「……あっ! まさか、靴擦れ?」
足をお湯に浸した瞬間のこの反応、思いつくものはこれしかなかった。
「あはは……。バレちゃったぁ……」
「もしかして……、ずっと我慢してたの?」
栞は真新しいショートブーツを履いているのは俺も知っていた。それであれだけ歩き回っていたのだから、これは当然憂慮してしかるべきことだった。
出発前にチラッと心配してたはずなのになぁ……。
ここまで栞は普通に歩いていたし、俺も栞とのデートということで浮かれていて気付いてあげることができなかったのが悔やまれる。
「え、えへへ……。バレちゃったら、涼がそこで帰ろうって言う気がして、ね。せっかく涼が調べてくれたの、無駄にしたくなくって……」
「それならそうと言ってよ……。言ってくれたら、ちゃんと栞の意思を優先するんだからさ」
「うん……、ごめんなさ──」
「それより、とにかく足見せて?」
放っておくと自分を責め続けそうな栞の言葉を遮って、栞の前にしゃがみ込む。
「あ、うん……」
栞が俺に向けた足を見ると、足首の下辺りが両方とも赤くなっている。皮も少し剥けてしまっていて痛々しい。こんな状態でお湯に触れれば痛くて当たり前だ。
「あー……、結構ひどいね。栞は無茶しすぎっ。よくこれで歩いてたよ、まったく……。とりあえず、これ以上擦れないようにしないと。栞、あの絆創膏って今持ってる?」
あれなら防水仕様だから、貼っておけば足湯にも入れるようになるだろうし、歩く時もマシにはなるだろう。と思ったが、
「えっと、ね……、送る荷物の中に、入れちゃった……」
そううまくはいかないらしい。
「なら、どこかで買ってくるかぁ……」
近くにコンビニはあるだろうか。栞をこのまま歩かせるわけにはいかないし、ここで待ってもらって俺がひとっ走りして、と考えていると横から手が差し出された。
「良かったらこれ、使ってちょうだい。靴擦れ、辛いものね」
先程のおばあさんが心配そうに栞を見つめながら絆創膏を手にしていた。
「えっと、いいんですか?」
「もちろんよ。私も、よくなるのよ。だからこうしていつも絆創膏を持ち歩いているの。痛いの可哀想だしねぇ、遠慮なくどうぞ?」
「ありがとうございます」
おばあさんにお礼を言って絆創膏を受け取り、栞に向き直る。
「栞。少し触るけど、痛かったらごめん」
「ううん、平気。私の方こそごめんねぇ、涼……」
「もういいって」
「うん……」
ハンカチで患部の水気を拭き取って、いただいた絆創膏を貼り付ける。靴擦れのために持ち歩いてるというだけあって厚みもあるし、見たところ防水にもなっているようだ。
「これで少しはマシになるかな。ちょっと足、お湯につけてみて?」
栞の足を労るように撫でながら言うと、栞は恐る恐るお湯に足を沈めていく。
「ん、平気みたい。ありがと、涼。それから、すいません。絆創膏いただいてしまって。ありがとうございます」
栞も遅れておばあさんへと頭を下げた。おばあさんは俺達の左手と顔をそれぞれ見て、
「いいのよ、気にしなくて。優しい旦那さん……、でいいのかしら? にしては若そうだけど……」
「そうなんです! 優しい旦那さんなんですよ!」
栞はつい今の今までしゅんとしていたのが嘘のように食い気味に答えた。
昨日に引き続きこんな感じのことを聞くのはこれで二度目なわけだが。……いやいや、旅館の人はわかって言っていたが、このおばあさんは何も知らないのだから嘘はよくない。
「こらこら、栞。まだ、でしょ」
「えー、いいじゃない。どうせ近いうちにそうなるんだからぁ」
「それはそうだけどさぁ……」
「えっと、まだって、どういうことかしら……?」
ほら、おばあさんも首を傾げちゃってるじゃない。俺が口を挟んだからかもしれないけどさ。
「あの……、俺達まだ16歳なんで結婚はできないんですよ。しようねって約束はしてるんですけど」
「あぁ、なるほどねぇ。でも、あらぁ? それなら高校生よね? 学校はどうしたの? まさか、サボりかしら?」
おばあさんは上品に口元を手で隠して「うふふ」と笑う。
悪い子を見つけたという目で見られてしまったけれど、事情を知らない人からすればそうもなるか。普通の平日の昼間に高校生が私服でウロウロしていたらサボりを疑われても仕方がない。
「私達の学校、昨日と今日はお休みなんです。土日に学校祭があったので、その振替になってて」
「あぁ、なるほどねぇ。疑ってごめんなさいね」
「いえいえ。それで、ちょうど私の誕生日が今日だったんで、涼──彼が旅行を計画してくれたんですよ」
「あらあら、やっぱり優しい旦那さんなのね」
「えへへ、はいっ。自慢の旦那さんなんですよ」
こう手放しで褒められるとこそばゆい。しかも相手は初対面のおばあさんだ。旅館でもそうだったが、なかなか慣れそうにない。
