今日出された数学の宿題を片付けていたのだけど、どうしてもわからない問題にぶつかってしまった。数学、ちょっと苦手なんだよな。
なぜ人間は疑問に対して首を傾げてしまうのだろうか。頭が傾いたくらいで答えなど出てきはしないのに。無意識に首をほぐして血流でもよくしようとしてるのか?
そんなどうでもいい考えまで浮かんできてしまう。こりゃもうお手上げだ。この問題は飛ばしてしまおう、そう思った時だった。
不意に背後から手が伸びてきて、開かれた俺のノートを指さした。
「ねぇ、高原君? ここ、間違えてるわよ?」
「ふぇっ?」
予想外の出来事で、間抜けな声を上げてしまった。声のした方へ顔を向けると、頬に触れそうな距離で綺麗な黒髪が揺れた。
そこにいたのは前髪で顔を隠している一人の女の子。もちろん見覚えはある。というかほぼ毎日見ている。だってクラスメイトだから。
え? なんで? どういうこと?
とりあえず俺の頭を埋め尽くしたのは疑問だった。
誰とも関わろうとせず、必要最低限しか口を開かない黒羽さんが、自ら俺に話しかけているのだから驚くなという方が無理な話だ。しかもコミュ障の塊みたいな俺に。
「えっと、えっと、なんで黒羽さんが?」
「だって、ここ、間違えてるもの。ここが間違ってると次は解けないわよ?」
「いやっ……。そうじゃなくて、なんで黒羽さんが俺に……?」
「あぁ、そういうこと。さぁ、なんでかしら? う〜ん、気まぐれ……、そう、気まぐれよ。私だってそういう気分の時くらいあるのよ、たぶん」
「気まぐれって……。今まで黒羽さんが誰かに話しかけるところなんて見たことないけど?」
「い、いいじゃない、別に。それにそこは高原君だって同じでしょう?」
「それはそうだけど……」
「クラスでも浮いて……、いえ、沈んでると言ったほうがいいかしら?」
いきなり話しかけてきておいて辛辣すぎる!
こちとら自慢じゃないが豆腐メンタルなんだ。手加減してくれないとしまいには泣くぞ?!
「沈んでるってひどくない?! まだ浮いてる方がマシなんだけど?!」
「そんなことはどうでもいいのよ。ほら、教えてあげるから、隣失礼するわよ」
「そんなことって……」
俺の返事も待たずに隣に座られた。
なんなのこの人? 俺をいじめたいの? 助けたいの? どっちなの?
まぁ、教えてくれるって言うならありがたく──
ってあれ? なんで俺、普通に話せてるの?
普段ならこの辺りで頭がグルグルし始めて耐えられなくなるのに。いつもの俺が改善されるならもちろんいいことなんだけどさ。
……まさか黒羽さんには何か特別な力が? 人をリラックスさせる成分でも出てるとか? そういえば女の子の甘い匂いが……。
待て待て、俺は変態か? いきなり匂いとか何考えてるんだよ……。そもそも全然リラックスしてなかったわ。驚きすぎてちょっとパニックなくらいだし。
「──君? ちょっと、高原君?」
「へ?」
「へ? じゃないわよ。あなたのために説明してるんだけど?」
「ご、ごめん。ぼーっとしちゃってた……」
だってさっきから衝撃の連続なんだもの。
「はぁ……。まったくもう。もう1回最初から言うから、今度はちゃんと聞いてるのよ?」
「あ、はい……。よろしくお願いします……」
呆れながらも説明は続けてくれた。今度はしっかり話を聞きながら、でもやっぱり疑問は頭から離れなかった。
「──という感じで、解が導けるの。どう? わかったかしら?」
「なるほど……。うん。わかった、と思う」
さすが入学試験トップの成績なだけあって、黒羽さんの説明はとてもわかりやすかった。そういえばこないだの中間試験でも1位になってたんだっけ。やはりしっかり内容を理解している人は教えるのも上手いらしい。
俺もそんなに成績は悪くないはずなんだけど、こんなふうに人に教えるなんてとてもじゃないけどできそうにない。
「じゃあ次の問題ね。これは今の応用だから、さっきのが理解できてれば解けるはずよ。見ててあげるから自分でやってみて」
今しがた教わったことを思い出しながら問題と向き合う。さっきの問題と違って何も躓くことなく解けてしまった。あれだけ悩んでいたのが嘘のように。
「で、できた……」
「うん、正解ね。やればできるじゃない」
「いや、黒羽さんの説明が良かったんだよ」
「そ、そうかしら。まぁ、今は気分がいいからもし他にわからないことがあったらついでに教えてあげる」
「それじゃお言葉に甘えて……」
俺は授業で理解が浅かった部分などを中心に質問していった。黒羽さんはその全てに嫌な顔をせず、俺が理解するまで説明してくれた。
なんだかんだで面倒見がいい人らしい。ちょっときついことを言うこともあったけど、俺みたいに喋る時に噛んだりしないし、コミュニケーション能力に難があるようには思えない。
そう思えば浮かんでくる疑問。
なんで自己紹介の時にあんなこと言ったんだろう?
いきなりこんな突っ込んだ質問するわけにいかなくて心に留めておいたけれど。
あらかた俺の質問が済んだ頃、完全下校時刻を告げるチャイムが鳴った。
「そろそろ下校時間だけど、もう他にはないかしら?」
「たぶん大丈夫だと思う」
「そう、なら私はこれで帰ることにするわね」
「うん。今日は助かったよ。ありがとう」
「どういたしまして。それじゃあ、またね」
黒羽さんは席を立ち、俺に背を向けた。その背中に慌てて挨拶を返す。
「あぁ、また」
俺も帰り支度をしようと思ったところで黒羽さんが立ち止まって。
「あ、そうそう。今日のはたまたまだから、教室ではいつも通り話しかけないでね」
そう言い残して帰っていった。
その背中が少し寂しそうだったのは、きっと俺の見間違いではなかっただろう。