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⑦それぞれのハードル

 口を開けて突っ立っていたら、知らない声がした。驚いて小さく跳び上がる。


「人間!?」


 いつからそこにいたのか、一際大きなスギの根元に、男性が無造作に腰かけていた。

 ――いや。男性のようにも、女性のようにも見える。無表情にも、表情豊かにも見える。年齢も読めない。髪はゆるく波型を描く黒髪ロングで、膝丈ワンピースのようなシャツとズボンは白。色とりどりの石を使ったネックレスにブレスレット、イヤリングもしている。


「ふっ、くく。自分だって人間だよねえ。君のようにふらっと行き来する子だけじゃなく、こっちに住み着いてる子も少しだけどいるんだよ」

「そう、なんですか……すみません……」


 笑われてしまった。我ながらはじめて「人間」を見たようなリアクションだったな、と恥じ入っていると、


「それより、あの子。ああして神使としての力を日々磨いているんだ。『狼の耳』で聞いた声も、逐一報告してねえ。こんなちっちゃいときからずうっと」


 謎の人物は、ちょうど寄ってきて頭をこすりつける子狼を、手で示した。この森には野生の狼、もしくはあやかしの獣型が息衝くらしい。

 ふと、素朴な疑問が浮かぶ。


「神使の見た目って、成長するんですか?」

「ああ、いや、私にとってのイメージというか」


 あの大きな狼がちっちゃく見えるとは、だいぶ長い付き合いのようだ。

 それきり会話は途切れる。しばらく、アップダウンをものともせず山を駆ける真高を、二人して眺めた。


「……古来、神使は野山を駆け、人里に主の意向を届けた。特にあの子の姿を見ることができた人間は喜んだし、あやかしはもちろん神々からも評判だった。またあの子の走りを見せびらかしてくれたら、願いを何でもひとつ叶えてあげちゃうんだけどなあ」

「え?」

「って、あの子の主が言ってる。君には期待してるよ、明香里さん」


 真高の主と言葉を交わしたことがあるなら、人間ではなく神使なのかな。

 もっと詳しく話を聞きたかったけれど、謎の人物はひらりひらりと山腹を上っていってしまった。


 もっと走る真高を見ていたい気持ちを抑えて、屋敷に引き返す。


「まだいたのか」


 十五分くらい後に戻ってきた真高は、縁側にわたしを見つけて、ばつが悪そうにした。捲っていた長着の裾をもぞもぞ直す。


「足、すぐ冷やしたほうがいいよ」


 わたしは水を張ったたらいを勧めた。まあ、たらいも水も屋敷から拝借したものだけれど。「もし明日何か託ったとき、筋肉痛じゃ困るでしょ?」と畳み掛けたら、真高はしぶしぶ縁側に腰掛け、脚絆を脱いで水に足を浸けてくれた。


(ほんと、駅伝を走らないのがもったいないくらいいい足だな)


 その傍らにしゃがむ。真高の長着の裾を再度上げさせ、ふくらはぎにも冷水をかけてやりながら、切り出した。


「実はね。わたし、駅伝を走りたかったんだ。あ、人間のだよ? 一生懸命練習してた。部員はもちろん、卒業生とか保護者とか、たくさんの人の想いがこもった襷をつなぎたいって」

「……俺たちの襷も、同じだ」


 真高は戸惑いの表情ながらも、合いの手を入れてくれる。


「なのに、メンバー決めの記録会の最中に貧血になって……転んじゃった。身体が冷えて動かなくて、何も見えなくて、自分がどこにいるのかもわからなくなって。結局走れずじまい」


 たらいの水に波紋ができて、わたしは手の震えを自覚した。


 現役最後の全国高校駅伝に向けた部内記録会。胸に襷を掛けて都大路を走りたいという夢は、はかなく潰えた。

 その夜、寮を抜け出して、一人で泣いた。高校で実績のない選手が、大学で駅伝競走部に入ることは難しい。入れてくれるチームがあったとしても、貧血で迷惑をかけてしまうかもしれない。


