それぞれがレモン羊に踏まれないように、海賊たちに対処している時。
騒がしい戦場から少し離れたところで、突出した力を有する二者が対峙していた。
鉄塊のごとき大剣をかつぐ高身長美人と凶悪な人相の海賊──無双のクウォンと影帽子のウブラーの戦いは熾烈であった。地を削り、空気を震わせ、魔力がバチバチと輝いて散った。
「はははァ‼ 『影で触れる』‼」
ウブラーが立派な羽根つき帽子のつばを手で一回撫でれば、その足元の影が浮きあがり、細く長い複数の触腕へと分裂し、クウォンへ襲いかかった。荒々しく、幾重にも、絶え間なく。
それらは意思をもち、殺意を放ち、狡猾な蛇の群れようであった。
地を縫うように駆けて狙ってくる影たち。
クウォンは少ない動きでかわす。
大袈裟に飛びのくこともせず、右へ一歩、左へ半歩、ちょっと後ろにさがってみたり、首を振ってみたり。肩に鉄塊を担いでいるというのに足運びには一抹の不安定さもない。
(この生娘め……それなりの使い手か。俺様の手下がことごとくボコされるわけだ)
ウブラーは眼前の少女が賞金稼ぎをしている理由に納得を示しつつ、ニヤリと笑みを深める。
「だが、甘いんだよォ、奢り高ぶりやがってェ‼」
「ん?」
最小限の動きで身をかわしていたクウォン。
フワフワの耳がぴょこぴょこと動いた。
異変を察知した証だ。
わずかな揺れのあと、パコーンッと勢いよく足元の地面が砕けた。
黒いおおきな口が出現。生えそろう鋭利な牙。
口から洩れる温かない吐息。完全にクウォンを捉えた一撃だ。
「『影よりいでる顎』‼」
巨大な獣の口がバチンッと閉じた。
──クウォンはソレのすぐ横に立っていた。
(あ? いま口のなかに完全にとらえたよな? どうして横に──)
ウブラーの脳裏に、認識した情報と、現在の視覚情報とで齟齬が生じていた。
一瞬のフリーズ。クウォンは「おお」と感心したように声をもらし、肩に担いでいたグレートソードを、片手でそのまま横なぎにぶんまわした。
豪風を巻き起こす剣撃。地面から奇襲をしかけた獣の大顎は力任せに断ち切られる。黒い血があふれだし、獣は悲鳴をあげて、たちまちに溶けてしまった。
黒い霧たちがウブラーの足元から伸びる影に戻っていった。
ウブラーは眼を剥き、歯を剥き、拳を握りしめ、わなわなと震えていた。
「ふりゅる……っ、ふしゅるるる、この、生娘がァァ‼ 俺様を、怒らせたなァ⁉」
「最初から怒ってたじゃん。あたしのせいじゃないよ?」
クウォンはそう言って肩眉をあげ、半眼になり、ニヒヒーと悪戯な表情を浮かべる。腹の立つ表情だった。舐められている。ウブラーは言葉にされなくても容易にそのことがわかった。
(女に馬鹿にされるのが一番ムカつくんだ。それも若い女になァ‼)
ウブラーは額に青筋を浮かべ、拳を血が滲むほど握りしめた。
侮りをすべて捨てる。この娘は強敵だ。
そう認め、禍々しい力を解き放った。
海賊の足元から影が立体的に浮かびあがる。これまでのような細長い影としての具現化ではなく、影そのものが塊のまま立ちあがったのだ。
(今までとちょっと違うや。まだ手札があるんだ)
何をするのかなぁ、と思いながら魔法の展開を眺めるクウォン。
影はついに獣となった。おおきな獣だ。人間を丸呑みにできそうなほどの。
「『影よりいでる獣』……‼」
「さっき足元から噛みついてきたやつ……それの完全体って感じ?」
「まさか、ガキ相手にこいつを使うハメになるとはよォ‼」
「ガキってほど子どもじゃないよ、あたし。もう立派なレディだもん」
「生娘、てめえはどうやらかなり強い。だから、俺様は考えたァ」
ウブラーは開き直ったような冷静さで告げる。
己のこめかみを指でさし、意味深な笑みを浮かべる。人生を投げやりになった大人が、未来ある子供に講釈を垂れるようなテンションで。
影の獣が動きだした。
