「おい、ナナシ、今日はもう良いぞ……。ほら、今日の賃金チンギンだ……」

　役人は横柄オウヘイな態度で、セレンに小袋を投げる。

　嫌な態度はあいかわらずだ。

　別に、怒りは湧ワかない。

　喋シャベる言葉も定型文テイケイブンで変わらない。

　随分ズイブン、長い付き合いだが、名前も知らない。

　好きではないが、実は別段ベツダン、そんなに嫌ってもいない。

　そんな存在だ……。

　むしろ、この男には少し愛着アイチャクもあり、感謝もしている……。

　とは言っても、仲良くはないし、何かしてくれたという話ではないが……。

　数年前に母を亡くし、隣人リンジンのナナシを亡くし、セレンは本当に寂サビしかった……。

　普段、誰とも喋シャベることのない生活、声を出すときは決まって、母さんの好きだった歌を口ずさむとき位……。

　長い間そんな状況では、正直、言葉すら忘れてしまいそうになる。

　アクロと出会うまでは、そんな日々だった……。

　そんな中、この男とは仕事上の事務的ジムテキな会話だが、定期的テイキテキに話をした。

　他の者達が自分を避サけ、まるでこの世界に存在しない者のように扱う中、仕事とはいえ、口を聞いてくれた。

　それが決して良い態度では無くとも、無関心ムカンシンではない態度で接してくれた……。

　そんな気がする……。

「ありがとうございました！」

　いつものようにセレンは感謝の言葉を伝えた……。

「おう……」

　役人は小さく呟ツブヤいた……。

（よしっ……！　これでまたアクロも喜ぶぞ！）

　セレンは小さな袋に、黄色い、カビた何かを詰めた……。

　何だかとても上機嫌だ。

　嫌嫌イヤイヤな店主の態度は気にしない。

　今日は町で買い物できる数少ない日だ。

　掟オキテで許されている行動で、ちゃんと危険な汚れ仕事をして、役人の許可も貰っている。

　商人は誰も、セレンとは口を聞かない……。

　指差しだけで成立する、不思議な買い物だ。

　働いた日だけは、町の何処ドコでも買い物が出来る。

　とはいえ、最近はアクロが必要とする物はもう揃ソロえているし、少しでも早く、たくさんお金を貯めたい……。

　大抵タイテイの物がもう自給自足ジキュウジソクで間に合ってる。

　今日は早く帰ろうと思っていたので、ひとつだけ……。

　そう……買ったのは大好物のチーズだ！

　以前はもう少したくさん買っていたが、今は我慢する……。

　これで特別な時……一回分だ。

（それにしても何だろう……？　この雰囲気……）

　今日はなんだかヒソヒソと、内容は分からないが町のあちこちで噂話ウワサバナシをしていた……。

　少し町全体が、浮足立ウキアシダっているような雰囲気だ……。

　普段は見かけない猫人ネコノヒトもいる。

　そろそろ帰ろう……と思った時、門のそばで検問ケンモンを受けて停まっている、見慣ミナれぬ馬車とすれ違う……。

　直後！　セレンは家へと駆けだした！

（あれは……ヒトじゃないのか……？　アクロと同じ姿をしていた……。猫人国ネコノヒトノクニで、ヒト？　今まで、アクロにしか出会ったことが無かったのに……）

　セレンの脳裏ノウリに、最悪な展開が過ヨぎった……。

　鋭スルドい両足の爪が泥土デイドを掻カき揚アげ、その靭シナやかな脚のバネは、黒い影を前へ前へと突き出すように跳ハねる！

　そのスピードは自身の影を引き剥ハがす勢イキオいだ！

　夕日が沈シズむには、まだ時間がある……。

　自宅から、焚き火の煙が上がっているのが見えた。

　自慢の先鋭センエイな二つの三角が動く。

　アクロの悲痛ヒツウな叫サケび声が聞こえた。

　セレンの全身の毛がゾワゾワと逆立ち。

　その尾オは剣ツルギのように鋭スルドく伸びた！

「ねぇ……やめて！　離してよ……痛いっ！　イヤッ、イヤだってば！」

