目を開けた瞬間、目前を銀色の軽自動車が通り過ぎて行った。
死の世界前案内所で行員と話していたはずなのに、みくには見覚えのある街路に戻っていた。
少年を追って走っていた街路だ。
身体を確認しても怪我なんてしていない。
軽自動車による事故はすんでのところで回避されたのだ。
「戻ってきたってこと?」
先程までの行員とのやりとりは夢のようだけれど、はっきりと覚えている。
それに根拠はないが、あれが夢じゃないことをみくには確信していた。
「そうだ、あたしは選んだ。だから戻って来た」
言葉にした瞬間、全身に力が
なんだろうこの熱い力は。
自分を取り巻く世界が、なにからなにまで解像度が上がり、そのすべてにつながるような一体感。
行員の言葉を思い出す。
神の使徒――スーパーガール。
みくには「スーパーガールになる!」と宣言し、人生の続行を選択したことで現世に帰還したのだ。
とんでもないことになった気がしないでもない。
けれど五歳で死ぬなんてまっぴらだし、なにより、みくににはやらなくてはならないことがある。
行員が言っていた“スーパーガールとして悪と戦うこと”――ではない。
そんなのすでにみくにの頭からは抜け落ちている。
そうではなくて。
みくには目を凝らした。
街路のはるか彼方、少年の背中が見えた。
「いた! あたしの運命のカレ!」
あたしの使命はあの男の子との大恋愛だ!
そんな謎の使命感に背中を押され、みくには彼を追って駆けだした。
もう二度と少年を見失わないよう、その姿に視線の照準を合わせる。
少年は立ち止まらず、歩を緩めることすらなく、懸命に走っている。
それはどこかの目的地に向かおうとしているのではなく、なにかから逃げているようだった。
そんな少年を、初恋の炎を燃やすみくにが追う。
元々みくには足が遅い方ではない。
が、男子と比べると見劣りするし、少年の走る速さは同年代の男子よりも早い気がした。
それなのに、死の世界前案内所から戻ってきたみくにの走力は、少年との距離をどんどん詰めるほどに速まっていた。
身体が軽い。呼吸も乱れない。
通行人の間をするすると通りぬけられるし、道端の植え込みを楽々と飛び越えたりもできる。
途中、街路樹の枝から降りられなくなっている子猫を発見。
走りながらジャンプして子猫をつかまえ、そのまま抱えて着地したときには、さすがに自分でも驚いた。
あたし、すごいことになってる!
これが行員の言っていたスーパーガールの力なのだろうか。
気にはなったが、とりあえずそのことを考えるのは後回し。
今は少年に追いつき、王崎家前で見た彼の涙の訳を訊き、その悲しみを癒すのだ。
彼の名を知り、あたしの名を教え、そしてふたりのラブストーリー開幕。
「うへへ、最高……」
そんな恋のモチベーションを高めていたら、ついに少年と声が届きそうなほどに接近した。
そのときだった。
少年の前方に黒いミニバンが急停車した。
同時に後部ドアが開き、マスクとサングラスで顔を覆った男が飛び出してきた。
驚いて立ち止まった少年を両腕で抱えた男は、すぐさま車内に乗り込み、ドアが完全に閉まる前に車は急発進した。
わずか数秒ほどの出来事。
ミニバンはエンジン音を残して街路を走り去っていく。
状況が理解できず、呆然と立ちすくんだみくには、ミニバンが去った道路の先を見つめていたが――。
どくんっ。
胸の鼓動が不穏に高鳴り、視界が赤く明滅した。
パトカーのサイレンを目に当てられたみたいで、非常事態感に襲われる。
「これって……もしかして」
スーパーガールになることを選択したみくにが現世に戻される際、死の世界前案内所の行員が告げたことを思い出した。
「助けを
内容は難しすぎて半分も理解できなかったが、今、みくにに生じている異変がそれなのかもしれない。
つまり悪者を倒し、救わなければならないひとが近くにいるということ。
「あの男の子のことだ!」
スーパーガールの思考力の賜物か、みくには状況を理解した。
黒いミニバンに乗った悪者が、少年を誘拐したのだと。
その少年を救出するのが、今の自分の使命だと。
「でもどうしたら……」
走力が増したとはいえ、すでに視界から消えた車に追いつけるとは思えない。
スーパーガールって飛べたりしないかな。
ためしに「えいっ」と、その場で跳ねてみた。
ぴょ~ん。
五歳児とは思えない跳躍力はあれど、飛べはしなかった。
「どうしよう……」
みくにがなにもできないでいるこの瞬間にも、少年は怖い思いをしているだろうし、その命が危険に晒されているかもしれない。
「あたしと彼との恋はまだはじまったばかりなのに!」
焦燥感の中、頭に浮かぶのは少年の姿。
彼に会いたい。彼の声を聞きたい。
そう強く願ったときだ。
音の奔流が鼓膜に押し寄せてきた。
それは人々の声であったり、数多の足音や車の走行音であったり、鳥の羽音や川のせせらぎだったりもした。
街中のありとあらゆる音に包まれ、頭が爆発するのではないかと震えあがった瞬間――。
「……――王崎商事社長の息子に間違いないっすよねえ」
チューニングが合わさるみたいに、その声が明瞭に聞こえだし、反対に他の音は遠ざかっていった。
「ああ、社長の王崎
その発言にみくにはハッとした。
これって誘拐犯の声だ!
スーパーガールの聴力が悪者の声を探し当てたに違いない。
みくにはさらに耳を澄ますように集中した。
「剛造はいくら払うだろうなあ、かわいい息子の命に」
下卑た笑いの向こうに、かすかにうめき声が聞こえた。
少年のものかもしれない。きつく縛られて痛いのかもしれないし、怪我をしている可能性だってある。
「早く助けなきゃ」
拳を握ったみくには聴覚を研ぎ澄ましながら、顔を前方へ、それから右、左、後方へ順に向けた。
男たちの話し声と車のエンジン音が、ひときわ大きく明確に聞こえたのは左を向いたときだった。
なぜか視界がかすかにゆがむ。
あたしが倒さなきゃいけない悪者は、きっとそっちにいるんだ。
悪の気配――その波動が感じられる方向へ。
そこにあたしの運命のカレもいる!
みくには唇を引き結び、つぎの瞬間、矢が放たれるように駆けだした。