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第196話 ペアフレグランス

 昨日は温泉に浸かったとはいえ、洗うことはできていなかったので、隅々まで丁寧に磨き上げることに。


 栞がいつもべったりくっついてくるおかげで、俺も昔の適当さが鳴りを潜めて、身嗜みにはだいぶ気を使うようになったのだ。


 そうして頭から爪先まで、昨夜の戦いの痕跡も含めて綺麗さっぱり洗い流した俺は先程の栞同様にタオルで髪を拭きながら洗面所を出た。


「あっ、涼。おかえりっ」


「うん。ただいま、栞」


 俺を出迎えた栞の手にはドライヤーが握られている。どうやら髪を乾かしているところだったようだ。


「ごめんね、少し待っててね」


「ううん、いいよ。ゆっくり乾かして」


 俺は邪魔しない程度の距離に腰を下ろして、栞の様子を眺める。しだいに乾いていく髪が温風に吹かれて流れるのが美しい。


 栞の髪は相変わらず手入れが行き届いていて惚れ惚れしてしまう。もちろん、濡れ髪も色気があって大変良いものなのだけれど。


 ほぼストレートで、毛先付近にだけわずかにゆるい癖のある栞の髪。吸い込まれそうなほど黒いのに艶があり、光を反射し天使の輪を作っている。一本一本は細く、触れるとサラサラとした感触が返ってきて、それが気持ち良くてつい撫でてしまうんだ。


「よしっ、こんなもんかな。どう、変じゃないかな?」


 髪を乾かし終えた栞がくるりと俺に向き直った。


「うん。いつも通り可愛いよ」


「えへへ。涼にそう言ってもらえるの、嬉しっ」


 人前で急に可愛いと言うと驚いたり照れたりする栞だが、二人きりならはにかむように笑ってくれる。


 俺の言葉に栞はくすぐったそうにふるふると首を振り、乾かしたての髪がフワフワと揺れる。触りたい、そんな思いに誘われて立ち上がると、栞は自分の正面の床をポンポンと叩いた。


「涼、ここ座って? ついでだから髪、乾かしてあげるよ」


「そんなの自分でできるのに」


 そう言いながら、そっと栞の頭に手を置く。


 うん、やっぱり好きだなぁ。


 まぁ、栞のどこにも嫌いな部分はないんだけど。俺は栞の全てを、丸ごと愛しているんだからさ。


「いいからいいから。こないだ乾かしてもらったお礼ってことで、ね?」


 お礼という言葉を持ち出されると、俺は断ることができない。栞にしてくれることがなんでも嬉しいっていうのもあるが、意地になって断るとまた栞がなにか思い悩んでしまうんじゃないかと怖くなる。


 そうならないために日頃からしっかりと言葉で伝えるようにはしているけれど、あの一件はまだ俺の心の中に反省として残っている。


 次にそれがただの杞憂だと仮定して考えてみる。その場合、あまりお礼をためこみすぎると後でまとめてものすごいお礼が返ってくることになる、というのが俺の予想だ。


 例えば……、昨夜みたいに一晩中搾り取られたり、とか。


 もはや予想ではなく実体験。


 今回のは俺が転倒から助けたお礼に、そのことでさらに惚れさせられた分が上乗せされている、というのが栞の話だ。


 あれはあれですごかったし、幸せいっぱいだったけれど、そう頻繁にされると身体が保たない。今だってかなりヘロヘロになっているのだ。


 というわけで、栞からのお礼はそのつど、こまめに受け取っておくに限る。


「んー。じゃあお願いしようかな」


 言われた通りに座ると栞は弾むような声をあげる。


「はーいっ♪ お願いされましたっ!」


 栞を背にして座ったのでその表情を窺い知ることはできないが、おそらくニコニコ笑顔になっていることだろう。


「せっかくだから、私のヘアオイルも付けてあげよっか?」


「栞の? 俺に付けてもいいの?」


「ん? 涼がイヤって言うならやめるけど、別にダメな理由はないよ? 髪がツヤツヤになるしー、それにねぇ────私とね、お揃いの匂いになるよっ?」


 くすぐるように俺の耳元で囁かれた言葉にドキドキする。大好きな栞の匂いとお揃いになるなんて言われたら、断るなんて選択肢は浮かんでくるわけがない。


「えっと、じゃあそれもお願い、しようかな……?」


「やったぁ♪ 隠れたペアルックだねっ?」


「いやぁ。ルック、じゃないと思うけど……?」


 匂いは目に見えないので、どうにもルックというと違和感がある。


「ならなんだろ? う〜ん……、ペアフレグランス?」


「ペア、フレグランス……」


 聞き馴染みのない言葉だけれど、悪くないかもしれない。お揃いの匂い、というよりもどことなくオシャレな感じがするし。


「まぁ、なんでもいいやっ。付けちゃおーっと。んふふっ、涼とおっそろ〜い♪」


 栞は喜々として俺の髪にオイルを馴染ませていく。


 こんなに喜んでくれるなら服装でもペアルックを取り入れてみてもいいかもなんて思ってしまう。でも、目に見えない匂いをお揃いにするというのも心が繋がっていることの比喩のような気がして捨てがたい。


