俺の部屋から栞の部屋に場所が変わったが、結局俺達はいつもとそんなに変わらない時間を過ごした。付き合い始める前からしていたように、肩をぴったりとくっつけて座り、他愛もない話をしたりして。
最近サボりがちな夏休みの宿題もそろそろ片付けないととは思うけど、あと少しというところまできているし、まだ焦ることはない。そもそも俺はスマホと財布くらいしか持ってきていないし、栞の分は毎日持ち運ぶのが面倒ということで、俺の部屋にほとんど置いてあったりする。
というわけで、散髪までの時間はのんびりモード。俺はこうやって静かに栞と過ごす時間が好きなのだ。
ひとしきり話が落ち着くと、栞が俺の髪を触りたいと言い出した。しっかりと手入れされた栞の髪とは違って、ボサボサになっている俺の頭を触って何が楽しいのかはわからないけど、特に断る理由もない。
俺はベッドの横に座らされて、栞がベッドに腰掛けて。後ろから頭に手がのせられて、毛流れに沿って栞の手が滑るように動く。
「へへ、涼の頭に触るの初めてなんだよねぇ。なんかいいね、こういうの」
「そうかな? 俺はちょっと恥ずかしいけど」
頭を撫でられるのなんていつ以来かわからなくて、照れくさい。母さんからだって、きっと最後にしてもらったのは小学生の頃だろうし。
「涼だってしてくれたじゃん。ギュってされながら撫でられるの好きなんだよねぇ。だから今は私がしてあげるの。ほら、涼。よしよ〜し」
優しい手付きで撫でられて、甘やかすような声で『よしよし』なんて言われては、グズグズに溶かされてダメにされてしまいそうな気がする。
向かい合ってなくて良かった。きっとだらしない顔になってたと思うから。それくらい気持ちが良かった。
まぁ、ちょこっとだけ小言をもらってしまったけれど。
「涼、お風呂あがりに髪乾かしてないでしょ?」
「あー、うん。暑いし面倒くさくて……」
乾かしたほうが良いってことはわかっているのだけど、無精な性格が出て、ついいつも自然乾燥に任せてしまう。
「もう……。ダメだよ? ちゃんと乾かさないと傷んじゃうんだから」
「はい、気を付けます……」
「ん、いい子。触って気持ちいい髪にしておいてくれたら、私も嬉しいな?」
この歳でいい子なんて言われるのは恥ずかい。でも、こんなこと言われたらやらざるを得ないわけで。確かに栞の髪は絹のように滑らかで、触れるだけで心地がいい。なら逆も然りということだ。元の髪質があるので、俺の場合は手入れをしてもそこまでにはならないと思うけど、それでも多少は変わるはずだ。
「うん、わかったよ」
「よろしい。じゃあもう少し触らせてね」
栞はそう言ってニッコリ笑うと、また俺の頭をいじり始めた。もう少し、というのはどこへいったのやら、文乃さんから呼ばれるまでそれは続いた。
*
文乃さんの用意してくれた昼ご飯を三人で食べた後、そろそろ時間だと言うので栞と並んで黒羽家を出た。
暑い時間帯なのでそこまでベッタリはくっつかず、でも手だけはしっかりと繋いで。昨日、ほぼ一日中手を繋いでいたこともあってか、こうして歩くのにも少しは慣れた気がする。
でも、まだドキドキはしてしまうわけで、暑さと相まって手汗が気になる。栞が嫌な顔をしてないのが救い、というか栞はむしろ上機嫌だ。弾むような足取りで俺の隣を歩いている。
「栞、嬉しそうだね」
「そう見える?」
「逆にそうとしか見えないよ」
「ん〜、嬉しいというかね、楽しみ、かなぁ? 涼に似合いそうな髪型、寝ずに考えたんだもん」
嬉しそうとかどうでもよくなることを、事もなげにサラッと言う栞に俺は驚いた。
「え、ちょっと待って? 寝てないの?!」
「え? うん、なんか色々見てたらつい楽しくなっちゃって。あっ、心配しなくても変なのは選んでないから安心してね?」
「いや、そこの心配はしてないけど……。眠くないの……?」
栞が出迎えてくれた時に俺が感じたのは正解だったらしい。あの甘えっぷりはやっぱり眠気のせいだったみたいだ。
「大丈夫っ。涼といるだけで私、元気いっぱいだから」
そう言ってくれるのはとても嬉しいけど、心配なものは心配だ。睡眠不足のまま、こんな炎天下の中を歩いて、倒れでもしたらって。
とは言え、まだ足取りはしっかりしてるし、そもそも栞がいなければ今から行く美容室へ辿り着けないので、案内してもらう他ない。
ただ、今日は散髪が終わったら早めに帰ったほうが良さそうだな、とは思う。
「にしても、昨日の今日でいきなり髪を切りに行くことになるとは思わなかったよ」
「ごめんね、急で」
「いや、それはいいんだけどさ……。それで、どんなふうにするかは栞が決めてくれたんだよね? どんな感じなの?」
「ふふ〜ん。まだ内緒っ。できあがってからのお楽しみってことで」
「えぇ……」
それくらい教えてくれてもいいのにとは思うんだけど。栞のことは信用してるし、本人も言ってるので心配はないけども……。
「あっ、ほら、あそこだよ」
それからしばらく歩いた後、栞がそう言って指を指した。小洒落た外観で一見するとカフェのようにも見えるけど、『Hair Salon Tsugumi』と書かれた看板を見れば確かに美容室に間違いない。
ここまで栞の家から俺の家とは反対方向へ歩きだして、20分くらい。俺の家から直接行くとしたら結構な時間がかかるので、今後もし一人で行くことがあれば自転車を使ったほうが良さそうだ。
栞を先頭に入店すると、ドアに付けられたベルがカランと音を立てた。
「あっ、来た来た。待ってたよー」
俺達を出迎えてくれたのは、長身(俺よりも少し低いくらい?)でショートカットがよく似合う、格好良い感じの女性だった。
この人が文乃さんの友達なのかな……?
