自らの発言に、より注意をしようと心に誓った。
さらにネフェルは、ユキメが誰からも夜会に誘われなくても惨めさを感じていないのは、そもそも
もしその
ネフェルは少し黙り込んでしまった。
ユキメは少し空気が重くなったことを感じて、努めて明るくネフェルに声を掛けた。
「とにかく、ネフェルちゃんは今は自分のことに集中して。私のことを気にしてる場合じゃないわよ」
ユキメにそう云われて、ネフェルは「そうでした」と現実を思い出した。
確かに今日は、自分にとって学園で初めての夜会で、しかもその相手が四大公爵家の一翼アスタロッド家の
しかしネフェルは、あまりに事が大きすぎて逆に実感が湧かず、どこか他人事のようにさえ思える部分があった。
しかしユキメに
「ドレスのサイズや
そう言ってユキメは背中や脇の糸を外して胸まわりを緩めると、ネフェルにフィットするようにドレスのアレンジを始めた。
「ユキメお姉さん、なんとか収まっていますし、せっかくのドレスを無理に
「駄目よ、ネフェルちゃん。夜会のディナーは凄く美味しいご馳走がずらりと並ぶのよ。私たちのような地方の領地では滅多にお目にかかれない豪勢なお料理ばかりよ。それを見て我慢するなんてネフェルちゃんもできないでしょ?」
そう云われてネフェルは初めてスレキアイ、グランダム、ルーシファス、ウィンリルと昼食をとった時のことを思い出した。
スレキアイの手配してくれた昼食は本当に美味しく、我を忘れてつい地の方言が飛び出してしまう程で、自分たちの領地と違い、都会である王都料理の美味しさは痛感していた。
「それに今日の夜会のスイーツは魔界で一番有名なマカロン店のパティシエが作る、その名も「マ・カィロン」が出るのよ。「マ・カィロン」は全部で12種類あるから全部食べなきゃもったいないわ。だからお腹いっぱいになっても息が苦しくないように胸まわりを広げておかないと」
ネフェルは確かに「マ・カィロン」は魅力的だと思ったが、今現在、緊張でまったく食欲がない為、ディナー席で食事が喉を通るか心配だった。
「それにディナーだけじゃないわ。夜会ではダンスも踊らないと。飛んだり跳ねたり回ったりはしないけど、あんまり胸が窮屈だと、手が上がらなくなるわよ。だからちゃんとそういった動きをしても大丈夫なように
そういってユキメは手慣れた手つきでドレスの
「それにしてもネフェルちゃん、立派になったわねぇ~。子供の頃からその片鱗を感じていたけど、まさかここまで立派に成長するとは……。ユキメお姉さんもびっくりよ」
胸まわりをひとまわりもふたまわりも広げつつユキメがつくづくといったようすで呟いた。
「え? ええっ? そ、そうですね。私もびっくりです」
ネフェルは少し気恥ずかしくなった。
「やっぱり
でも鮮度が命だから他の領地には卸してなくて、私もネフェルちゃんの領地でお泊り会した時にいただいて本当にびっくりしたんだけど、あれを毎日飲んでいた効果よね、きっと。うらやましいわ」
胸元の位置を慎重に定めつつ、ユキメがそう洩らすのでネフェルはくすぐったさを覚えてしまった。
「ネフェルちゃん、今からでも遅くないわ。ネフェルちゃんの領地の牛乳を私にも分けて頂戴」
ユキメが冗談めかして突然申し入れてきたのでネフェルは返答に困った。
「え? ええっ? でも本当にそうした効果があるかどうかもわかりませんよ?」
「いいの。大切なのは信じる心よ。それともなに? まさか独り占めしようっていうんじゃないでしょうね? 私はドレスを貸して、お着替えも手伝ってるのよ。ちょっとはお姉さんに恩返ししてくれてもいいじゃないかしら?」
そういってユキメはネフェルをからかい、意地悪をしてネフェルをくすぐった。
たまらずネフェルは笑い声をあげてしまった。
「ユキメお姉さんっ! 針と糸を使っているのにやめてくださいっ。危ないじゃないですかっ」
