見上げれば、真高と同年代の男が、空飛ぶ乗りものから顔を覗かせている。
乗りものは牛車によく似ていた。江戸どころか平安時代。ただ、牛の代わりに火のついた車輪が屋形を支えていて、近未来の一人乗りジェット機みたいでもある。
「手形なしに境界を越えた人間の足取りを辿ってきてみれば、そなたの連れとは」
淡い金の折れ耳と尻尾は、狐のあやかし――だろう。往来の混雑などどこ吹く風で悠々と浮かぶさまは、あやかしのセレブという感じだ。
「名ばかりの不干渉派を返上して、仕事を再開する気になったのか? 伊邪那岐さまはめっきり神界に籠もっておられるようだが」
「黙れ、
真高が眉を吊り上げる。
「睨まれるのも久方ぶりだ、悪くない」
微笑む悧杏は、たおやかな美貌の持ち主だった。刺繍の入った薄羽織がよく似合う。なのに、周りのあやかしたちはサッと俯き、美貌をひと目拝もうともしない。
「もしくは、昔のようにあくせく働かずともよくなって、戯れていたか。暇を持て余しているなら我に相談するとよい。誰がやっても構わない仕事を都合してやろう」
きっとこのよく回る口のせいだろう。悧杏の厭味な物言いは、彼の美貌を台無しにするどころか、それさえ許されるという意味でむしろ引き立たせていた。
初対面のわたしは、悧杏が言っていることの半分も理解できない。それでも、厭味を言われているらしいのだけはわかった。
「特にこの時期は、何をすべきか思案するばかりだろう。優秀な神使は駅伝競走の準備に取り組むが、そなたはぱったり走らなくなって久しいからな」
真高は黙ったきりだ。下手に言い返したり立ち去ったりしたら、却ってめんどうなことになるのかもしれない。
「ああ、我は出雲を前に足を疲れさせないよう、
悧杏は駅伝に出るんだ。
こころなしか、真高の銀の立ち耳が萎れて見える。
勝手にピンチに陥ったわたしを、メリットもないのに助けてくれた真高が言われっぱなしで、何だか悔しくなってきた。
「……走りますよ」
悧杏が、はじめてわたしを見た。幻聴か、みたいな顔をしている。
「せやから、走る言うたんです! 今年はわたしが監督になって、彼も出雲駅伝に出ます」
わたしにその資格はない。
でも、月羽ちゃんに頼まれたし――悧杏の口ぶり的に昔は走っていたらしい真高の走る姿を見てみたい、と思った。
この身体つきと負けず嫌いな性格、ぜったい速いと思うんだよね。
「承知した。ならば娘の境界越えも不問。出場については我から出雲の
わたしの宣言を以って、炎車とやらがたちまち空高く浮上する。悧杏は思わせぶりな笑みを残して、あっと言う間に去っていった。
(言った。言ってやった。……言っちゃった)
爽快感と不安が、ない交ぜになる。
真高はといえば、小さく口を開けて車輪の火の尾を眺めていた。かと思うと、勢いよくわたしに向き直る。
「どういうつもりだ。あいつは冗談にしないぞ、莫迦者!」
「ば、ばかっていうことないでしょ。月羽ちゃんに誘われてから、ずっと考えてたの。監督としては頼りないかもしれないけど、サポートならするよ。わたしでよければ……」
尻すぼみながらも、申し出る。
この一か月、わたしは止まったままだった。でも、また歩き出さなければならない。これは願ってもない縁なんじゃないか、と思った。
「はあ……。出雲駅伝は六区間あるんだ。六使揃ってないのに監督も何もあるか。言っておくが、俺は走らない」
真高がすたすたと歩き出す。
月羽ちゃんや猛生くんに「駅伝に出たい理由」があるように、真高には「駅伝に出たくない理由」でもあるのかな。
真高はまるで表情を隠すみたいに早足で、わたしを追いつかせなかった。暗い路地に入り、何度か曲がった末に、見覚えのある四辻に辿り着く。
「今夜の人界の天気予報は」
「へ? 熱帯夜、だけど」
ようやく口を開いたと思ったら、謎の問いを投げ掛けられた。
答えは何でもよかったのか、小さく頷くと灰色の道を指さす。
「ほら、向こうが人界だ」
「こんなに近かったっけ」
「手形を持ってないと永遠に辿り着けない。二度と不用意に迷い込むんじゃないぞ」
「うん、今度は練習とメンバー集めの準備して来」
「もたもたするな。さっきみたいな意地の悪い『能力』や『術』にまた引っ掛りたいのか」
「え!? あ、待ってってば!」
やたらと急かされ、反射的に足を出しながら振り返ると、真高の姿がすーっと遠のいた。道自体も陽炎のように揺らめく。
いつの間にか、山の神の森の、外灯の下にいた。
……なにこれ。
試しに暗闇へ向かって手を伸ばしてみる。でも、もう境界につながる気配はない。
「走らない理由、聞けなかった……」
ふと手首のスポーツウォッチを見れば、治療院を出発してから二時間も経っている。おじいちゃんがごはんお預け状態だ。慌ててところーど商店街へ走った。