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第197話 あるがままの心で

「さーてっ、涼の髪も乾いたし、ご飯食べよっ? 私もうお腹ペコペコだよぉ」


「だね。冷めないうちにって言われたし」


 栞に返事をしつつテーブルへ視線を移すと、夕食ほどではないがなかなかにボリューム満点な料理が並んでいた。


 立ち上る香りに食欲が刺激される。一夜を戦い抜いた俺の身体は正直に、早くエネルギーをよこせと言わんばかりにグゥと腹を鳴らした。


「ふふっ、涼のお腹が待ちきれないって言ってるね」


 栞は俺の腹を指先でつつきながらクスクスと笑う。


「そりゃまぁ、うん……」


 栞がお腹ペコペコなら、それは俺だって同じ。俺の方がより身体を動かしていたし、もともとの基礎代謝も男の俺の方が高いはずなので、空腹になってしかるべきなのだ。


 ただ、いつか栞の腹の虫の音に突っ込みを入れたことのある俺だが、いざ自分が言われる側になるとなかなかに恥ずかしいものがある。栞は女の子だし、きっとその恥ずかしさは俺の比ではなかったのだろう。


「ほら、涼。そっち、座って座って」


「う、うん」


 今後は聞こえたとしてもそっとしておいてあげよう、そう心に決めつつ席につく。栞も俺の左に腰を下ろして、揃って手を合わせる。


「「いただきます」」


 昨夜は色々と余裕がなくて端折ってしまったが、やっぱりこれも礼儀というか、慣れ親しんだ習慣でもあり、やらないと少しばかり具合が悪い。


 そうして食べ始めた俺達、今回は『あーん』はなしの方向で、自分で自分の口へと食事を運ぶ。


 というのはメニューのせいだ。茶碗に盛られたご飯、味噌汁、豆腐好きの俺には嬉しい湯豆腐が土鍋の中で踊っていたりと、食べさせ合うには難易度が高いものばかりだったから。


「ん? これ、何かな?」


 ご飯を一口頬張り、味噌汁に口をつけたところであまり馴染みのない物が目に入って、俺は首を傾げた。


 火にかけられた大きな葉っぱの上で茶色い物体がクツクツと湯気を立てている。味噌のような、それに加えて炙られているせいか香ばしい匂い。恐らく、俺の食欲を刺激していたのはこいつだろう。


「うーんとね、たぶん朴葉味噌だよ。たしかこの辺りの名物だったはずじゃないかな。私も食べたことはないんだけどね」


 俺の問いに対する回答は栞の口から与えられた。さすがは栞、博識だ。


 感心しつつ、少量箸で摘んで食べてみる。


「あっ、美味しっ……!」


 口に入れた瞬間に広がる深い味噌の香りと味。水分が飛んで旨味が濃い。味噌に刻まれたネギが混ぜ込んであるようで、シャキシャキな食感もあって。


 無性にご飯をかっこみたくなるような、そんな味だった。もちろんその予想は正解で、ご飯が進む進む。気付けば茶碗は空っぽに。


「いい食べっぷりだねぇ、涼。ご飯、おかわりする?」


 俺が夢中で食べる姿を頬を緩めて眺めていたらしい栞が手を差し出していた。


「えっと、うん。もうちょっと食べようかな」


「じゃあ、お茶碗もらうねぇ」


 茶碗を渡すと、栞はテーブルの隅に置かれていたおひつからご飯をよそってくれる。


「はーいっ、どうぞっ」


 栞から返ってきた茶碗には、最初より多めのご飯が。多めというか、むしろ山なんじゃないかな……?


「ありがと。って、なんか多くない……? 俺、ちょっとって……」


「だってぇ。いーっぱい頑張ってくれたからね、その分精をつけなきゃ、でしょ? これからも涼とはたっくさんしたいし、それで涼がげっそりしちゃったらヤだもん」


「あ、はい……」


 少々食べ過ぎても俺が太ることはない、と。その分は栞に搾取されるってことらしい。


「それから涼に私の分のお豆腐も一個あげるね。好きだったよね?」


「好きだけど、いいの? 栞はそれで足りる?」


 好物を譲ってくれるのは嬉しいけれど、栞が物足りなくならないか心配だ。栞だってだいぶ消費したはずだし。まぁ、足りなかったら俺と同じくご飯をおかわりすればいいのだが。


