栞は本当に困った子だよ。
風呂で散々攻められて俺は我慢の限界だっていうのに、平気な顔して膝に乗ってくるんだから。浴衣だってめちゃくちゃ似合ってるし、ずっとニコニコで可愛いし。だからさ、思ったことをつい声に出しちゃってたんだよね。
『今すぐ食べちゃいたくなるよ』
って。
そしたら思わぬ反応が返ってきた。
今、ビクッてしたよね……?
その後も栞はしどろもどろな感じになっていて、風呂で俺が言ったことが実は効いていたんじゃないかって疑念が生まれた。
なら、確かめるしかないじゃん?
少し強気に押してみたら栞はどんどんふにゃふにゃになっていって、疑念は確信へと変わった。
いつも押されてばっかりの俺にもこうして栞を動揺させることができたらしい。その勢いで朝までとか言っちゃったけど、まぁそこは頑張るとしよう。
栞が可愛すぎるからきっと大丈夫でしょ。
栞が逃げてしまわないようにしばらく抱きしめていると、栞はトロンとした瞳で俺を見つめながら不意に口を開いた。
「ね、ねぇ、涼……?」
「なぁに?」
「えっとね。食べ終わったら、その……、すぐ、するんだよね……?」
「そうだね。栞がイヤじゃなければだけど」
強気に攻めてはみたし余裕がないのは事実だけど、俺のスタンスとしてはいつもと変わらない。栞が望まないことはしないし、待てと言われれば多少苦しくても待つつもりだ。
そもそも、今日と明日は栞のお願いは聞くと約束していることだしね。
「イヤ、じゃないよ。ならさ、先にお化粧、落としてきてもいいかなぁ……? もし、そのまま寝ちゃっても大丈夫なように……」
「うん、いいよ。寝れるかどうかは、わかんないけどね?」
囁くついでに、耳を甘噛してみるとピクピクと可愛い反応が返ってきた。そんな栞が愛おしすぎてゾクリと気分が高揚してくるのを感じる
「ひゃわっ……。耳、ダメぇ……。そこっ、弱いのにぃ……」
「知ってるからやってるんだよ。ダメだった?」
栞にはこれまで何度も寝起きドッキリな感じで耳にいたずらされてるからね、たまには仕返しだよ。
「ダメ、じゃないけど、今はダメ……」
「今は?」
「うぅ……。涼の意地悪っ。後で……。後でならいくらでもして、いいから……、ね?」
「わかったよ。ほら、行っておいで」
「うん、ありがと……」
栞が腰砕けになりつつ荷物を持ってよろよろと洗面所に入ったのを見届けると、俺はその場にぐったりと横になる。
……今のはやばかったなぁ。
ちょっと調子に乗りすぎた。だって栞が可愛いすぎるんだよ。ダメなんて言いながら全然抵抗しないうえにトロトロになった顔は嗜虐心をくすぐるというか。
あれ? もしかして、俺ってSっ気があるのかな?
うん、まだよくわからないから今後のためにも試してみる必要があるよね。後でならいくらでもしていいって言ってたし、じっくりいじめてあげることにしよう。
そんな事を考えつつも、栞が離れてくれたことで少しだけ心に余裕が生まれる。気持ちが冷めないようにと栞を捕まえていたのは俺だけど、あれは栞を攻めるついでに自分を焦らす諸刃の剣だったらしい。
とにかく余裕が生まれたのはいいことだ。この後は食事の時間だし、もちろんそこにも期待してるわけで。文乃さんからの情報では夕食はかなり豪華なメニューになっていたはずだから。
腹が減っては戦はできぬとも言うし、適度にイチャイチャしつつ食事を楽しむとしよう。
そうして待つことしばらく、栞が戻ってくるのと夕食が運ばれてくるのはほぼ同じくらいのタイミングだった。
栞も一人の時間を確保したことで余裕ができたのか、テーブルの上に並べられていく料理に目を輝かせている。
なぜかやや内股ぎみで、たまにもじりと身体を震わせるのが気になったが、まだ腰に力が入らないのかもしれない。これもたぶん俺がやりすぎたせいなのだろう。
配膳が終わり再び二人きりになると、栞はちょこんと俺の横に腰を下ろす。
「ねぇ、涼! なんかすっごいご飯だよっ?!」
こうして無邪気にはしゃぐ姿も栞の魅力の一つだ。それを微笑ましく眺めながら俺も相槌を打つ。
「だね。思ってた以上で俺もびっくりだよ」
テーブルの上に並べられた料理はなんと牛尽くし、この辺りのブランド牛がこれでもかと盛り込まれた豪華な夕食。俺の好物といえば豆腐料理だけど、それでも肉にはどうしようもなく惹かれるものがある。
「でも、結構量があるねぇ。食べきれるかな?」
「しっかり食べとかないと朝までもたないよ?」
ちょっとだけ意地悪を言ってやると、栞はぽふんと顔を赤らめた。やはり思った通り、普段は押せ押せの栞だが自分が押されるのには弱いようだ。
「も、もうっ、ご飯の間はその話は禁止っ!」
たった一言だけで余裕をなくした栞に怒られてしまった。
