わたしは頓狂な声を上げた。
しかも仰け反った拍子に、男の子の巻き毛の中に、尻尾と同じ
垂れ耳、に見えなくもない。つい足首ばっかり見ていたけど、これって動物の……。
いや、動物ごっこ遊びをしていたのかも。きっとそう。
「なんじゃい。そこまで見えてて連れてきたもんだと思ったら」
平静を保とうとしたのに、おじいちゃんにとどめを刺された。
(おじいちゃん、最初から尻尾と耳に気づいてたの?)
わたしも七十八年生きれば、大抵のことには動じなくなるのかな。ちょっと遠い道のりだ。
遠いけれど、見て見ぬふりはしたくない。男の子の不安げな赤い瞳をじっと見て、率直に尋ねる。
「あなたはいったい……何者、なの?」
男の子は、可憐な唇を開いては閉じた。彼もごまかさずに答えようとしてくれている。根気強く待つ。
「ぼくは、うさ」
「月羽を返せ」
やっと絞り出された声は、鋭く低い声に掻き消された。
振り向くと、いつ入ってきたのか、見知らぬ男が立っている。二十代半ばのようだけれど、男の子の保護者――なのかな。
一言で言えば、美形。杢灰色の着流しが映える長身に、服の上からでもわかるしなやかな筋肉。ゆるく結んだ銀糸の髪と薄い金の瞳は、日本人離れしている。
そして、いやにリアルな立ち耳とふさふさの尻尾……。
失礼ながら、ちょっと和んでしまう。でも、本人は至って真面目に眉間に皺を寄せている。
「探しただろう。異界で何やってるんだ」
「ご、めんなさ」
男はわたしなんて眼中にない様子だ。月羽という名前らしい男の子につかつかと歩み寄り、引っ立てる。
「ちょっと、無理に歩かせんといて。怪我してるでしょ」
「おまえのせいじゃないのか?」
凄まれて息を呑んだ。この男、美形だけれど他人への態度は最悪だ。
それでも月羽ちゃんを守るためには引けない、とマッサージベッドの前に立ちはだかる。女子大生になるにあたって封印した関西弁の最大解放も辞さないでいたら、
「まあまあ。うちは『あやかし』も受け付けとる治療院だ。手当てしてただけさな」
飄々と器具を片づけていたおじいちゃんが、とりなした。
「なあ、真高くん」
まるで知り合いのように呼び掛ける。
真高と呼ばれた青年のほうは、怪訝そうな顔だ。
「あ、あの、おねえちゃん……」
「帰るぞ」
青年はそれきり何も言わず、口ごもる月羽ちゃんの手首を掴んで連行していった。
◇
(こないだの、何だったんだろう)
不思議な二人が去った後、おじいちゃんは素早く晩酌に戻り、狙ったみたいに寝落ちた。
次の日以降、何度も問いただしたものの、何やかんやとかわされ続けている。
『うちは「あやかし」も受け付けとる治療院だ』
あやかし。あやかし?
おじいちゃんがさらっと口にした単語を小さくつぶやきながら、テキストをリュックにしまう。
わたしは関西で生まれ育ち、高校は寮生活だったから、おじいちゃんと治療院に関してこの半年のこと以外よく知らない。
治療院兼おじいちゃんの家は、わたしが通う大学まで自転車でたった十五分の場所にあった。それで一昨年亡くなった
(て言うか、あやかしも怪我するんだ。生きてればそりゃあするか)
一限から四限までぶっ続けの夏季集中講座を終え、駐輪場へ向かう。
いくつかあるキャンパスのうち、都心から離れたここは体育学部が独占している。広大な敷地に四百メートルトラック、サッカーフィールド、野球グラウンド、屋内五十メートルプール、十数面のテニスコートが揃い、校舎から駐輪場まで歩いて十分くらいかかった。
夕立が来るかもな、と遠くの空を見やる。
「選手通りまーす! 左に寄ってくださーい!」
不意に聞き慣れた声がして、身体を強張らせる。ぎくしゃくと自転車を押し、野球グラウンドのフェンスの陰に逃げ込んだ。
ザッザッザッ。
陽焼けした男子集団が駆け抜け、熱を孕んだ風が巻き起こる。
裏門からの上り坂がトレーニングにうってつけで、周回コースに組み込んでいる。キャンパス内を歩く学生とぶつからないよう、マネージャーが都度さっきみたいに声を張り上げるのだ。
わたしの大学の駅伝競走部は「名門」と言われ、全国からレベルの高いランナーが集まる。大学三大駅伝ーー出雲、伊勢、箱根を目指して、日々練習を重ねている。今はちょうど夏季二次合宿と最終合宿の合間だった。
「競走部が横通ると、扇風機みたいで涼しー」
「言えてる。でも、高校日本一のゴールデンルーキーくんいなくなかった?」
「なんか合宿しょっぱなに怪我したらしーよ」
コンビニアイスを齧りながら坂を上ってくる、白衣姿の先輩の会話に、ぎくりとする。
居てもたってもいられず、裏門を出た。中氷川神社のそばに自転車を停める。
ここの雑木林の合間からは、大学の陸上トラックを見下ろせた。
今は駅伝競走部の選手はもちろん、コーチもマネージャーも周回コースに出払っている。
でも、ゴールデンルーキー・
わたしがトレーナーを目指したのは、仁奈先輩の存在が大きい。先輩が羽織っていたベンチコートのロゴを頼りに、この大学に入った。
「むっ。おっきなワンちゃんの気配」
「はい?」
二人が短いやり取りを交わしたと思うと、仁奈先輩のボブヘアが左右に揺れた。見つからないよう、慌ててしゃがむ。
もふっ。
途端、豊かな銀色の被毛に顔が埋まる。いい毛並み。
「……犬?」
「ふざけるな、狼だ」
銀毛が揺らめき、ぺしっと私の頭をはたいた。尻尾だったらしい。飼い主さんにお詫びしようとして、狼って飼っていいんだっけ? と首を傾げつつ振り仰ぐと。
「雨が降りそうなのに、自転車になぞ乗るな」
この間の感じの悪い青年が、腕を組んでわたしを見下ろしていた。
相変わらずの眉間の皺、相変わらずの杢灰色の着流し。真高、といったっけ。これも相変わらず頭に鎮座する立ち耳と帯の下から伸びる尻尾に、釘づけになる。
「なん……、なんで?」
「神使が『境界』を行き来できるのは当たり前だろう」
真高が、そんなことも知らないのか、と言わんばかりに溜め息を吐く。
(一個も当たり前じゃない!)
なんで、動物の耳と尻尾がついているのか。
なんで、わたしにそれが見えるのか。
なんで、また会ったのか。境界って、なに。