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(三)

 目を開けた瞬間、目前を銀色の軽自動車が通り過ぎて行った。


 死の世界前案内所で行員と話していたはずなのに、みくには見覚えのある街路に戻っていた。


 少年を追って走っていた街路だ。


 身体を確認しても怪我なんてしていない。


 軽自動車による事故はすんでのところで回避されたのだ。


「戻ってきたってこと?」


 先程までの行員とのやりとりは夢のようだけれど、はっきりと覚えている。


 それに根拠はないが、あれが夢じゃないことをみくには確信していた。


「そうだ、あたしは選んだ。だから戻って来た」


 言葉にした瞬間、全身に力がみなぎった。


 なんだろうこの熱い力は。


 自分を取り巻く世界が、なにからなにまで解像度が上がり、そのすべてにつながるような一体感。


 行員の言葉を思い出す。


 神の使徒――スーパーガール。


 みくには「スーパーガールになる!」と宣言し、人生の続行を選択したことで現世に帰還したのだ。


 とんでもないことになった気がしないでもない。


 けれど五歳で死ぬなんてまっぴらだし、なにより、みくににはやらなくてはならないことがある。


 行員が言っていた“スーパーガールとして悪と戦うこと”――ではない。

 そんなのすでにみくにの頭からは抜け落ちている。


 そうではなくて。


 みくには目を凝らした。


 街路のはるか彼方、少年の背中が見えた。


「いた! あたしの運命のカレ!」


 あたしの使命はあの男の子との大恋愛だ!


 そんな謎の使命感に背中を押され、みくには彼を追って駆けだした。


 もう二度と少年を見失わないよう、その姿に視線の照準を合わせる。


 少年は立ち止まらず、歩を緩めることすらなく、懸命に走っている。


 それはどこかの目的地に向かおうとしているのではなく、なにかから逃げているようだった。


 そんな少年を、初恋の炎を燃やすみくにが追う。


 元々みくには足が遅い方ではない。

 が、男子と比べると見劣りするし、少年の走る速さは同年代の男子よりも早い気がした。


 それなのに、死の世界前案内所から戻ってきたみくにの走力は、少年との距離をどんどん詰めるほどに速まっていた。


 身体が軽い。呼吸も乱れない。


 通行人の間をするすると通りぬけられるし、道端の植え込みを楽々と飛び越えたりもできる。


 途中、街路樹の枝から降りられなくなっている子猫を発見。

 走りながらジャンプして子猫をつかまえ、そのまま抱えて着地したときには、さすがに自分でも驚いた。


 あたし、すごいことになってる!


 これが行員の言っていたスーパーガールの力なのだろうか。


 気にはなったが、とりあえずそのことを考えるのは後回し。


 今は少年に追いつき、王崎家前で見た彼の涙の訳を訊き、その悲しみを癒すのだ。


 彼の名を知り、あたしの名を教え、そしてふたりのラブストーリー開幕。


「うへへ、最高……」


 そんな恋のモチベーションを高めていたら、ついに少年と声が届きそうなほどに接近した。


 そのときだった。


 少年の前方に黒いミニバンが急停車した。


 同時に後部ドアが開き、マスクとサングラスで顔を覆った男が飛び出してきた。


 驚いて立ち止まった少年を両腕で抱えた男は、すぐさま車内に乗り込み、ドアが完全に閉まる前に車は急発進した。


 わずか数秒ほどの出来事。


 ミニバンはエンジン音を残して街路を走り去っていく。


 状況が理解できず、呆然と立ちすくんだみくには、ミニバンが去った道路の先を見つめていたが――。


 どくんっ。


 胸の鼓動が不穏に高鳴り、視界が赤く明滅した。


 パトカーのサイレンを目に当てられたみたいで、非常事態感に襲われる。


「これって……もしかして」


 スーパーガールになることを選択したみくにが現世に戻される際、死の世界前案内所の行員が告げたことを思い出した。


「助けを無辜むこの民がいたり、倒すべき悪が出現した際に、みくに様はそれを認識できるようになります。けっして見逃してはなりません。スーパーガールなのですから」


 内容は難しすぎて半分も理解できなかったが、今、みくにに生じている異変がそれなのかもしれない。


 つまり悪者を倒し、救わなければならないひとが近くにいるということ。


「あの男の子のことだ!」


 スーパーガールの思考力の賜物か、みくには状況を理解した。


 黒いミニバンに乗った悪者が、少年を誘拐したのだと。

 その少年を救出するのが、今の自分の使命だと。


「でもどうしたら……」


 走力が増したとはいえ、すでに視界から消えた車に追いつけるとは思えない。


 スーパーガールって飛べたりしないかな。


 ためしに「えいっ」と、その場で跳ねてみた。


 ぴょ~ん。


 五歳児とは思えない跳躍力はあれど、飛べはしなかった。


「どうしよう……」


 みくにがなにもできないでいるこの瞬間にも、少年は怖い思いをしているだろうし、その命が危険に晒されているかもしれない。


「あたしと彼との恋はまだはじまったばかりなのに!」


 焦燥感の中、頭に浮かぶのは少年の姿。


 彼に会いたい。彼の声を聞きたい。


 そう強く願ったときだ。


 音の奔流が鼓膜に押し寄せてきた。


 それは人々の声であったり、数多の足音や車の走行音であったり、鳥の羽音や川のせせらぎだったりもした。


 街中のありとあらゆる音に包まれ、頭が爆発するのではないかと震えあがった瞬間――。


「……――王崎商事社長の息子に間違いないっすよねえ」


 チューニングが合わさるみたいに、その声が明瞭に聞こえだし、反対に他の音は遠ざかっていった。


「ああ、社長の王崎剛造ごうぞうの一人息子、拓真たくまだ」


 その発言にみくにはハッとした。


 これって誘拐犯の声だ!


 スーパーガールの聴力が悪者の声を探し当てたに違いない。


 みくにはさらに耳を澄ますように集中した。


「剛造はいくら払うだろうなあ、かわいい息子の命に」


 下卑た笑いの向こうに、かすかにうめき声が聞こえた。


 少年のものかもしれない。きつく縛られて痛いのかもしれないし、怪我をしている可能性だってある。


「早く助けなきゃ」


 拳を握ったみくには聴覚を研ぎ澄ましながら、顔を前方へ、それから右、左、後方へ順に向けた。


 男たちの話し声と車のエンジン音が、ひときわ大きく明確に聞こえたのは左を向いたときだった。


 なぜか視界がかすかにゆがむ。


 あたしが倒さなきゃいけない悪者は、きっとそっちにいるんだ。


 悪の気配――その波動が感じられる方向へ。


 そこにあたしの運命のカレもいる!


 みくには唇を引き結び、つぎの瞬間、矢が放たれるように駆けだした。

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