黒羽家のインターホンを押すと、すぐに栞が出迎えてくれた。
「涼、おはよ。待ってたよ」
あまりの早さに、もしかしたら玄関で待ってたんじゃないかって思うほどだ。
「おはよ、栞」
家の中に招き入れられて靴を脱いだところで、いきなり栞が飛びついてきた。
「わっ……。どうしたの、栞?」
「えへへ。涼、会いたかったよぉ」
昨日別れてからまだ半日ちょっとしかたっていないはずなんだけど。まぁ、俺としても悪い気はしない、というか普通に嬉しいからいいんだけど。
甘えるように頭を擦り付けてきて、俺も思わず抱きしめ返して髪を撫でてあげた。それだけで溶けるような笑顔を向けてくれる栞は今日も可愛い。
ただ、ちょっと眠そうなのは俺の気のせいだろうか。電話で寝ぼけてた時もそうだったけど、栞は眠い時ほど甘え度が増す気がするし、精神年齢も少し下がる気がする。
一晩中俺の髪型で悩んでたりしてなければいいけど。なんか電話口でものすごく張り切ってたし。
そんな心配も今の栞の前では溶かされてしまう。こんなふうに会って早々に抱きつかれたら、それどころじゃないのだ。付き合い始めた途端に栞からのスキンシップが増えて、俺はドキドキさせられっぱなしだ。俺もつられて栞を甘やかしたくなってしまうから、お互い様なんだろうけど。
栞に流されるまま玄関でイチャついていたら、リビングから文乃さんが顔を出した。
「あらあら、栞ったら……。ごめんなさいね、涼君。それからいらっしゃい」
「あ、えっと、お邪魔します……」
いきなりこんな場面を見られて俺は恥ずかしくなるのに、栞は離れようともしない。
「いいでしょ? 付き合ってるんだから、これくらい」
まったく気にすることもなく栞はそう言う。それどころか、まるで見せつけるかのように、更にギュッと抱きつく力を強めてくる。
俺としてはまだ文乃さんには付き合い始めたことを告げていないわけで、心苦しさを感じてしまったり。
栞からは聞いているだろうけど、一応俺からも言っておいたほうがいいかなと思った。こんな状態で言うことじゃないかもしれないけど、栞が離れてくれないので仕方がない。
「あの、文乃さん」
「ん? なに、涼君?」
「俺達付き合うことになりまして……。その……、栞のこと、大事にしますのでよろしくお願いします」
俺がそう言うと、栞は「もう、涼ってば……」と小さく呟いて顔を赤らめる。
「涼君は真面目ねぇ。こちらこそ、甘えん坊な娘だけどよろしくね?」
「はい!」
聡さんにはまた改めて挨拶するとして、ひとまず文乃さんにはちゃんと認めてもらえたようで安心した。でも栞は少し不服そうにしていて。
「お母さんまで甘えん坊とか言う!」
たぶん美紀さんに言われたことをまだ気にしてるんだと思う。でも、状況的には全く否定できない。俺だってそう思ってるわけだし。
「会って早々そんなにべったりくっついちゃって、十分甘えん坊じゃないの」
「だって……、こうしてると落ち着くんだもん……」
「まったく、しょうがない子ねぇ……。涼君、手がかかるかもしれないけど、見捨てないであげてね?」
「涼はそんなことしないもん! ね?」
とは言いつつも少し不安気な栞。
「大丈夫だよ。ずっと一緒って約束したからね」
俺がそう言うと、栞は顔を綻ばせる。
「うんっ。ねっ、そろそろ私の部屋行こ?」
ひとしきり抱きついて、満足した栞に手を引かれて階段を上る。どうやら栞の部屋は二階にあるらしい。
「朝から熱いわねぇ。今日は最高気温更新するかしら?」
そんな呟きが後ろから聞こえてきた。
俺達ごときじゃ気温までは操れませんよ……?
