ぐるぐる考えていたら、
「『異界』に一度踏み入った人間には『縁』ができて、信心を持たずとも俺たち『あやかし』の姿が見える。短い間だがな。今日はおまえのにおいを辿って来てやった」
まるでわたしの頭の中を盗み見たみたいに、真高が言葉を継ぐ。
「これを返すために」
「ぶ」
ぞんざいに放られた水色の氷嚢が、顔に命中した。この男、絶対わざとだ。嫁入り前の女子大生の顔に何てことを、と抗議しようとしたけれど、
「あ、あの。このあいだはありがとう、おねえちゃん。……ふう、やっと言えました」
愛らしい一言で、いっぺんに浄化される。
月羽ちゃんが、真高の足にぎゅっとしがみつき、後ろから顔だけ覗かせている。
「ぼく、月羽っていいます。にんげんのことばでいうと、うさぎのあやかしです。浦和の
「兎の、あやかし?」
「……はあ。おまえたちとは違なるもの、とでも思っておけ、小娘」
「そない歳変わらんでしょ。あと、わたしには桐谷明香里って名前があるんです」
月羽ちゃんを呆れ顔で見る真高の立ち耳が、ぴくりと動く。彼は狼のあやかし、ということになるのかな。
あやかし。古い伝承や、物語の中だけの存在だと思っていた。
でも、今、目の前にいる。
(耳と尻尾に慣れれば、別に普通かも)
ザッザッザッ。
そこに、力強く地面を蹴る音が近づいてきた。駅伝競走部だ。練習コースはいくつかバリエーションがあって、今日は神社の参道を通るらしい。
ときに、あやかしより人間のほうが怖かったりする。
咄嗟に真高の後ろに隠れたわたしと入れ替わりに、月羽ちゃんが淡い桃色の浴衣をひらめかせて前に出た。
その目の前を、十数人のランナーが風のように走り抜けていく。
「はやぁい! おにいちゃんに似てます。かっこいいですねっ」
「あ、うん、そうだね。全国レベルの人たちだから」
そろそろと、遠ざかる集団の後ろ姿を見やる。走るという動作は、極めるほど美しいと思う。
「おまえの知り合いか?」
「いや……うん」
「どっちなんだ」
「お、同じ大学なの」
「ほう。泣かされでもしたか」
ドキッとして、身体を離す。また頭の中を見透かされたみたい。真高の立ち耳が小刻みに動いている。
と言うか、古風な装いの割に「大学」の意味は知っているらしい。古風なのは見た目だけなのかな。
「『おおかみの耳』ですか。
「王様の耳?」
は、ロバの耳だ。どういう意味だろう。
「助けてほしいか」
真高は答える代わりに、にやりと笑った。弱みを握られたみたい。これなら冷たく突き放されるほうが千倍ましだ。
「結構です」
「それはよかった。俺は人間不干渉派だ」
だったら「助けてほしいか」なんて訊かないでよ、と地面を踏み鳴らしたくなる。でも、ワイドデニムをくいくい引っ張られて、未遂に終わった。
「ねえ、明香里おねえちゃん。ぼく、もう走ってもいいですか?」
競走部の走りを目の当たりにしたせいか、頬を上気させた月羽ちゃんが、ひたむきな目を向けてくる。
そう言えば、今日は赤い鼻緒の雪駄だけれど、この間は草鞋を履いていた。
「月羽ちゃん、走りたいの?」
「はい。もくひょうがあって、れんしゅうしてるんです」
「月羽、余計なことを言うな。用は済んだ、帰るぞ」
「それなら、ちゃんと治ったか確かめないと。治りきってないのに練習したら、怪我が悪化したり、別のところを怪我しちゃうかもしれないから」
わたしは真剣に答え、月羽ちゃんを抱き上げた。真高は無視だ。
「ひゃう!?」
もう足を引きずる様子はないけれど、念のため自転車のサドルに乗せる。
「あの、ぼく、足つかないです」
「待て、そもそもどこへ行く気だ」
「治療院に決まってるでしょ。歩いていくのでそっち側のハンドル押してください」
追いかけてきた真高は、腕を組んで無言の抵抗を示した。
「真おにいちゃん、おねがい。だめですか……?」
でも、月羽ちゃんの涙目にはさすがに逆らえないらしい。ぶつぶつ言いつつもハンドルに手を伸ばした。
「腫れも痛みも収まっとるし、不安定性のテストも問題なし。めいっぱい走って構わんよ」
「ほんとうですか!」
マッサージベッドに腰かけた月羽ちゃんがにっこり笑い、わたしまで頬がゆるむ。治療院に到着したときはまだ営業中で、腰痛と膝痛と肩痛の常連さんが詰めかけていたけれど、待った甲斐があった。
「よかった、Ⅰ度捻挫だったんだね」
「んむ。応急処置もできたしな」
おじいちゃんが、遠回しにわたしの対応を褒めてくれた。でも、いちばん症状の軽いⅠ度捻挫だったから、治りも早かったに過ぎない。
本来であれば、また同じ怪我をしないように走り方の癖をチェックしたいところだ。でも、ぐっと堪える。
わたしにその資格はない。治ったのなら、「縁」とやらもひと区切り。
おじいちゃんが処置料の話を出さないので、わたしもサービスのつもりで月羽ちゃんに笑い掛けた。
「また何か困ったことがあったら、いつでも来てね」
「はっ。もう関わることはない」
ずっと仏頂面で壁に寄りかかっていた真高が、ここぞと吐き捨てる。月羽ちゃんが杢灰色の袖下に縋りついて首を振るのも、知らんぷりだ。
「真高には言ってません」
「ほう? 忠告しておくが、俺たちのことは他人に口外しないほうがいい。頭がおかしいと思われるからな」
「はあー!?」
真高の言葉には、いちいち険がある。
ただ、待合室のテレビに映るイケメンに必ず反応する常連さんたちは、すぐそばに立つ美形の真高にまったく無反応だった。
つまり――彼女たちには真高の耳と尻尾どころか、真高自体見えていないということ。
そばにいるのに、いないも同然に振舞うなんて、寂しくないのかな。
もしや、真高は寂しさをまぎらわそうと強がっていたりして?
わたしは真高の金色の瞳をじっと見つめた。でも、本心を読み取る前に、
「やあやあ、真高殿であるな!」
という大声が響き渡った。