「ふふっ、でも若いっていいわねぇ。私もね、16の時にこの人と結婚したのよ。それから今日でちょうど60年になるの。娘夫婦がそのお祝いにって温泉旅行をプレゼントしてくれてね。その先であなた達に会えたのは何かの縁かもしれないわねぇ」
「わぁ、60年……。おめでとうございます! すごいですねっ!」
「そうねぇ。でも、思い返すとあっという間だったわねぇ。楽しいことばかりではなかったけれど、それでもここまで来られたのは、やっぱりこの人が一緒だったから、かしらね?」
おばあさんは一度ちらりと隣を見てから、これまでを思い出すかのように遠い目をして柔らかく微笑んだ。
「なんか、素敵ですね。私達も、いつかそんなふうに言えるようになるのかな?」
「今のところはなれるように頑張る、としか言えないかなぁ」
その努力は惜しまないつもりだけれど、60年後なんてたった16年しか生きていない俺には想像もつかないほど遠い未来の話なのだ。
「きっと大丈夫よ、あなた達なら。初めて会った私でもとっても仲良しに見えるもの。まるで昔の私達のようだわ」
「だーって、涼?」
「う、うん……」
「この人もね、昔っから無口だけど人一倍優しくて、いざという時には頼りになってねぇ」
「あっ、それ涼もです! そんなに無口じゃないですけど」
そこから始まったのは女同士の惚気の応酬。
その間に温玉ソフトは栞と二人で食べきってしまったが、正直味はよくわからなかった。
惚気を本人を前にしてやるのは照れるのでやめてほしいところだ。おばあさんの隣りにいるおじいさんも、たぶん俺と同じような表情をしていたと思う。
しばらくしていたたまれなくなったのだろう、
「おい、ばあさん……。そのくらいにしてそろそろ行くぞ……」
おじいさんが初めて口を開いた。
「えぇ、いいじゃないもう少しくらいっ。あまり若い子とお話する機会もないんだから」
「……そろそろ宿のチェックインもせにゃならんだろ」
そう言うと、おじいさんはさっさと足を拭いて靴を履き立ち上がる。
「もうっ……、せっかちなところも変わらないんだから。ごめんなさいね、いいところだったのに」
「いえ、私も引き止めちゃってすいません」
「いいのいいの、あの人も照れてるだけなのよ。でも、お話できて楽しかったわ。久しぶりに色々と昔のことも思い出せたしねぇ」
「それなら、良かったです」
「それじゃ、私も行くわね。じゃないと置いてかれちゃうもの」
おばあさんはこう言うけれど、おじいさんは一人でどこかへ行ってしまう様子はない。少しだけ離れたところからちゃんとおばあさんを見て、待ってあげているのがわかる。
「絆創膏、ありがとうございました」
「俺からも、ありがとうございました。おかげで助かりました」
「えぇ。二人とも、これからもお幸せにね」
ひらひらと手を降って俺達に背を向けたおばあさんがおじいさんに追いつくと、二人は仲良く手を繋いで去っていった。
その後姿を見ると羨ましいくなる。60年も連れ添って、良いところも悪いところも知り尽くしてなお仲が良くて。俺達もあんなふうになりたいって、そう思う。
それは栞も同じ感想だったようで、
「私達も、あれくらいの歳になっても手を繋いで歩きたいね?」
そう言いながら、ぽてんと俺の肩に頭を預けてきた。
「うん。なんか、将来の理想を見せてもらったような気がするよ」
「理想じゃなくて、実際にするんだよ? 私達、ずっとずっと仲良しでいるんだからね?」
「わかってるって。まぁ、栞とならなにも問題なさそうだよね」
「あーっ! それ私が言おうと思ってたのにぃ! 涼となら絶対なれるよって!」
「別にどっちでもいいじゃん。結局同じことなんだしさ」
俺が言おうが栞が言おうが、目指す場所は同じ。これから俺と栞の二人でそうしていくのだから。
「そうだけどー……」
「ほーらっ、俺達もそろそろ行かなきゃ」
随分と話が弾んでいたので、予定よりも少し遅くなってしまった。母さんも待っているだろうし、帰らないとまずい時間だ。
あまり遅くなって今後に響いたら大変だからさ。
「うんっ。名残惜しいけど、帰ろっか」
手を差し伸べると、栞はしっかりと掴んでくれる。小さく可愛らしくて、少しだけヒンヤリしている栞の手。でも、いつも俺を温かい気持ちにさせてくれる大好きな手。
未来のことはわからないけど、確かなものは今はそれだけでいい。この手を離さない限り、それはずっと続いていくのだから。
駅で約束通りに栞が文乃さんに連絡を入れてから電車に乗る。帰路には着いたが、家に帰り着くまでが旅行。
最後まで手は繋いだままで。
疲れからか、乗り換えの時以外はほとんど車内で二人して眠ってしまっていたけれど、ずっと幸せな栞の温もりだけは感じていた。