「大丈夫だよっ。私はちょっと食べ過ぎてるくらいだし、それに涼の方が身体が大っきいんだから」


「そういうことならありがたくもらうね」


「うんっ」


 栞がくれた湯豆腐は、なぜかその前に食べた自分の分よりも美味しい気がした。


 *


「はぁ〜……。結局朝から食べすぎちゃったぁ」


「俺も……。さすがに山盛りご飯を全部は多かった、かも……」


 普段の朝食の数倍の量を平らげた俺達は、膨れたお腹をさすりながら食後のお茶をすすっている。


「おっと、私は忘れないうちに……」


 そう言って栞は昨日から投げ捨てられっぱなしだったポーチに手を伸ばし、中から小さなピルケースを取り出した。


「……薬?」


「そうだよー、昨日言ってたやつ」


「あぁ……、あれね」


 栞が俺とアレでアレしたいと用意したものだ(今更濁す意味もないが)。


「これ、毎日飲まないといけないからね」


 栞はそう言うと、一錠の薬をコクリと飲み込んだ。


「えっ、そうなの?」


「うん。飲み忘れたらダメなんだって。だからね、私は朝ご飯の後って決めて飲むようにしてるの」


「へぇ……──って、それっていつから?」


 栞の発言に少しばかり引っかかりを覚えたんだ。『飲むようにしてる』ということは、もう習慣になっているということで。


「んーっとね、涼の誕生日のちょっと後くらいから、かな?」


「結構前じゃん! でもさ、うちに泊まりに来てた時には飲んでるの見なかったけど?」


「それはまだ涼には内緒だったからだよ。そもそもね、実はこのお薬、涼とするためだけに飲み始めたわけじゃないし。どっちかというと、それは副次的な感じかなぁ」


「あれ? そうなの?」


 昨夜の栞の口ぶりではそのためみたいに言っていたような気もするが。


「だってそんな理由じゃお母さんを説得できないじゃない。これ、病院で出してもらったお薬だし」


「あ、そうなんだ……」


 病院に行かなきゃいけないとなれば、文乃さんに黙っておくことはできないだろう。となれば、それ相応の理由を用意する必要がある、と。


 いや、むしろそれが本来の理由なのか。


「まぁ、お母さんにはあっちの理由もバレてるんだろうけどね」


「あー……。文乃さんなら、ねぇ……」


「お母さん、色々鋭いんだもん。困っちゃうよね」


 俺達の初めての時もあっさりと見抜かれたわけだし。あれは分かりやすい場所にキスマークなんて残した俺の責任でもあるけれど、それでも『栞の方からいくだろうなとは思ってた』というのは当たっていたわけで。


 それでも、諸々わかった上でこうして二人きりの旅行を許して協力までしてくれるのだから感謝しかない。


 と、文乃さんのことは今はこれくらいにして置いておこう。


「それでさ、薬を飲み始めた本当の理由って、なに……?」


 むしろ本題はここ。栞の話では、薬は他にも効果があるみたいだし、それがなにかはわからないが、俺にも関わってくることのような気がする。


 なら、俺はそれを知っておく必要がある。俺と栞、二人のこと、それを栞一人に抱えさせていちゃダメだって。


「うーん……。本当は黙っておくつもりだったんだけどなぁ。でも、ここまで話したならもういっかなぁ……」


「うん、聞かせてほしい」


「そんなに大した話じゃないんだよ? たぶん涼も聞いたらいつもの私だなぁって思うよ?」


「それでも、俺はちゃんと聞くから」


 居住まいを正して正面から見据えると、栞は困ったように笑う。


「しょうがないなぁ、涼は。じゃあ言うけど──その前に、私が涼のことで悩んじゃった時のこと、覚えてる?」


「もちろん。忘れてないよ」


 ちょうどついさっきも思い出していたばかりだ。


「あの辺りで私がアレの日だったことも、覚えてる?」


「うん、覚えてる」


 最初の体調不良の原因はそれだって言っていたのもしっかり覚えている。


 俺が頷いたのを確認して栞は続ける。


「あの後ね、涼がお見舞いに来てくれて、話をしてくれた後にね、私思ったの。振り回されたくないなぁって」


「振り回される、って……?」


「自分の身体に心が、だよ」


「やっぱりアレって結構きついもの、なの?」


 男である俺にはその時の女の子の状態はわからない。一つ一つ聞いて、確認していくしかないんだ。聞いて、覚えて、理解する。それはすごく大事なことだって思う。


 理解せずには、なかなかうまく思いやってあげられないだろうからさ。


「んー……。それは人にもよるし、その時々で程度は違うんだけどね。痛みがあったりとか、体調が崩れたりとか、精神的に不安定になったりとか色々あるよ」


「あー……、だから……」


 あれは色んなことがタイミング悪く重なってしまった結果、ということなんだろう。


「涼と付き合い始めるまでの私ってかなり情緒不安定だったし、あの時の原因がそれだけじゃないってのもわかってる、でも全く無関係でもないの。それも含めて全部、私だから」


