「セレン、お前は甘いな……」

　右眼を穿ツラヌいたかに見えたその左手は、ガウェインの右拳によって身体ごと地面に叩きつけられる。

　ガウェインの右眼を穿ツラヌく直前、セレンの左手は失速シッソクした。

　ガウェインから完全に視力シリョクを奪ウバってしまう事を、セレンは直前で躊躇チュウチョしたのだ。

　ガウェインが頭上から振り下ろしたカウンターの右拳ミギコブシから身を守る為、セレンはその左手を犠牲ギセイにした。　　

　結果、セレンの左腕は砕ける。

　足元で蹲ウズクマるセレンを、ガウェインは容赦なく前方に蹴り上げた。

　ガウェインの額にはいくつもの太い血管が浮かんでいる。

「立て！　セレン！　お前には怒りが足りない！　もっと本気で！　俺を殺す気で来い！」

　しばらく蹲ウズクマった後、セレンはなんとか立ち上がった。

　だが、左腕はもう使い物にならない。

　初撃の体当たりと反撃の右拳、そして追撃の蹴り、セレンはもう瀕死ヒンシの状態。

（そろそろか……）

　ガウェインはいまだ、本気を出してはいない。

　体当たりも、右拳も、蹴りも、上手くダメージを加減していた。

　全ては、セレンの窮地キュウチを演出エンシュツする為の芝居シバイである。

　ガウェインが戦いを望むのは、あくまでもあのひ戦場で見た悪夢。

　それだけなのだ。

「お前が本気にならないのなら仕方ない！俺も流石にこれは心苦しくて言えなかった事だがな……。ひとつ、お前に教えてやろう」

　ガウェインはゆっくりとした口調クチョウで、セレンが聞き取れるようにハッキリと語る。

　セレンはフラフラになりながらも、何かきっと重要なその言葉に、ピクピクと耳を傾カタムけた。

「最近、例の奴隷商人ドレイショウニンから聞いた話だ。残念だが、アクロを買った貴族様キゾクサマは変態様ヘンタイサマでな、毎晩、アクロを裸に剥ムいて犯オカし、嬲ナブり、痛イタめつけて、泣き喚ワメくアクロを玩具オモチャにして、それをご鑑賞カンショウして楽しんでるって話だ！」

　セレンは血走チバシった眼でガウェインを睨ニラみつけ、両手を握ニギりしめて全身を震フルわせる。

　セレンの呼吸は早く、荒い。

「アクロは顔も、身体も、傷だらけで、元の面影もなく、寒く、暗い檻オリの中で、セレンが助けに来てくれる！　そう……」　

　ガウェインの話の最中に突然トツゼン、セレンが胸を押さえ、前のめりに倒タオれ込んだ。

「……そう信じて、待っているそうだ」

　ガウェインの声が響き渡る。

　突如、セレンは両膝リョウヒザをついたまま上体を起こし、激しく腕を振り回す。

　次いで上体が前後左右に縦横無尽に捻ネジれ、その後、地面に仰向けに倒れ、背面に弓なりに反る。

　暴れ、もがき、苦しみだす。

（そうだ……！　怒れ……！　セレン！）

　此コの世のモノとは思えぬ、何か悍オゾましい重低音ジュウテイオンの唸ウナり声と、腹を、胸を、耳を、突き刺し、内側から引き裂サくような、枯カれた、悲痛ヒツウな絶叫ゼッキョウが混マじる。