 俺がそんなことを考えているうちにオイルを付け終わった栞がドライヤーを手に取る。


「それじゃ乾かすけど、もし熱かったりしたらちゃんと言ってね?」


「ん、わかった」


 そう前置きをしてから、栞は俺の髪に温風を当て始めた。


 しばらくは栞にされるがままになっていた俺だが、暖かい風、髪に触れる栞の手、そのどちらもが心地良くて眠気を誘う。睡眠不足の身体には効きすぎる。


 さらに、


「〜〜♪」


 栞がご機嫌に鼻歌なんて歌い始めて、それがまるで子守唄のようで瞼がズンと重くなる。首にも力が入らなくなってきてフラフラしてしまう。


「あれれ? 涼、おねむかなぁ?」


「んー……、なんか気持ちよくなってきた……」


 優しい栞の声が空っぽになりつつある頭に響いて、夢見心地な気分まで与えてくれる。


「ふふっ、か〜わいっ。でも、涼? 次は前髪、乾かすからねー?」


「うん……」


 そう返事をした途端、俺の頭がふにゅっと温かくて柔らかい極上の枕に包まれた。俺の後ろから前髪を乾かすために身体を寄せて前に腕を回したのだろう、俺の後頭部に栞の胸が押し当てられていたのだ。


 ここに来てまだ俺を誘惑するつもりなのか、甘やかしているだけなのかはわからない。ただ、今はとにかく眠い。人間の三大欲求の一つである睡眠欲、抵抗するにも限界がある。


 もう身を任せてしまおうか、そう思った時だった。


 ──コンコンッ


「ご朝食の用意に参りました。失礼してよろしいでしょうか?」


 部屋のドアがノックされ、外から声がした。


「はぁい、大丈夫ですー。どうぞー!」


 俺の方は眠気との戦いの最中だというのに、栞がさっさと返事をしてしまう。


 カラリと音を立てて引き戸が開き、部屋へと入ってきた仲居さんが俺達を見てふっと微笑んだ。


「あら、もしかしてお邪魔でしたでしょうか?」


「いえいえー、全然ですよ。もうすぐ終わりますから」


「では、ささっと用意をさせていただきますねぇ」


 うん。全然大丈夫じゃないよね、これ。


 急激に覚めていく眠気。


 栞に頭を抱かれているこの状況、散々見られている友人達やクラスメイトならともかく、あまり他人に見せて良いものではないだろうに。


 栞の腕から逃れるためにもぞりと身体をよじると、


「あんっ、ダメだよ動いちゃ。もうちょっとだけ、いい子にしててねぇ」


 栞の手と柔らかい声で止められる。


「ふふっ、とっても仲がよろしいんですね」


 ほら、言わんこっちゃない。


 初対面の仲居さんにまでそんなことを言われてしまう始末だ。


「そうなんですよっ。私達、仲良しだもんねぇ。ねっ、涼?」


「それは、そうだけど……」


「あらあら、旦那様が照れてらっしゃいますよ?」


「そんなところもすっごく可愛いんですよ?」


 栞は臆面もなくこういうことを言うんだから……。


「それはそれは、ご馳走様です。ご朝食の用意にきた私の方がお腹いっぱいにされてしまいましたね」


「えへへ、お粗末様でしたっ」


 そんな会話をしているうちに、配膳が終わったらしい。


「それでは準備が整いましたので、冷めないうちにお召し上がりくださいね」


 そう言い残して仲居さんが退出した後、俺はほっと息を吐く。


「まったくもう……。栞? やりすぎだよ?」


「だってぇ、可愛い涼のこと見せびらかしたくなっちゃったんだもんっ」


「いや、でも……、さすがにもう少し控えてくれると……」


「いーやっ♪」


 ……ですよねぇ。


 この返事はなんとなく予想していた。最近の栞はなにかあるとすぐこの一言で押し通そうとするんだ。


 まぁ、俺だって可愛い栞を見せびらかしたくなることもあるし、そこはお互い様なのかもしれない。


 それにいつものことだけどさ、


「さーてっ、涼の髪も乾いたし、ご飯食べよっ? 私もうお腹ペコペコだよぉ」


 栞がずっと楽しそうだからいっかって思っちゃうんだよね。

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