二階にある一室の前で栞が振り返る。
「ここが私の部屋だよ。ほら、入って」
そういえば家に来るのは二度目だけど、栞の部屋に入るのはこれが初めてだ。というより、女の子の部屋に入ること自体が初めてのことだ。
部屋に入ると、俺達が付き合うことになった日に栞が言っていたことが理解できた。大好きな栞の甘い匂いが充満していてドキドキする。これは確かに落ち着かないような。でも匂いとか、そんな事考えてる俺、ちょっと気持ち悪いかも……。
落ち着かなさにキョロキョロしていると、栞が俺の手をキュッと握った。
「あんまり見ないで、恥ずかしいから……」
「見られて恥ずかしいものでもあるの?」
「そういうわけじゃないけど……。ほら、つまんない部屋でしょ?」
恥ずかしそうに言う栞の声の中に自嘲するような雰囲気を感じた。俺がぱっと見る限りでは、普通に女の子の部屋だなって思うけど。カーテンなんかは淡いピンク色だし家具のデザインも女の子のそれだ。比較対象がないから他の人と比べてどうかはわからないけれど。
ただ、ほんの少しだけ寂しい気もする。しっかり者の栞らしく整理整頓されているけれど、物は少なめで無機質な印象も受ける。
「つまらなくはないけど、ちょっとだけ殺風景、かな?」
「だよねぇ……。昔はね、可愛い小物とかぬいぐるみとかあったんだよ。でも昨日も言ったかもだけど、あの時にそんな気分じゃなくなって全部処分しちゃったから……」
これは確かに聡さん達が心配するわけだ。
「なるほど……。でもさ、その件も落ち着いたことだし、これからは栞の気分に合わせて変えてけばいいんじゃないかな?」
「うん……。そうだね、そうする。ありがと、涼」
「別にお礼言われるようなことは……。でも栞、一つだけ聞いてもいい?」
部屋を見渡した時に目に入ってしまった物があって。これだけは突っ込みを入れておかなきゃいけない気がする。
「ん? なぁに?」
「枕元に置いてあるアレ、俺が見てもいいやつ?」
それは写真立てに飾られた、俺の寝顔の写真だった。撮られてたのはなんとなく確信してたけど、まさか飾られてるとは思ってなかった。
間抜けな顔で寝てる自分の写真なんて恥ずかしいだけで、あまり見たくはない。でも大事そうにしてくれてるのは、ちょっと嬉しかったりもして、なんとも複雑な気分になる。
俺が尋ねた途端、栞の顔はみるみる赤くなる。慌てて写真立てを胸に抱いて、軽くパニックになってワタワタし始めた。
「えっとえっと……、これはその……。しまい忘れてて……」
「やっぱりあの時、撮ってたんだ?」
今の栞の様子を見てると悪戯心がわいてくる。
「あぅ……、ごめんなさい」
しゅんとする栞も可愛いなぁ、もう……。
そんな顔されたら、ちょっといじめたくなるじゃん。
「ねぇ、どうしてそんなの撮ったの?」
「うぅ……。だって、涼の寝顔が可愛くて……、それに……」
可愛いと言われるのは複雑だけど、言われるのは二度目だし今はとりあえず聞き流すことに。
「それに?」
「あの時にはもう私、涼のこと好きだったんだもん! でも付き合ってるわけでもないのに写真欲しいなんて言えなかったんだもん!」
「お、おぉ……」
開き直ったのかやけくそなのか。でも、栞の勢いに押されながらも俺は嬉しくなっていた。だってあの時にはもう、俺と同じ気持ちだったってことだから。
「で、こんなところに飾ってたのは?」
「えっとね……、涼の顔を見ながらならよく眠れるかなって思って……。私ね、寝付きがあんまり良くなかったから……」
「それは……、やっぱりあのことで?」
「うん、そう。涼と話すようになってからは少しずつ良くなってはいたんだけど、やっぱりまだね。暗い部屋で一人だと、どうしても悪いことを考えちゃうというか」
表面的には大丈夫に見えるようになったけど、あの問題は結構栞の中で根が深いらしい。察してあげられなかったことが悔やまれるのと同時に、昨夜の栞の言葉を思い出した。
『涼の声聞いてからだとよく眠れそうな気がするの』
あれはきっとこういうことも含まれていたんだろう。
「ねぇ、栞?」
「なに……? もしかして怒ってる……?」
「怒ってないよ。そうじゃなくてね、これから毎日、寝る前に電話しよっか?」
昨日も約束はしたけれど、改めて。栞が喜んでくれるのも大事だけど、それ以上に悪いことを考えてしまう栞をほうってはおけなかったから。
「毎日って……。いいの?」
「俺が栞の声聞きたいだけだからさ」
「もぅ……、涼は優しいんだから。でも、絶対だからね? 途中でやめようって言っても聞かないからね?」
「ん、約束する」
「へへ、やっぱり好きになったのが涼で良かったなぁ」
たったこれだけのことなのに、栞は心底幸せそうな顔をしてくれる。そんな顔が見られるだけで俺はどうしようもなく満たされてしまうのだった。