「継実さん、今日はお願いしますね」
先程看板で見た名前と同じだ。自分の名前を店名にしているらしい。
「はいよ。にしても、栞ちゃん? 確かに連れてこいって言ったのは私だけどさ、早すぎない? もっとかかると思ってたのに。彼を連れてくるって連絡もらった時はビックリしたよ」
「いやぁ……、思ってたよりもうまくいきすぎたと言いますか……。ねぇ、涼?」
栞が照れ笑いを浮かべながら俺を見る。『ねぇ?』と言われても、その時どういう会話がなされていたのか俺にはわからないわけで、返事に困る。
うまくいった裏側には色々と偶然もあったりして。でも、それも含めてうまくいったのは間違いない。俺にとっても栞にとっても。でなければこんなに急激に仲良くなることなんてなかったんだから。
「なんにせよ栞ちゃんにもようやく春が来たってことかねぇ。嬉しいやら寂しいやら。とにかくおめでとう、よかったね」
「はいっ。ありがとうございます」
「それで? そこの少年、名前は?」
継実さんが真っ直ぐに俺を見据える。その視線はなかなかに鋭くて、少しばかりたじろいでしまう。
「えっと……、高原涼といいます。その、今日はよろしくお願いします」
「う〜ん……。ちょーっと頼りなさそうだねぇ」
「はは……」
正直すぎる感想に、乾いた笑いが漏れた。実際、自分の頼りなさは自分が一番わかっている。今後人からそう思われないように努力しろと言われた気がした。
でも栞はそうじゃないらしい。
「そんなことないです! 涼はすっごく頼りになるんだから。私、涼にいっぱい助けてもらってるし、継実さんでも涼のことバカにしたら許しませんよ?」
栞はそう言って、頬をプクリと膨らませる。拗ねるような顔は可愛らしいけど、口調から本気で言っているのがわかる。栞は俺のこと買い被り過ぎじゃないだろうか……。
「おぉ……、怖い怖い。ごめんって。にしても、これはだいぶお熱だねぇ。愛されてるじゃん、君」
「いや、その……」
こんなに真っ直ぐ態度でも言葉でも感情をぶつけられて、栞からの愛情を疑ったりはしないけれど、人から言われるのはまだ恥ずかしい。
ニヤニヤした顔で『このこの』と肘で突いてくる継実さん。ちょっとノリが鬱陶しく……、いや、こんな事考えたら失礼だろうか。
「っと、バカなことやってないでそろそろ始めますかね。栞ちゃん、送ってくれた画像みたいな感じでいいんだよね?」
「はい、それでお願いします」
「りょーかい。それじゃ、高原君や。私が栞ちゃん好みに変身させてあげよう。ほら、そこの椅子に座ってー」
「……はい」
その栞の好みとやらを俺はまだ知らないのだけど。ここまで来てごねても仕方がないので言われた通りに座る。
「栞ちゃんはその間どうする?」
「もちろん待ってますよ! 仕上がり見たいですもん」
「そっか。んじゃ、そっちのソファにでも座ってて。退屈かもしれないけど少し我慢してね」
「大丈夫ですよ。楽しみに待ってます」
「はいはーい。それじゃ栞ちゃんのために気合い入れてやりますかねぇ」
栞が下がるのを見送り、継実さんは言葉通り気合いを入れるためか、首や肩をクルクルと回した後、俺の後ろに立つ。
サロンが装着されて、そこから髪のカットが始まった。