「ごめんごめん、わかったよ。とりあえず食べようか」
「うん、食べる」
余裕はなくとも目の前のご馳走の誘惑には抗えないようで、わずかにムッとしながらもコクリと頷いてくれた。
ちょっとここまでいじめすぎた自覚があるし、この後はひたすらいじめ抜くつもりでもある。なら、食事中は目一杯甘やかしてあげるとしようか。
「じゃあ栞、どれから食べたい?」
「えっ。なに……? もしかして……」
「うん。食べさせてあげようかなって。それとも自分で食べる?」
「そんなの食べさせてもらうに決まってるでしょ! どれからでも涼のお任せでいいよっ」
そう言うと栞は一度手にした箸を置いてしまった。もう完全に自分で食べることを放棄したらしい。
「それじゃ、これにしようかな」
手近にあった牛肉の握りを箸でつまんで栞の口元に運ぶ。
「ほら、栞。あーん」
「あーん」
俺に顔を向けて雛鳥のように口を開ける栞が可愛いし、もぐもぐしてる栞も可愛い。もうどれをとっても可愛いしかない。
「ん〜♪ おいひぃ!」
美味しいものを食べたおかげか尖っていた唇も元通り、それどころか蕩けるような笑みに変わる。そんな最高の笑顔を眺めつつ、俺も同じものに手をつける。
「美味っ……!」
栞があんな表情になるのも頷ける。噛み締めると生の牛肉の脂が溶け出して甘味と旨味がじわっと口いっぱいに広がって。それでいてしつこくないのはシャリの酸味のおかげだろうか。
「あぁっ、涼ダメだよぉ。涼には私があーんしたかったのにぃ……」
「いや、だってさ、栞は箸置いちゃったし」
「じゃあ持つもん! だから、こっからは自分で食べるの禁止だからね?」
「今日は俺が栞を甘やかす日だと思ってたんだけど?」
「いいのっ! 私のお願いはなんでも聞いてくれるって約束でしょ?」
「あー、そうだったね」
それを持ち出されると何も言えなくなる。でも、俺が言い出したことだからしかたがないか。
そこからはお互いに自分で自分の口に料理を運ぶことはなく、同じものを交互に食べて、感想を言い合って。すっかり食事に夢中になっていた。
「ふぁ……、お腹いっぱいだよぉ。でも、食べ切れるか心配だったけど、美味しすぎてペロッと食べちゃったね」
「ね。さすがブランド牛、めちゃくちゃ美味しかったよ」
またしても聡さんと文乃さんに感謝だ。同時に俺達だけこんな豪勢なものを食べてしまったことが申し訳なくなったり。
まぁ、それは追々恩返しをしていけばいいか。その時間はきっとこれからいくらでもあるんだから。
空いた食器が下げられてテーブルの上がすっきりしたと思ったら、仲居さんが再び現れて俺達の前にコトリと一枚のお皿を置いた。
「奥様が明日お誕生日とのことでしたので、こちらはささやかではありますが当館からのお祝いでございます。よろしければお二人でお召し上がりくださいませ」
お皿の上を見ると、食後に二人で食べるのにちょうど良いサイズのケーキがのっていた。それを見た栞の目がキラキラ輝いている気がする。やっぱり栞は甘いものが好きなんだよね。
「わぁっ……! ありがとうございます!」
「よかったね、栞」
「うんっ!」
「そちらのお皿はご朝食の際に下げさせていただきますので、この後はごゆっくりお過ごしくださいませ」
……そういえば朝食のことすっかり忘れてた。朝食も部屋でって事前に聞かされてたのに。それなのに朝までコースを宣言してしまうとは。
でも、今更後には引けないし、引く気もない。
「あの……、朝食って何時からでしたっけ?」
「通常ですと7時からですね」
「時間をずらしてもらうことって可能ですか? できれば一番遅い時間なんかに」
「可能でございますよ。一番遅い時間ですと9時からになりますが、よろしかったでしょうか?」
「えぇ、それでお願いします」
「畏まりました。そのようにさせていただきますね。他には何かございますか?」
「いえ、大丈夫です」
「それでは私は失礼いたします」
仲居さんが部屋を退出して、俺はホッと息を吐く。9時ならたぶん問題はないんじゃないかな。
俺の体力も無尽蔵ではないし、多少は寝ておかないと明日の予定にも響くことになるので、これくらいの時間がきっとベストなのだろう。
「……本当に朝までするつもりなんだ?」
「言い出したのは栞だからね」
「あぅ……、そうだけどぉ……。と、とりあえず、これ食べてからでも、いいかな?」
「もちろんいいよ。食べてから少し時間を置きたいならそれも待つし」
「それは私が待ちきれないかなぁ……」
「なら早く食べちゃお? また食べさせてあげるから」
「うんっ」
お腹いっぱいと言っていた割にケーキはスルスルと栞のお腹に収まっていった。予定より一日早く甘味に蕩ける栞の顔が見れたので俺も満足だ。もちろん明日は明日で堪能するけどね。