　セレンが疾走シッソウした勢イキオいそのままに、自宅の庭に飛び込むと、一人の屈強クッキョウな男が、アクロの腕を掴ツカんで引っ張っている。

「悪いが泣き喚ワメいても無駄ムダだ、諦アキラめろ、怪我ケガをさせる気はない……」

　その後ろ姿はセレンの一回りは大きく、筋骨隆々《キンコツリュウリュウ》な背中をしていた……。

　落ちついた……とても低い声で話す男だった。

「やめろっ！！　お前！　その手を離せ！！」

　セレンがそう叫ぶと、男がこちらを振り向いた。

　男と顔を見合わせて、セレンは戦慄センリツした……。

（顔の周りに鬣タテガミ！　コイツ……獅子人シシノヒトだ！）

　セレンは全身に力を込めて身構ミガマえた。

【獅子人シシノヒト　猫人国ネコノヒトノクニでは、他国と争いが起きたときに戦う軍人や、罪人ザイニンを取り締まるような役人、そういった力を必要とする職に、獅子人シシノヒトという、猫人の中でも特別、身体能力シンタイノウリョクに秀ヒイでた、屈強クッキョウな者達がいる。だが、より大金を稼カセごうとする者や、そこで問題を起こした者、何らかの理由で職を失った者などは、賞金稼ショウキンカセぎや用心棒ヨウジンボウといった、無法者ムホウモノになる】

（はじめて見た……凄スゴい迫力だ……！）

　セレンは大きくつばを飲み込む……。

「ここは獅子人シシノヒトなんかが来るような場所じゃないだろ！」

　セレンの額ヒタイに冷たい汗が流れる……。

「あんた！　アクロに何してる！？　その手を離せ！　ここから立ち去れ！！」

　セレンは牙キバを剥厶き、強い口調クチョウで威嚇イカクした。

　だが、全身がブルブルと震フルえている……。

「お前……ここに住むナナシか……？」

　男は鋭スルドい目つきで静かに尋タズねる。

「そうだ……。ナナシは今、僕一人だけだ……」

　セレンは決して目を逸ソらさない。

「このクロノヒトの女とどういう関係だ？」

　セレンは少し、答えに迷う。

「ここで……一緒に生活をしている……」

　男は鬣タテガミを指先で下に弄イジりながら質問する。

「ナナシ！　ここから外に出たことはあるか？」

　セレンはアクロの事が心配で視線をずらし、男の手元を確認した、アクロの腕は青黒アオグロく痣アザになっていて、セレンは再び男を睨ニラみつけ答えた。

「たまに仕事で近くの町には行くが、僕はナナシだ……それ以外はここで暮してる」

　男はセレンの答えに納得ナットクした様子で、事情を説明し始める。

「そうか……知らないようなら教えよう……。実はな……西の大陸から来たという奴隷商人達が、東の大陸の国々に、この女の特徴と人相書ニンソウガキを配って回っていてな……。なんでも、奴隷商人から逃げたこの女を捕まえた者に、大金を払うと言っている何処ドコかのお貴族様がいるって話だ……。奴隷商人の元へ連れていけば、その半分が分前ワケマエとして手に入る」

　男は淡々と話してはいるが、その立ち姿には一切イッサイの隙スキがない……。

（なので……お前達には悪いが、この女は連れて行く……。だが、まさかこんな人気ヒトケのない森の奥の、それも……ナナシのスラムで暮らしているとはな……。大陸のどこにいるのかもわからなかった……。逃げ出したって聞いたのも、かなり前の話だったしな……）

　セレンは動く事ができずに固まっている……。

（まさか、身近ミヂカに潜ヒソんでいるとは思ってもいなかったが……。もし猫人国ネコノヒトノクニにいるとしたら、誰も近づこうとしない、こんな場所にでもいたりするのか……？　と思い、何気ナニゲなく足を伸ばしてみたら……。一人で呑気ノンキに食事の準備をしている……。俺は運が良かった……。この二人にはなんの恨ウラみもないが……）

「悪いが、この女は渡せない……」