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⑧わたしにもできること

 治療院の二階で遅い夕ごはんを済ませ、自分の(正確には小百合おばあちゃんの)部屋に戻る。クローゼットはアルバムでいっぱいだ。なぜか小さい頃の写真はなくて、おじいちゃんと撮った写真ばっかり。


 その奥から、入学祝いにもらったトレーナーバッグを引っ張り出す。ナイロン製で、クーラーボックスみたいな長方形。ファスナー蓋の中は空っぽだ。


 一階に持って下りて、備品棚から必要なものを移していく。

 テーピング用テープ各種、黒いバッグの中で迷子にならない明るい色の氷嚢、包帯、消毒液とガーゼ、靴擦れ保護パッドなどの便利アイテム――。


「部活に戻るんか?」

「わっ」


 びっくりして、テープをいくつか落としてしまう。

 ころころ転がっていった先には、いつの間にかおじいちゃんの足があった。お醤油待ちの晩酌ですっかり出来上がっていたはずが、口調はしっかりしている。


 部活。

 わたしは、大学の駅伝競走部の学生トレーナーだ。いや、トレーナーだった。

 仁奈先輩の下につき、元ランナーの経験を活かして、一生懸命サポートしていた。


 でも、大事なルーキーである秀人の怪我の対応で、大失敗した。八月の一次合宿中のことだ。以来、部活にはとても顔を出せない。


「ううん。月羽ちゃんたちの……あやかし駅伝の、サポートをしようと思って」

「そうかい」


 おじいちゃんは拾ったテープをわたしに手渡し、そのまま廊下を通り過ぎていく。特に突っ込んでこないのは、七十八年生きているから? それとも、あやかしの駅伝大会の存在を知っている?


「明香里がそう決めたんなら、これも入れとけ。役に立つ」


 おじいちゃんはすぐ戻ってきて、何かをひょいっとトレーナーバッグの隙間に差し込んだ。


「ありがと。ねえ、あとで治療院のコピー機使っても……って、これ!」


 バッグに差し込まれたものを二度見する。真高がくれたのと同じ木札ではないか。

 表書き(くずし字で何て書いてあるのかはわからない)はさっきのと違っている。気づいたらトレーニングパンツのポケットからなくなっていたのを拾ったわけではなく、治療院の棚にしまってあったらしい。

 役に立つどころか、これで自由に行き来できる、のだけれど。


「おじいちゃんも、あやかし界に行ったことがあるの?」


 おずおずと尋ねる。まさかこの木札も治療院の常連さんにもらった、とは言わないよね。


「ほっほう。醤油を買いに、向こう・・・の商店街まで行っとったんじゃな」

「う、ごめん……」

「わざとじゃあないのはわかっとる。うちは神隠し家系でな、わしも若い頃よく訪ねたもんだ」

「えっ、そんな家系だったなんて初耳だよ」

「そりゃあ忘れとったからな。こないだ久しぶりに会って少し思い出したわい」


 しししっ、とおじいちゃんは悪びれずに笑った。あやかしについて聞いてもはぐらかしたのは、あんまり憶えていなかったかららしい。


「だんだんこっちの治療院が忙しくなって、あやつらもいつの間にか訪ねてこなくなって、だいぶ記憶がおぼろげじゃが……わしがあっちに行ったりやつらがこっちに来たりして、治療やケアをしてやったもんよ。特にあの狼を」

「真高を?」

「おうとも。あれの走りをひと目見たら惚れるぞ?」


 それなら真高はいくつなんだろう。おじいちゃん、やっぱり酔っ払っているかもしれない。


「向こうはおじいちゃんのこと覚えてないっぽかったけど」

「しわしわになっとるからかな。それか、もう自分を忘れているかもと遠慮したか。不器用だけど優しい子さ」

「そんな面影ほとんどないけど……」


 人間不干渉派。俺は走らない。真高の声がリフレインする。居合わせたうちの九割、感じが悪かった。


「さあて、その理由は本人に確かめてみたらどうだ。あれは人の泣き声はいっとうよく聞こえるが、自分の泣き声には疎い」

「泣き声?」

「精神的な悩みに寄り添うのも、トレーナーのサポートのうちじゃろう」


 おじいちゃんの、皺が刻まれた魔法の手が、ぽんと頭に載った。

 真高は、頑なに「走らない」と言い張っている。駅伝の話題が出たとき、切ない表情を垣間見せる。

 もしかして、本当は走りたいの――?

 それなら、きっと、わたしにもできることがある。





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