真高が弾かれたように顔を向けた先では、身長二メートルはあろうかという大男が手を振っていた。といっても、挨拶などで手をひらひらさせるほうではない。両腕を前後に動かすほうだ。何の暗号だろう。
「此度は折り入って話が」
「おい、待て
真高の制止をよそに、紺の着流しの大男が踏み出す。
ドゴォン、と鈍い音を立てて、自動ではないガラス扉に正面衝突した。強打した膝を押さえて蹲る。
月羽ちゃんは痛みを想像してしまったのか涙目で、真高は深い溜め息。おじいちゃんはぽっかり口を開けている。
わたしは立ち上がって叫んだ。
「てっ、手当てー!」
治療院向かいの「山の神の森」は、雨上がりの匂いに包まれていた。
西武線の駅から徒歩十分の立地ながら、野球グラウンドくらいの広さがある。クヌギやエゴノキに囲まれ、中ほどには猿田彦大神の祠が佇む。
そこに「境界」――人界とあやかし界を結ぶ連絡通路があるとかで、四人連れ立って歩く。怪我人
「いやあ、参った参った。自動でない透明扉があったとは」
先頭で豪放に笑う大男の名は、猛生。猪のあやかしだという。
言われてみれば、口元に短くも鋭い牙が見え隠れする。五分刈りの髪は茶と金が交ざっていた。
ただ、言葉遣いも相まって、とても十七歳には見えない。
(「人型ならば」って言ってたから、実際はわたしより上なのかな?)
膝の手当て中に話したことを思い返す。動物のあやかしは、人型と獣型を取れるらしい。
ちなみに、猛生くんの膝は打撲で済んだけれど、治療院の扉にはヒビが入った。おかげでおじいちゃんは「ばあさんと守ってきた治療院が……」とヤケ酒している。
「こちらはいろいろちがうんだから、気をつけてください。ぼく、
「あい済まない。
猛生くんが声を張り上げても、わたしたちの前を歩く近所の中学生グループはスマホに夢中だ。本当に、「縁」がないと見えないし、聞こえもしないみたい。
「修行を兼ねて、駅伝競走の座組に是非とも加えていただきたい。まずは真高殿にお目通りをと、岩槻より訪ねきた次第」
「わ、あやかし界にも駅伝があるんだ?」
つい食いついたら、後頭部に冷たい視線が刺さった。もう振り向かなくても眉間の皺の深さがわかる。
「順番的には『人界にもある』と言うべきだ、小娘」
「明・香・里です。それに、わたしは猛生くんに訊いてるの」
「猛生『くん』?」
「ね?」
猛生くんを味方につけるべく、大きな身体の横に並ぶ。
「左様。遡ること飛鳥時代、神使の働きを参考に、情報伝達のための『駅伝制』が整えられたと言われている。さらにそれを模したのが、
「へえ、知らなかった。猛生くんは物知りだね」
後ろから「それくらい俺も知っている」と聞こえてきた。真高はけっこう負けず嫌いなんだな。
一方の猛生くんは、褒められて嬉しかったのか、身振りを大きくした。
「特に神在月に出雲にて開かれるものは、選りすぐりの神使が襷をつなぐ、たいへん名誉な舞台である!」
「出雲駅伝? こっちの出雲駅伝も、歴史は三十回ちょっとだけど、大学三大駅伝に数えられてるよ。全国から強豪が集まって、すごく盛り上がるんだ」
運動会の花形・リレーの長距離バージョンである、駅伝。バトンではなく襷をつなぐ。各大学の駅伝競走部員は、お正月の風物詩・箱根駅伝のほか、出雲駅伝と、伊勢路を走る全日本大学駅伝の頂点を目指す。
「明香里おねえちゃん、走ったことあるんですか?」
「ううん、男子の大会だからわたしはサポート……じゃなくて、毎年テレビで観てる」
「じゃあ、走ることや、出雲のみちに、くわしいですか?」
話に加わった月羽ちゃんが、わたしのワイドデニムをきゅっと掴む。夕方同じ仕草をしたときより、さらにひたむきな目だ。
「ま、まあ、普通の人よりは」
「だったら……だったら、ぼくたちのかんとくになって、いっしょに出雲の駅伝に出てください!」
え――?
わたしだけでなく、真高と猛生くんも予想外だったらしい。揃って絶句している。
「もしかして、月羽ちゃんの目標って」
「はい。駅伝に、それも出雲駅伝にでることです。『なきむし』っていってくる子たちを、みかえしたくって。えりすぐりの神使。きろくを見て、これだって思って、れんしゅうをはじめました」
「それで境界の外に押し出されて、俺に手間を掛けさせたのか」
月羽ちゃんが、ハッと手で口を覆う。
数日前、月羽ちゃんを囲んでいたいじめっ子たちを思い浮かべる。慌てて逃げていったっけ。あれは、あやかし界に帰ったということ?
境界は、気軽に行き来するものではないのかな。でも、氷嚢を返しにきてくれたし、猛生くんもこうして真高に会いにきた。
頭がいっぱいになっていたら、真高がわたしの前に回り込む。
「生憎だが」
なぜか――苦しそうな表情をしていた。思わず見つめてしまい、こめかみに三日月のような傷痕があるのに気づく。
「出雲駅伝に出るつもりはない。邪魔をしたな」
「どうして真高が決めるの? 出るのは月羽ちゃんたち……あ、待って!」
話すうちに、祠に到着していた。月羽ちゃんも、猛生くんの大きな身体も、真高も、陽炎みたいに輪郭が揺らめく。
わたしはぱくぱくと口を動かす月羽ちゃんに手を伸ばして、そのままつんのめった。
ぐちゃ、と濡れた地面に膝をつく。久しぶりの感覚だ。
「痛たた」
三人とも、跡形もなく消えてしまった。途端に心細くなる。すっかり日が暮れて暗いのに、女の子を一人置いていくなんて。
「駅伝の、監督かあ……」
のろのろと立ち上がる。
正直に言えば、少し心が浮き立った。監督はさすがに務まらないと思うけれど、練習やケアのことだったらサポートできるかもしれない。
――でも、わたしにその資格はない。