「はぁ……、満足だよぉ……。ごめんね、涼。いっぱい待たせちゃって」
ケーキを二人で食べきったところで、栞はまた俺の膝の上に帰ってきた。
「ううん、全然だよ。むしろ可愛い栞がたくさん見れたから幸せだよ?」
「もうっ、涼ってば、すぐそういうこと言うんだから……。まぁ嬉しいけどね。それじゃ、さっそく──」
いよいよこの時が来たか。理性さん、ここまでありがとう。そろそろ退勤時間のようですよ。
「──って言いたいところなんだけど、その前に涼にお願いがあるの。聞いてくれる、よね?」
「うん、お願いって?」
「えっとね……。今日はね、アレ、着けずにしてほしいんだけど……」
栞は今まで見た中で一番真っ赤な顔をして、恥ずかしそうに呟いた。
……待て待て。理性さん、ストップ! もう少しだけ様子見でお願いします。
とんでもないことを言い出す栞に、俺は慌てて自分に急ブレーキをかけた。
「アレって、もしかして、ゴムのこと……?」
「うん……」
「……言ってる意味、わかってる?」
「わかってる、よ。ねぇ、涼。今回は私が用意するって話だったでしょ? もしさ、持ってきてないって言ったら、どうする……?」
そんなの決まってる。
「この後の予定を変更するよ。また二人でのんびり温泉に浸かって、ちょっとだけイチャイチャして、明日に備えてゆっくり寝る」
「涼はそれで我慢できるの?」
「できる、というか、する。だってさ、俺は栞が大事なんだよ。もし、万が一子どもができたら……、そりゃ俺も責任は取るつもりだけど、まだどうすることもできないしさ。それにきっと俺以上に栞の方が大変な思いをすることになるでしょ。それは、俺には看過できないよ」
俺は栞と一緒に幸せになるって誓ったんだ。それは一時の勢いに流されて違えたりしちゃいけない。なんでもしてあげるという約束を反故にしてでも、守らなきゃいけない。
「そっかぁ。やっぱり涼はそう言ってくれるんだね。すごく嬉しい。もっともっと涼のことが好きになっちゃうよ。だからね、やっぱりなしでしてほしいなぁ」
「いや、ダメだって言って──んんっ?」
俺の言葉は栞の唇によって遮られた。さらにそこから栞の舌が俺の口内に侵入してきて。
ほんのりとさっき食べたケーキの味がして、とっても甘くて、俺の理性を無理矢理に溶かそうとしてくる。
俺は栞のしたいことがわからなくて混乱するばかりだ。
「ぷはっ……。あのね、涼。私も考えなしにあんなこと言ったんじゃないよ」
「考えって……?」
「私ねぇ、とっても欲しがりなの」
「……栞?」
栞は俺の問には答えずにゆっくりと語り始めた。
「涼と話すようになってからはね、もっと涼の声が、言葉が聞きたくなったの。涼と友達になってからはね、もっと一緒にいたくなったの。涼のことを好きになってからはね、もっと好きになりたくて涼にも好きになってほしくて、付き合い始めたらそれが加速したの。初めてキスをした後は、もっとキスをしたくなったし、えっちなこともそれと一緒なんだよ。涼のことが好きすぎて、もっともっとってなるの」
栞の口から紡がれるのは、俺達が通過してきたポイントごとでの栞の想い。一つ一つ丁寧に思い出すように、俺への想いを込めるように語る栞に胸がきゅっとなる。
「それで今回は……、もっと涼を感じたいって、涼の愛を直接受け取りたいって思っちゃったの。さっきの答えなんだけどね、私、お薬飲んでるの」
「……薬?」
思わず聞き返してしまったけれど、その意味するところは俺にだってわかる。
「なしでしても、子どもはできないってこと。完全に絶対ってわけじゃないらしいけど、それは着けてても同じだからね」
栞はおでこ同士をコツンとくっつけて、真っ直ぐに俺の目を見つめて──
「ねぇ、涼。私、ちゃんと準備、してきたよ? それでも、ダメかなぁ?」
あぁもう……。本当に栞は……。
それならそうと早く言ってくれたらよかったのに。俺に黙って勝手に決めて、準備万端整えててさ。ここまでされちゃダメな理由なんて最初からなかったんじゃん。
「……予定の変更はなしだよ」
「よかったぁ……。試すようなこと言って、ごめんね。お詫びに全部受け止めるから、昨日のお礼の分も含めて、ね?」
「それじゃ、栞が喜ぶだけだと思うけど……。まぁいいや。よっと」
「ひゃっ……!」
俺は栞をお姫様抱っこしてベッドへと運び、そっと降ろして覆いかぶさる。
「栞のせいでますます収まりがつかなくなったよ。だから、責任とってね?」
「あっ……♡ 涼の目、本気だぁ……。えへ、えへへ、いいよぉ……。我儘で、涼のことが大好きすぎる私を、思う存分貪って……♡」
俺はそこでようやく、理性さんに速やかな退勤を命じたのだった。