ネフェルは抵抗したが「もうお直しは終わったから大丈夫よ。それより分けてくれるの? くれないの?」と尚もユキメに責められた。
ネフェルはユキメのこの冗談が、少しでも緊張を和らげようと、わざと行っている優しさだと気付いた。
ネフェルはその優しさに癒されつつ、そういえば昔もこうしてお互いのお洋服を着せ合って、髪を結ったり、お化粧したりしてユキメお姉さんと遊んだなと、楽しかった幼少期を思い返した。
そして二人は当時の童心が蘇り、緊張を一時忘れて声をあげてはしゃぎ合った。
するとその騒ぎを聞いてスレキアイが何事かと部屋からでてきた。
「なんじゃ、騒がしいな。もう夜会の準備はできたのか?」
急にスレキアイが部屋から出てきたのでユキメは慌てた。
「ちょ、ちょっとスレキアイ部長! こちらは淑女のお着替え中です! 急にこられては困りま───」
ユキメは苦情を言おうと思ったがスレキアイの姿を見て息をのんで黙ってしまった。
ネフェルも振り返り、スレキアイを見ると、その光景に目を丸くした。
スレキアイはいつもの黒のドレス姿ではなく、
スレキアイはユキメとネフェルが息を飲んで黙るので何事かと思ったが、その原因が自分の服装にあることにすぐに気付いた。
「ああ、この衣装か。これはアスタロッド家の正装だ。別段珍しい物でもなかろう。どの貴族家でもナイトフォーマルといえば令息はみんなこのような服装だ」
それは確かにそうだったが、スレキアイのフォーマルナイト姿は威厳が桁違いだった。
その圧力は大きく、近くにいるだけで恐れ多いと思わずにはいられなかった。
ユキメは自然とその場に膝を折ってかしこまった。本能でそうしなければと身体が勝手に動いた行為だった。
ネフェルもそうしたい衝動に駆られた。
(この方と同じ空間にいて立ったままでいるなんて不遜だわ。許されない事よ!)
しかし衝動とは裏腹に膝が震えて足を動かすことができず、棒立ちのまま身動きすることができなかった。
「着替えは済んだのだな?」
スレキアイのその問いにはユキメが答えた。
「はい、済んでおります。スレキアイ
そう返答するユキメの言葉は主人にかしずくメイドのようで、いつものようにスレキアイを「我がままでめんどくさがり屋の困った錬金術部の部長」という扱いではなく、崇高な公爵家の令息として敬っていた。
「そうか。確かにそのようだな。ネフェルよ、
その一言を聞いてネフェルは、自分に雷でも落ちたのかと思う程の衝撃を受けた。
(ス、スレキアイ様にお世辞でも「美しい」とお言葉をいただけるなんて……!)
ネフェルは歓喜の感情が花開いたが、しかし直後に恐れ多いという恐縮感も膨らみ、自分が今、喜んでいるのか恐縮しているのかわからない状態になってしまった。
そうして戸惑っているネフェルをよそに、スレキアイは顔を近づけたり離したり、横に回ってみたりと、ドレスアップしたネフェルを美しい花でも愛でるように鑑賞した。
スレキアイにそのように見られ、ネフェルはまるで自分が衣服を身につけておらず、素肌を見られてしまっているかのような恥ずかしさを覚えた。
うずくまって身体を隠したくなる衝動に駆られたが、しかしその一方で、その恥ずかしさは不快な感覚ではなく、むしろ悦ばしいとさえ思えている一面もあった。
逃げ出したい衝動と、このままでいたいという求めてしまう相反する二つの思いがネフェルの中で渦巻いた。
「いや、失敬した。あまりの美しさについ見惚れてしまった」
スレキアイはネフェルが身を固くしているのに気付き、非礼を侘びたが、その「見惚れた」という一言が、またネフェルに雷を落とした。
「ユキメも着付けの手伝い、ご苦労だったな」
スレキアイはユキメの労を労った。
「恐縮です」
「
「「えっ?」」
「だがこれでは足りぬ。このままでは夜会にエスコートはできんな」
スレキアイの一言は衝撃的だった。