迅速な動きだった。
向かう先はクウォン──ではない。
先ほど向こうで倒れたレモン羊のほうだ。
「ひゃっはぁあ‼ まだてめえと戦うとでも思ったかァ⁉ 諦めたよ、もう‼ もうぶち切れたって言ったよなァ⁉ てめぇらのお望みの羊、ここでぶっ殺してやるよォォォ────‼」
確かにぶち切れていた。それはもう完全に。
ヤケクソになった無敵の人。嫌がらせにすべてを注ぐ姿勢。
影の獣は風のように地を駆け、弱った羊の首をはねようとした。
行く手に立ちふさがったのはクウォンだった。
「……は?」
ありえないことだった。
ウブラーはクウォンと対峙し、諦め、最後のあがきに全投資したのだ。
位置関係的に影の獣のまえに、クウォンが移動できるはずがない。
極短い時間のなかで、ウブラーは困惑に満たされ、どうにか納得のいく説明を組み立てる。
先ほどクウォンがいた位置にすでに彼女の姿はない。ということは、いま影の獣の行く手にいるクウォンは、おそらくは本人だ。分身。瞬間移動。何かの能力なのか。魔法使いだったのか? それとも彼女もまた暗黒の秘宝を所有し、秘められた魔法を行使できるのだろうか?
疑念の答えにウブラーが最後までたどり着くことはなかった。
影の獣の進行方向に、クウォンが現れた仕掛けは手品ではない。
走っただけだ。
真の強者にトリックは必要ない。
クウォンはずしりと重たいグレートソードを担いだまま、腰を落としていく。
大剣に重さについに耐えかねて潰されていくかのように。
ある程度までかがむとピタリと動きをとめた。
彼女のなかにあったのは急く気持ちではなかった。
羊を守るために急がないと、はやく攻撃を繰りださないと──。この剣は重たいから振りが遅いから──そういった気持ちは一切ない。
あるのはひとつの喜びと古い約束であった。
クウォンの脳裏に浮かぶのはありし日のブラックカース島だ。それはクウォンが敬愛する師と過ごした輝かしい日々の記憶──そのなかでも特別な日の記憶。
この狼少女とオウルの出会いは浜辺だった。漂流ののちに辺鄙な島にたどり着いた彼女は、アイボリー道場にひきとられ、そこで剣を学び、健やかに育った。
ブラックカース島では、たびたび怪物が町の近くまでやってくる。
そういう時は、決まってオウルや彼の父が町を守っていた。守るための強さ。クウォンは師たちのその姿に憧れていた。
「一番おおきい剣がいい‼」
「でも、クウォン、それは……ちょっとでかすぎるんじゃないか?」
オウルの忠告も聞かず、クウォンが惚れこんだのは鉄塊だった。
一応、剣の形はしているソレ。実用性からは程遠い代物だ。
ゆっくり持ちあげて、ゆっくりとおろして、そうやって素振りのフォームの確認と筋力鍛錬するためのものなのだから。
「やだ‼ これがいい‼ ぜったいこれにするもん!」
「あはは、わかった、俺の負けだ。そんなに欲しいなら、それはクウォンにあげよう」
「やったぁー‼ オウル先生、大好き!」
魔力に覚醒していたクウォンは達者にトレーニング用の大剣を振りまわすことができた。
「ぐへえ‼ その剣、ずるいって‼ どう受け止めればいいのかわかんないわよ‼」
「えへへ~、またあたしの勝ちだね~‼ ラトリスはモフモフだけが取り柄だね~」
「ぐぬぬ、もう一回‼ 勝ち逃げなんて許さないわ‼」
クウォンが大剣を振りはじめて数か月で、彼女は道場の誰にも負けなくなった。
無法すぎるパワーの前では、未熟なアイボリー流剣術は通用しなかったのだ。
何よりも厄介なのは、クウォンはただのパワー系ではないことだった。
理合への理解力も高く、技術の面でも誰よりも上だった。
すでにあの日から無双は始まっていたのだ。
だが、事件は起こる。
道場で最強の名を欲しいがままにするようになってから、しばらく経ったある日、島の裏側から凶暴な怪物が町のそばにやってきた。
