「『雁』」
「そう。読んだことある?」
「あったかもしれない、程度かな」
私はそう答えた。読んだことはあったのかもしれない。だけど覚えている程ではない。その程度に。
「芥川の『鼻』とか『地獄変』とか、太宰の『メロス』は覚えてるけど」
「私はメロスは覚えてるけど鼻は意図的に忘れようとしたなあ」
叔母さんは軽く眉を寄せた。自嘲気味に笑う。何で、と訊ねた。
「『三四郎』読み通せなかったのと同じ、嫌な感じがして駄目だったんだよな。まあでも森鴎外作品は一応どれもそれは無かったな。高校の時に『舞姫』が教科書に入ってたけど、あれもまあそんなもんか、的に。あれ文語だったでしょ」
あー、と授業中を思い出した。
「なかなか皆音読できなくて苦労してた」
だろ、と彼女はうなづいた。
「で、『最後の一句』だったかな。あれも淡泊だなーと思いつつ読みやすいなあ、でもだから何なんだろう的に読んでたというか」
「ちなみに『雁』はどうだったの?」
「ああそうそう」
また脱線しそうになった。
「そんな風にしか文豪の作品に対して感情を持つことはできないんだって、自分で判ってたからさ、研究発表の方では、形の方を見ることにしたんだ」
かたち、と私は繰り返した。
「うん。一応しがない好き勝手物書きもしていた以上、その構成の方が気になった。でもまあ、一応調べ物のテンプレが先生の方から提示されていたからね、まずそれ」
「って言うと、まず作者経歴とか、その時代背景とか」
「そうそれ」
とりあえず、と彼女は本棚に向かって、よいしょ、とでかい本を出してきた。
「え、これ」
「そう、『日本近代文学大事典』全巻あるよ」
にやりと彼女は笑った。
「……高いじゃん」
「安かったよ。オークションで無茶苦茶。競争相手もなく、一万円くらいでさっくり全巻手に入れた」
「そんなのあり!」
「あり」
即答する。
「だってこのテの大事典って、大学図書館では必需品かもしれないけど、そうでない一般家庭じゃ、無用の長物ってことが多いと思うよ」
「え、でもわざわざ買った人が居たんでしょ? オクに出すってことは」
「その人が居なくなったら?」
あ、と私は口を押さえた。
「まあね、古い雑誌もそうだけど、誰か亡くなった時の家の処分の時に結構出るんだよな。私の持つこいつはどうか判らないけど。凄く状態はよかった。まあこれは図書館のように傷むほど個人じゃあ使わないけど。ともかくどうでもいい人にはどうでもいい場所塞ぎだからね」
「……」
私にはそう思えないだけに複雑な気分だった。
ずっしりと重いそれを叔母さんは私に渡す。人物の「も」が引ける奴だ。
「これでまず調べるのが最初。で、あと初出データや発表時書評なんかも調べる」
「書評」
「これをまとめた本ってのがありましてね。こういう作業自体は凄く評価されるべきだと思うんだけど! どうしても耳に入ってこないんだよね。訳わからんわ。ともかく『森鴎外の雁』の書評を知りたかったら、それで一斉に調べられるシリーズがある訳だ。さすがにそれは書庫ものだったし、書庫内でコピーせんといかん資料だったけど」
「そうなんだ……」
「ちなみに私が研究していた人に関しては、そのシリーズでは書評が殆どなかったな」
「そうなの?」
「前も言ったかもしれないけど、大衆系の書評は殆ど無かったんだよね。少なくとも所謂『芸術小説』と一緒くたにはしないぜ、みたいな。で、私の研究してた人の場合は、初期はある」
「初期は?」
「まだ婦人雑誌とかに書かない頃だね。発表されるのが『新潮』だの『文藝春秋』だったりすれば、書評がまた文芸誌に出てくる。だけど『主婦之友』や『婦人倶楽部』に連載された作品は、どれだけ人気があろうと、まともに扱われない。でもまあ、それは仕方ない」
「何で?」
「書評自体が、一種の宣伝になってたから」
「宣伝」
「通俗小説って言ってる奴は、大概その婦人雑誌だの少年少女雑誌、大衆雑誌の『キング』や『講談倶楽部』っていったものに載ってて、別にわざわざ書評で宣伝しなくとも、面白ければ皆読むもの。血湧き肉躍るちゃんばらとか冒険とか時には科学読み物とかも、尋常小学校出てる人、出てなくともひらがなが読めれば大丈夫なように、総ルビだった」