「それは、なんとなくわかるよ。俺も具合悪い時は、気持ちまで沈むような気がするし。……って、見当違いなこと言ってたら、ごめん」


「ふふっ、涼のそういうところも好きだよ。ちゃんと理解してくれようとするところ」


 栞は笑って、俺の鼻をちょんっとつつく。


「もう、茶化さないの」


 こっちは真面目に話をしてるっていうのにさ。嬉しいけど、そういうのはできれば後にしてほしい。


「茶化してるつもりはないよ? 私ね、本当に、本気で涼が好きなの。愛してるの。毎日のように好き好き言ってるから、それはわかってくれてるだろうけどね」


「わかってる、よ。俺だって栞のこと本気だしさ……」


 でもこうやって真剣な顔で言われるといつもと違うというか、照れるというか。そんな俺の表情を見て栞はふっと表情を緩める。


「うん。ありがと、涼。だからね、この大事な大事な気持ちをね、乱されたくないの。たとえ、それが自分の身体でも。今のお薬にはね、痛みを抑えたりとか、心が不安定になるのを抑えたりする効果もあるんだって。つまりね、私は、私のあるがままの心で涼のことを愛していきたいなぁって、そう思ってお薬を飲むことを決めたんだよ」


「栞……」


 栞のことを理解したい一心で聞いたことだが、そこで知ったのは栞の、俺への深い深い愛情だった。胸がぎゅうっと締め付けられるようで、痛くて、心が、身体が震えるほどの歓喜に襲われる。


 栞は、どこまで俺を愛してくれるんだろうって。


「ねっ? いつもの私でしょ? いつも通り、涼のことが大好きな────わっ……!」


 栞はなんてことないように言うけれど、それがどれだけすごくて特別なことか。俺はたまらなくなって栞に抱き着いた。


「好き。大好きだよ、栞……」


 あぁ、ダメだ。こんなんじゃ、まるで足りない。


「栞、愛してる」


 それでも足りない。でも、それ以上の言葉は持ち合わせていない。


 俺はそっと栞に口付けを落とす。可愛らしいおでこに、すべすべやわやわなほっぺに、そしてぷっくりしっとりした唇に。


 そこまでしても、半分にも程遠い。もっと、伝えたいのに。


「俺、頑張るから。栞が薬に頼らなくても、心が乱れないように。俺の気持ち、しっかり伝えるから」


 あとはもう、時間をかけるしかない。それが悔しくて、つぅっと涙が溢れた。


 突然泣き出した俺を、栞はあやすように頭を撫でてくれる。


「大丈夫だよ。涼の気持ち、ちゃぁんと伝わってるよ。これはね、私がまだ臆病なせいなの。それから、涼がくれる気持ちに負けないぞっていう覚悟でもあるの。だからね、しばらくお薬は続けるよ。それにほら、お薬飲んでるといいこともあるでしょ?」


「いいこと、って……?」


「ふふっ。それはねぇ──」


 栞は俺をからかうように、妖艶に微笑む。


「──昨夜のね、すっごく良かったのっ。涼も同じじゃなかったのかなぁ? お薬飲んでたらぁ、またできるよっ? それこそ、いつでもね」


 また栞はそういうことを……。


 せっかくいい感じだったのに、俺を狂わせるようなことを言うんだから。


「……やりすぎちゃうから、いつもは、ダメ」


「あら、残念っ。なら、なしでするのは特別な日だけにしよっか?」


「特別、って……?」


「それはこれから一緒に決めようね。私達の誕生日なんかはもう決定でいいよね。あとはそのつど相談、かなぁ? もちろん涼が望むのなら、私はいつでもオッケーなんだけどね?」


「俺がオッケーじゃないよ?!」


 そんなの、たくさん食べても痩せさらばえるんじゃないかな?

 そのうち死んじゃうよ、俺?


 まぁ、それだけじゃなくてさ。これから将来のために努力していこうって決めたところなのに、そればっかになっちゃいそうだから。


 節度を持って、これ大事。


「ちぇーっ。涼のケチー!」


「ケチじゃないのっ」


「むぅー……、あっ──ねぇ、涼?」


「……な、なに?」


 この後の栞の言葉を聞くのが怖い。どうせまた、俺のなにかがプチッてなるようなことを言うつもりなのだろう。


「今日はまだ特別な日、だよねぇ? 私、もうちょっとだけ涼の気持ち、伝えてもらいたいなぁ? ねぇ、おーねーがいっ♡」


 ほら、ね。


 なんて、もう冷静ではいられない。


「まったくっ。この後俺が動けなくなっても知らないからっ」


「その時は、そのと────あっ♡」


 ベッドへ移動するのももどかしくて、その場で栞を押し倒した。俺の下敷きにされても栞は余裕たっぷりで、


「えへへっ。涼にだけ特別に食後のデザート♪ ほーらっ。涼に溶かされちゃってる私、とーっても蕩けてて甘々だよっ?♡」


 節度はいったいどこに行ってしまったのか。


 まぁでも、誘い文句の通り、栞は終始甘々で大変美味しかったのは言うまでもない。


 おかげでチェックアウトの時間ギリギリで部屋を飛び出すことになるのだが、それはもう少しだけ後のお話。

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