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第一章 一九七九年 (一)

 広小路ひろこうじみくには幼稚園入園を拒否した。


 自称詩人の父、昭吾しょうごから、


「みくに、幼稚園に行きたいかい? 行きたくないなら無理していくことはないんだよ」


 と言われ、即答した。


「じゃあ、行かない」


 五歳の娘に判断を委ねた父も、それを笑って許した母、祝子のりこも、少し変わり者だったのかもしれない。


 そしてそんな両親のもとに生まれた自分もまた、他の子たちとは違っていると、みくにはすでに自覚していた。


 ままごと、ぬいぐるみ集め、お絵かき、あやとり、アニメ鑑賞等々。


 近所の子が楽しんでいる遊びに興味が湧いたことがなかったからだ。


 そして今、みくにの意識はまっすぐに、はじめての、そして永遠えいえん(と信じる)に集中していた。


 そう、恋……初恋。


 その恋に忙しいので、幼稚園に行ってる暇なんてないのだ。


 あたしの恋――王崎拓真おうさきたくま……拓真くん。


 出会いは、ひと月前、桜舞う中。


 広小路家から歩いて五分ほどの邸宅は、豪邸と呼ばれる大きさの洋館。


 鮮やかな白壁と尖塔付きのとんがり屋根が印象的だ。


 豪奢な門。細かな意匠が施された門扉。


 その門扉が、みくにの見つめる先でガラガラと開いていった。


 母親と一緒に近くのスーパーに買い物に行った帰りだった。


 洋館のことを両親は“王崎さんの家”と呼び、近隣のひとたちは“お金持ちの家”と呼んでることは知っていた。


 けれどそこの住人を見かけたことはなかった。


 その王崎家の門扉が開いていく。


 こんな豪邸に住む王崎さんとは、いったいどんな人物なのだろう。


 みくにはその姿をひとめ見たくなって、足を止めた。


 手をつないでいる祝子も、乗用車が飛び出してくることでも考えたのか、みくにとともに立ち止まって様子を窺っている。


 そしてつぎの瞬間、王崎家邸内から飛び出してきたのは車――ではなく、ひとりの少年だった。


 自分と同い年くらいの男の子――。


 春風が外壁沿いの桜の木立を揺らし、花びらを散らす。


 淡いピンクが踊る中、門扉を走り抜けた少年はスーツ姿でネクタイまで締めていた。


 そんな大人びた格好の子供を、みくには見たことがなかった。胸がドキッとした。


 少年は立ち止まることなく、街路の桜並木を駆けていく。


 一瞬の出会い。


 しかしみくには、少年が自分の前を走り抜けたとき、たしかに見たのだ。


 少年の涙を。両目にいっぱいにためた涙の粒を。


 それが、走るスピードに振り落され、きらりと光ったことを。


 少年の横顔ははかなげで、美しかった。その涙も美しく、けれど胸が締め付けられた。


 それが“痛ましさ”なのだと、みくにはずっとあとで知る。


 だからそのときのみくには、わけもわからず、ただ自分の胸にはじけた熱い衝動によって、身体からだが勝手に動いていた。


 祝子の手を離すと、みくには少年を追って駆けだしていた。


「みくに!?」


「お母さん、あたしちょっと行ってくる!」


 驚く祝子にそれだけを言って、みくには全力で足を動かした。


 足を前へ前へ踏み込むたびに、胸の鼓動が高まっていく。


 それは運動によるものではなく、想いが膨らんでいくからだ。


 あの少年に会いたい。話したい。涙のわけを知りたい。


 それを慰め、笑顔にしたい。


 そして少年の目に自分を映してもらいたい。


 足を進めるたびに、その想いがどんどん大きく、頭の中に湧いていく。


 温かく激しくみくにの全身を満たしていく感覚は、はじめてのものだった。


「これって……これって恋だ!」


 五歳のみくには思わず声に出していた。五歳で恋に落ちた。


 声に出したとたん、世界と自分がカチッとはまった気がして、内から力がほとばしった。


 一目惚れってやつだ!

 あたしはあの子に恋をしたんだ!


 恋するあたしはなんだか無敵!


 根拠のない自信を胸に街路の角を曲がり、さらに走りだしたときだった。


 視界の端に銀色の軽自動車が飛び込んできた。


 かれる!?


「でも大丈夫! あたしはなんだか無敵! 軽自動車くらいはじき飛ばせ――」


 そんなわけはなく、みくにの身体は弾き飛ばされていた。


 無敵じゃなかった!!


 舞い上がった自分の勘違いに気づくとともに、みくにの意識はあっさりと途絶えた。


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