「あー…… それって今ジャンプが総ルビなのと一緒かな」
「まあそうだね。私も総ルビなコミックで速読覚えた人間だから、こいつの効用は計り知れないと思う。何せ大日本雄弁会講談社は、『面白くてためになる』雑誌作りを心がけてたからね」
「大日本…… え?」
「元々講談社は『雄弁』って雑誌を出してたんだよ。で、大日本雄弁会。その後にどんどん読者のタイプ別の雑誌を出した訳だ。たとえば、幼年倶楽部を小さい頃読んでた少年が、その後少年倶楽部を読んで、その後に講談倶楽部かキングを読む、もしくは少女倶楽部を読んでた少女が、婦人倶楽部へ走る、と」
「小学館の学習雑誌みたい」
「あ、それも戦前からあったよ」
「え」
「『セウガク一年生』みたいな。国民学校になった時にはそれ相応にまたタイトルも変わったけど。ともかくまあ、大正から昭和初期になるとそうごちゃごちゃしてくるね。で、『雁』だけど」
話が戻った。
「これが掲載されていたのが『スバル』。与謝野晶子とかで有名だね。で、鴎外はまあ実にコンスタントに作品を発表していた訳だ」
彼女は当時のレジュメを持ち出してきた。
「とにかく私は一個自分に命題を作ったんだな。六の宮の姫君的に。で、“森鷗外『雁』はその執筆時期に大きな中断時期が存在する。その長すぎる中断の理由と、最終的に未完にはしなかったその理由を考察してみたい。”ってやってみた」
「中断」
「そう。完成までに二回大きな中断をしてる。こういうのは表にした方がわかりやすいかな、ってまあ色々作ったこと作ったこと」
実にうきうきと彼女は語る。
「いや、当時の学生達って――― って言うか、まあ学生ってそういうものなのかもしれないけど、書き方が単調なんだね。レジュメの。プレゼンの方法を知らない」
「叔母さんは?」
「まあ私だってさして知ってる訳じゃないけど、このテの命題だったら、図表を入れた方が見やすいってことは、企業で打ち込みやってた時に覚えたしね。それにやっぱりインパクトがある」
ふふふ、と今度は本当に楽しそうに。
「今まで一番大きな発表やったのは、東京でかな。研究してた作家についての、まあ本当に、学会にもの申す、的な気分があったんだね。まあそれは間違っていると今でも思っていないし、そういう人が出てこないのが今でももどかしい。出ているのかもしれないけど、まあ今ちょっと興味が薄らいでるからなあ」
飽きやすいし、とぽつんと付け加えた。
「でもとにかく、図表がどん、とあるというのは大きい。だって図表にするには、客観的に見なくちゃいけないだろ。逆に言えば、図表化することで、何か見えてくるものがある。『雁』の場合は、ともかく発表時期をずらりと並べてたら、『あれ?』と思ったから、この疑問が出た訳だ」
「空白時期」
「そう。まあ、と言っても結局は当人ではないから、本当の理由は判らない。あくまで『こうだったかもしれない。だってこういう記述が当時ありましたしね』でしかないけど。ただ、その疑問を持った論文が無かったんでね。面白いと思ったんだ」
「先行論文が無かったの?」
「うん。少なくとも学校にある程度とネットの論文検索では見つからなかった。だからまあ何書いてもいいやー、とね」
いい度胸だと思う。
「だって皆が書いてることを更に付け加えるのは面白くないんだよな。やっぱり最初に土に鍬入れたいんだと思う訳さ」
「それって、堤千代とか吉屋信子でも同じでしょ」
「あはは」
誤魔化すな、と私は肩を押した。痛い痛い、と彼女は笑った。
「だって同じところでぐるぐる回ってるばかりの様な論文ばかりでさ、まあ結構うんざりしていたんだよな。だから違う視点から見た何かが欲しいな、とか、内容を深く突き詰めるよりガワで見たらどうかな、とか、作り手としては思ってしまう訳だ」
「作り手ってそういうもの?」
「どういう気持ちで作ったんだろう、とか、どういう構成で狙ったんだろう、ってのはよく思うよ。……ドラマでも思うから、あんまりストレートに楽しめないけど」
それは数年前の朝ドラのことだろうか……