「犯オカされ、嬲ナブられる度、セレン！　助けて！　セレン！　セレンッ！　まだお前が助けに来ると信じて、諦めの悪い馬鹿な女だ……！」

　ガウェインが呆れるように言い放った時、セレンの動きが止まり、静寂セイジャクが訪れた……。

　ガウェインは口元に笑エみを浮かべて、起き上がるソレを迎える……。

　その巨大化した肉体はガウェインに並んだ……。

　いや……それ以上か……？

（そうだ……それで良い……）　

　ソレに本人の意思はまだ残っているのだろうか……？

「アクロは死ぬまで変態貴族様クソヤローの性処理玩具ペットだ！！」

　禍マガ々しい黒のオーラを纏マトったソレは、ハッキリと、その光る黄色い眼マナコで、ガウェインに狙ネラいを定サダめた……。

（待ってたぜ！　ずっと……この日を……）

　ガウェインは必殺の一撃イチゲキを構カマえる……。

（やはり、変人学者の仮説どおりだったな。クロノは、死、絶望、怒り。覚醒カクセイする資質シシツを宿ヤドした者が、極限状態キョクゲンジョウタイの中、精神や肉体に強烈キョウレツなダメージを受ける時、その花を咲かせる）

　黒塊コッカイが、地面を吹き飛ばす！

　ガウェインの視界が揺れた直後！　その姿が消えた！

「俺は此処ココだ！　来いっ！　化物クロノオォ！！」

　ガウェインが吼ホえる！　その頭上の霧キリに黒影コクエイが迫セマる！

（其処ソコダ！　貰モラッタ！）

　ガウェインが勝利を確信した瞬間！

　霧を切り裂いて現れたクロノセレンの瞳が！　

　威嚇イカクする咆哮ホウコウが！

　強烈な閃光を放つ！　

　黒毛が剣ツルギのように立ち上がり！　

　全身は蒼アオい雷イカヅチの螺旋ラセンに包まれる！

「おいおい……なんだそれは……」

　顔面に向けて放ったガウェインの全霊ゼンレイの右拳を、蒼アオい稲妻イナヅマを纏マトったセレンの五爪ゴソウが迎ムカえ撃ウつ……！！

　空間を破壊する炸裂音サクレツオンと共に、二人は白い光の中に飲み込まれる……。

　大地が溶け……空気が蒸発ジョウハツした……。

「まいった、俺の負けだ」

　周囲を包んでいた霧キリは、綺麗キレイさっぱり消え去った。

　ガウェインが仰向アオムけになり、数十年ぶりに見上げた空は、あの日とは違い、青く、清々しく、美しくみえた。

「俺は恐れず立ち向かった」

　ガウェインは手をついて、起き上がろうとする。

「おいおい……。凄いな、腕が一本、消えちまった」

　ガウェインの右腕は何処にも見当たらない。

「セレン、ありがとよ、満足だ」

　背を向けて隣に立つセレンは、全身から光が消え、身体が収縮シュウシュクし、そこから蒸気ジョウキが立ち昇り、あたり一帯には焦コげた匂いが充満ジュウマンしていた。

「セレン、戦いの最中に俺が言ったことだが、すまない、全て嘘だ。アクロに暴力は加えられていない、心配するな。アクロの居場所イバショは……」

　ズルズルと鼻をすする音に気づき、ガウェインは顔を向ける。

「なんだ、泣いているのか？　セレン……お前は優しすぎる……」

　セレンは、始めて自分が誰かを傷つけたことをハッキリと自覚し、その大きすぎる力に、己オノレが抱カカエえる闇ヤミに恐怖キョウフした。

「アクロは蟲人国ムシノヒトノクニの貴族の元で暮している。アクロを取り返したければ、最悪、お前はその男とも戦わなければならない」

　セレンは振り返り、ガウェインの傍カタワらに膝ヒザをつく。　　　

「そんな事ではこの先、世界を旅する事なんて出来ないぞ！　ただでさえお前は、何もせずとも敵が寄ってきてしまう宿命シュクメイだ！　強くなれ！　セレン！」

　最後にそう言って、ガウェインは瞳ヒトミを閉じた。

　その夜、街には数十年前の戦時以来の黒雨クロノアメが降る。

　　　　　　第１９／２０話　

　　　　　　瞬間の死闘／雨、逃げ出した後