 わたしは引退を選んだ。本格的な練習をやめたら、貧血も軽くなった。ランナーは足をつくときの衝撃で足裏の血管の赤血球が壊れ、貧血につながるんだ。


「駅伝への憧れは今もあって、学生トレーナーとして大学の駅伝競走部に入ったけど、やっぱり走りたかったなって……思うことが、ある」


 時計の針は巻き戻らない。切り替えたつもりで、たまに思い出す。

 もふ。

 目の奥がじわっと熱くなったとき、頭の上に銀色の豊かな尻尾が乗った。もふふ、もふっ、とわたしを慰めるみたいに動く。


「なぜ、俺にそんな話をする」

「真高も、駅伝に何か苦い思い出があるのかなって。わたしでよければ聞くよ。ほら、あやかし同士だと話しにくいこともあるでしょ?」


 わたしが本題に入ると、尻尾の動きが止まる。


「俺は、駅伝でヘマをしたわけじゃない」


 じゃあ、どうして。首を傾げたわたしを、真高が見下ろす。


「ただ――五十五年前、失望したんだ。俺にも、神使という存在にも」


 西陽に溶けてしまいそうな真高の金色の双眸には、深い愁いが浮かんでいた。





 十月になったら、後期の授業が始まる。夕方からしかあやかし界に行けない。どう練習をサポートしたらいいかな、と考えつつ山の神の森へ入っていくと、

 ザッザッザッ。

 力強い足音が聞こえた。


 この間目の当たりにした、真高のリズムを思い出す。わたしも無意識に小走りになる。

 真高がわだかまりの一端を明かしてくれた日、わたしはろくな言葉をかけられなかった。だって「駅伝に出れば万事解決!」ってものでもない。


 でも、みんなと襷をつなごうと思い直してくれたのかもしれない。真高の気が変わらないうちに、と木と木の間から飛び出す。


「っ、桐谷?」

「秀人……!」


 わたしも相手も、びっくりして足を止めた。一拍後、二人して目を逸らす。

 走っていたのは、真高ではなく、駅伝競走部のロゴTシャツを着た秀人だった。

 自主練らしい。競走部員は大学近くの寮に下宿しているから、山の神の森を走っていても不思議ではない。


「ええと。さ、最終合宿、どうだった?」

「さあ。おれは留守番だ」


 秀人の表情が曇る。気まずさを吹き飛ばそうとして、よけい気まずい空気になってしまった。わたしっていつもこう。


 夏の最終合宿は、大会シーズンの始まりに向け、朝から晩まで走り詰めだ。だからペースについていけないBチームメンバーや怪我人、就職活動直後などコンディション不足の部員は、大学に残って練習する。

 秀人もまだ本調子じゃないんだろう。と、いうことは。


「さっきのペースで走っていいの?」


 秀人は何も答えない。目を逸らしたのは、わたしの顔を見たくないだけじゃなく、ドクターとトレーナーが許可した以上のスピードを出していて、後ろめたかったかららしい。


 秀人の、すっと細い右ふくらはぎには、不器用なテーピングが垣間見える。

 トレーナーの心構え、その三。憎まれ役を買ってでも、言うべきことは言う。


「完治してないのに走ったら、また同じところを怪我しやすいし、ふくらはぎ庇って別のところを怪我しちゃうかもしれないよ。今は地味だけど筋トレとか」

「走っても怪我しないようにすんのがトレーナーの仕事だろ。なのにおまえは」


 言い募るわたしを、秀人が遮る。

 秀人の黒髪から、ぽたりと汗の雫が落ちた。あのときと同じだ。


 あのとき――八月の一次合宿直前、秀人はふくらはぎに違和感を覚え、三日間別メニューをこなした。わたしがチェックをして、合宿から復帰することになった。

 筋肉の張りは少しだったし、充分足を休めたし、本人が痛くないというので走らせてあげたかったのだ。ランナーは走りたい生きものだ。


 結果、秀人は合宿序盤に全治六週間の肉離れを起こした。

 現地の整形外科のドクターには「どうしてこの足で走らせたんだ」と呆れられた。秀人はただ俯いて、汗とも涙ともつかない雫を顎から滴らせていた。


「ごめん……」


 わたしが口を出すと、治るものも治らない。よろよろと足を引く。秀人は苦い表情で走り去っていった。


 思わず、その場で膝を抱え込む。

 あやかし界での練習サポートがちょっとうまくいっているからって、図々しいことを言ってしまった。

 月羽ちゃんたちが幸いにも頑丈なだけで、順調にタイムが伸びているのはわたしのおかげじゃない。


 わたしを取り巻く現実は、何も変わっていない。


(向こうの世界にずっといたいな……なぁんて)


 つい、弱音が頭を過ぎった。





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