いつもなら怪物の撃退はオウルや彼の父の仕事だったが、あいにくとその日ばかりは、大人たちは猪狩りに島の裏へいっていた。
「あれは魔猪のボスじゃない⁉ 島の南側を支配する首領だわ‼」
その日、訪れた危機は道場の子供たちを震えあがらせるには十分だった。
「大丈夫だよ、みんな、あたしが守ってあげるから‼ ほら、ラトリスは向こうで隠れてて‼」
アイボリー道場の門下生として、クウォンは自慢の大剣を握り、怪物の首領を迎え討った。
もっとも強かったクウォンにとって、師範や師範代が不在のなか、道場やほかの門下生、町を守るのは当たり前のことだと思っていたのだ。
しかし、幼い剣士にとって、怪物の首領はあまりに強大であった。激しい衝突が港町のすぐ外で繰り広げられた。ほどなくして大剣が音をたてて砕けるように折れた。
クウォンは膝をついた。
弱々しい凪のような風は、彼女の魔力が尽きかけていることを示していた。勇ましかった嵐の残り香は、師からもらった愛剣にまとわりつくことしかできない。
額の深い傷から出血しているせいで視界は半分も見えない。
勝負はついてしまった。
「はぁ、はぁ、はぁ……あたしも、先生みたいに……守るんだ……」
クウォンにとって守るために戦うことは完全な正義だった。
誰かを守れるような強さが欲しい。憧れのようになりたい。そう願って鍛錬を積んで信念に見合った力を手に入れようとしたのだ。
「ぷひぃぃぃぃいい────‼」
怪物に噛み砕かれそうになった時、クウォンの前に現れたオウルは、太刀筋の見えぬ、されど流麗な剣さばきで眼前にせまった脅威をしりぞけた。あとに残るのは地に伏した遺骸だった。
「クウォン‼ 大丈夫か‼」
「ぜん、ぜぇ、うぅ……あたしは、平気だよ……」
オウルはボロボロの弟子の姿にひどく狼狽したが、命に別状はないとわかると安堵したように胸を撫でおろした。すぐに優しい顔になり、血と塵で汚れてしまった頭を優しく撫でた。
「みんなを守ったんだな。偉いぞ、クウォン」
幼い剣士の勇気は、その時、彼女にとって全正義たる師によって肯定されたのだ。
「────先生、あたし、今はもう守れるんだよ、自分の力だけでも」
鼻先まで迫るのはウブラーがくりだした凶悪なる影の獣と、その闇を纏う尖爪。
クウォンは穏やかな笑みを浮かべ、独特の構えから全身に力をみなぎらせた。
狼少女を起点に溢れだすのは嵐。
まるで最初からそこにあったが、隠されていたかのようなおおきすぎる大気の波動。亜麻色の明るい髪と尻尾が風に荒ぶり揺れる。揺れる。揺れる。
肩に担いでいるグレートソードに暴風の魔力が集約されていった。
目の錯覚だろうか。ただでさえおおきい剣は、纏わりつく風によって延長され、何倍にも長くなったように見えた。
独特な構え、のちに魔力の解放、そして攻撃準備完了まで約2秒──クウォンは口角をあげ、自信たっぷりの表情で、満面の笑みを浮かべると、嵐を纏う大剣を思い切って振りおろした。
「『
世界が分かたれる。ただ一刀によって。
かつて白兵戦場を砕いた巨剣が再び光臨する。
影の獣は破砕され。直線上にいたウブラーも無傷では済まない。
人体など暴威のまえで容易に砕け散る。──今回はただ少女の慈悲により悪党の右腕が肩から落とされるだけにとどまった。
なお命への配慮はあっても、地形への配慮はされていなかった。拡張されすぎたグレートソードは一撃の余波でもって、嵐を解放し、地形を削りとった。
その結果、絶壁だった岩肌には強引に道が開かれ、スマルト谷に交差する新しい谷が生成されるのだった。
影の獣は残骸となって霧散し、ウブラーは「がはっ……」と、血を吐いて崩れ落ちた。
クウォンはグレートソートを担ぎなおし、ニヒヒーッと無邪気な笑みを浮かべる。
「あたしの勝ち~‼」
大剣豪はまたひとつ勝ち星を重ねた。