人間の出雲駅伝は、毎年十月の体育の日に開催される。ロードシーズンの幕開けだ。大会に向け、駅伝競走部では週末から夏休み最後の合宿を行う。
あやかしの出雲駅伝は、神在月に開かれると猛生くんは言っていた。新暦なら同じ十月。
うかうかしていられない。治療院が昼休憩に入ったタイミングで、山の神の森へ出向く。
トレーナーバッグと、明け方までパソコンにかじりついてつくったチラシを肩に、いざあやかし界へ。
「……行けないんですけど」
実は、行き方はよくわかっていない。簡素な祠の周りをうろうろしていたら、犬の散歩をするおじさんにうろんな目で見られてしまった。
トレーナーの心構え、その一。なんとなくではなく、情報収集・分析して、根拠を基に動く。
わたしがあやかし界への道をひらけたのは、二回。
駅伝競走部の練習時間を狙ったランニング中、月羽ちゃんの声を聞いたとき。
夕ごはん前のランニング中、物思いに耽っていたとき。
両方に共通する、「時間帯」もしくは「通過する速さ」がキーと仮説を立てた。
時計の針は進められない。「速さ」のほうを試すべく、祠目掛けて加速する。
何ごともなく横を通り過ぎた。失敗かなと思いきや、木々が揺らめく。その向こうに、県道ではなく灰色の一本道が続いている。
「通れた!」
曇天なのを差し引いても、相変わらず色がない。人通りは夜よりは多かった。
今日の目的はみっつ。
ひとつは、月羽ちゃんか猛生くんに会って、監督を引き受けると伝える。
もうひとつは、メンバー募集のチラシを配って、駅伝を走る六使を集める。
そして、うまくメンバーが集まったら、早速練習する。
チラシを配る場所は賑やかな商店街がいいだろう。よし、と記憶を頼りにさびれた路地に入りかけて、
「ようりきしゃ、いかがですかー!」
聞き覚えのある声に足を止めた。
見れば、月羽ちゃんが短パンを履いた金太郎みたいな恰好で走ってくる。なんてタイミング。
「待って!」
通せんぼする形で前に出た。
「ひゃわ、やめて……って、明香里おねえちゃん? えっと、だいじょうぶ……?」
月羽ちゃんが頭を覆った手の隙間からわたしを見上げる。
最初に会ったときも「だいじょうぶ?」と訊かれたっけ。「境界を越えて」という意味だったんだ、と今になって理解する。
「通行手形は、ちゃんと持ってるよ」
トレーナーバッグから木札を引っ張り出して見せれば、月羽ちゃんはほ、と表情をほころばせた。
「今日は月羽ちゃんに会いに来たの」
「ぼく?」
「うん。出雲駅伝の話だけど、監督、引き受けようと思って」
「ほんとうですか!」
月羽ちゃんがぴょんぴょこ飛び跳ねる。こんなに喜んでくれるなら、勇気を出した甲斐があった。
「練習の支度もしてきたよ。あと、六使必要って聞いたから、メンバー募集のチラシつくったんだ」
「すごいです。じゃあ、チラシをくばりながら、猛おにいちゃんと合流しましょう。
手招きされた先には人力車、いや
そう言えば、自動車も公共のバスや電車も見かけない。炎車はやっぱりセレブ用で、これがあやかし界の一般的な交通手段のようだ。だとしても……
「車夫さん、いないね」
「ここにいますよ?」
月羽ちゃんが、台座ではなく柄の間に陣取る。恰好、金太郎じゃなかったらしい。
「ふふん。走るれんしゅうと、しきん集めが、いっぺんにできるんです。実は、集めたおかねをにんげんのおかねに両がえしてから、明香里おねえちゃんに会いにいこうと思っていました。かんとくをたのむならおかねがいるって、おやかたに聞いたので」
「えっ、呼び込みだけじゃなく、親方さんから一台任されてるの? 監督料はいらないけど、仕事を途中で抜けたらまずいよ。翠さんのところにはわたし一人で行くから、道を教えてもらえるかな」
「いいんです。その……あさから、だれも乗ってくれなくて」
ミルクティーベージュの垂れ耳が、さらに垂れる。
確かに、月羽ちゃんに妖力車を牽かせるのは忍びない。別の車夫がいれば、そちらに頼んでしまうだろう。
「わ、わたしは月羽ちゃんの車に乗れて嬉しいな。お代は真高にツケとくから。出発ー!」
「……はい、しゅっぱーつ!」
月羽ちゃんが、気を取り直した様子で走り出した。
「走りたい神使さん募集してます。知り合いに神使がいる方も、もらってください」
計画変更して、台座からチラシを配る。
なんだ? と受け取ってくれるあやかしもいれば、はなから無視のあやかし、手を引っ込めるのすらめんどうなのか受け取るなりその場に捨てるあやかしもいた。
(ああっ、捨てられた。……まだまだ。これしきで、めげてられない)
カラカラカラ。妖力車の車輪が鳴る。案の定、遅かった。似たような木造家屋が続く道なので、進んでいる感じがちっともしない。
月羽ちゃんが疲れたら、交代してわたしが走ろう。チラシ配りをいったん中断する。座っていてもできるストレッチをしながら、今のうちに情報収集をと話しかける。
「さっき、勧誘って言ってたよね。翠さんってどんなひ……どんなあやかしなの?」
「このちいきの、ちょうろうの
長老と聞いて、仙人みたいな姿が思い浮かんだ。
「駅伝にでるには、『かく』のたかい神使が、『たいしょう』として走らないといけません。そのお願いもかねています」
「翠さん、走っても死んじゃわないよね……」
「? はい。出雲をなんかいか、走っていますよ」
月羽ちゃんはちっとも心配していない。歳を取っていても、あやかしだから問題ないのかもしれない。
「ぼくとしては、翠おじちゃんより、真おにいちゃんに『たいしょう』になってほしかったですが」
「えっ、真高も格が高いの!?」
「はい。『秩父の真高さま』といえば、しらないものはいません。むかしは神使として、大いそがし。すごく優しいので、とうぜんですが」
「あんまりそうは見えないけどな……」
「このまえだって、てがたをもたずに境界をこえてしまったぼくを、むかえに来てくれました」
「う、その節はごめんね。……あれ、月羽ちゃんたちが境界を越えるときも手形がいるの?」
「はい、もどるときに。おねえちゃんたちのとぼくたちのは、しゅるいがちがいます」
そうだったのか。真高は、あやかし用だけでなく人間用の予備も持ち歩いていたらしい。
「あ、こっちの道はよく
月羽ちゃんが、はふ、と額の汗を拭う。そんなに晴れやかな顔をされては、ますます真高の「走らない」を覆すほかない。