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第14話 梅の木登り、高所恐怖症、戦中の「主婦之友」

 これも駄目あれも駄目、と毎日の様にに叔母さんは梅を取りつつ、枝をばきばきと折っていった。

 やがて地上から手が届く範囲を取り尽くすと、彼女は木に登っていった。


「大丈夫?」

「さて」


 そう言いつつ、脚が片側壊れたでかくて重い脚立を梯子代わりにし、太い枝の間に足を入れていった。


「くー…… さすがにくるなあ」


 最初に登った日。

 枝をあちこち折りつつ、時には引き寄せて実を落とす。

 そんな作業をした日の夜には、筋肉痛だ、と顔を引きつらせていた。

 もっともそれも割とすぐに慣れたらしい。彼女はどんどん上に登るこつを掴んでいった。

 私はその様子を下で眺めつつ、落としていく梅を拾っていた。


「怖くない?」

「うーん…… 怖いと思っていたんだけどな」


 それには彼女も不思議そうだった。


「高所恐怖症もあったはずなんだけどなあ…… あ、いや今でも南禅寺の門とか登ったら怖いはずだよ。まあたぶん」


 彼女は言葉を切った。


「後ろから押されるかもしれない、って不安が無いからだと思うけど」


 それは嫌な感覚だ。


 小さな頃から、無闇に高いところが怖くて、幼稚園や小学校の遊具でも人並みに上れなかったのだという。


「特に小学校の場合、皆できるものとして結構その遊具で遊ぶんだよな。太鼓橋とか、ジャングルジムとかうんていとか」


 その時何が一番怖かったというと、「落ちたら痛い」「落ちるかもしれない」だという。


「あと、この木登りの場合、全身使って力掛けられるだろ?」


 そのおかげで腕が擦り傷だらけなのだが。


「それと木がみしみし言うのを読みとって、ああこっちはあかん、こっちは大丈夫、とかある程度判断できる。けどなあ」


 たとえばジャングルジム。大柄な子供にとっては、それらをくぐり抜けること自体が、他の子に比べて素早くはできなかったのだという。


「で、こんな滑り止め手袋な訳じゃないし。今でもそうだけど、私手汗凄いし。そうすると鉄でできた遊具って、滑るんだよな。しっかりつ掴めない。ある程度塗装もはげて錆びた奴でも、やっぱり掴みづらいことには変わらないし」


 そう言って手のひらを見せてくれる。確かにじっとりと汗をかいていた。


「あと、遊具って順番があるだろ。あれも駄目になった理由かな」

「何で?」

「いや、今思えば、木登りと一緒で、できるまで一人で何度も練習できれば良かったんだけどな、子供の頃ってそうじゃないだろ?」


 どうだったろう。


「そこの小学校、昔は鉄の棒二本だけの滑り台…… ならぬ滑り棒があってな」

「何それ怖い」

「そう怖かった。んだけど、大概の子はつーっとあっさり滑ってくれること。それでもまあ、低い方は何とかできる様にになったんだ。だけど長くて高い方は、結局できなかったなあ」

「一人で練習したりはしなかったの?」

「まあ単純に高かったんだよ。で、その高さから下が丸見えだし…… そもそもそこに行き着くまでの通路自体がまず怖かった。正直、よく皆平気でやってたと思うよ」

「今は無いの?」

「うん。何か今はセキュリティの関係で入りにくくなってしまったんだけど、たまたま開いてた時に見たら、棒滑り台は無くなってた。落ちた子でもいたのかな」

「そんな」

「いや、昔だって居たよ。落ちたの。ただその昔は、だからどうだ、ってことだったんだ。別にそれでも大した問題にはならなかった。皆落ちようが何だろうが、平気でまた遊んでたからな」

「その繰り返しがいいのじゃないの?」

「落ちてそれでも怖さにつながらなかった、ってことなんだろうね。あと今の様に大事にならなかった。やっぱり昔、親父達が日曜日だかにソフトボールをご町内の体育振興会って奴でやってたんだけど、その時打球が私の胸のど真ん中に当たって倒れたことがあったな」

「え、それ大変」

「うん。一応医者に連れてかれた。だからって別に体育振興会がどうの、とか皆が非難されたりとか無かったな。そういう大らかな時代だった訳だ。子供は適当に遊んで、雑草の中で適当に虫に刺されて、日に焼けて、すっ転んで膝すりむいて、それで痛みとかかゆさとか覚えたんだよな」


 叔母さんは懐かしそうな目になる。


「私のその中の痛みが怖さに何かすり替わってたのか、それとも、いつも誰かから突き飛ばされるような気がしてたのか、その辺りは判らないんだけど、ともかく怖かったはずなんだからな」


 だけど、と彼女は続けた。


「木はこれは私が判断して登ったり折ったり切ったりしている訳だからな。揺れや、きしむ感覚で、危険かそうでないか予測がつきやすい。だから怖さは薄れてるんだろうな」


 それでも理由は全てではないと思うけどな、と彼女は結んだ。



 夕方は梅の木、夜になると、最近の叔母さんは古雑誌の読み込みにいきなりとりかかっていた。

 かと思うと、平行して日本軍のあり方はどうだったか、だのロシアのパルチザン教本だの、何だかまた増えた本にも目を通している様だった。


「主婦之友?」

「そう。ゼロ年代まで続いた長寿雑誌…… の、私が興味あるのは、戦中戦後なんだけど」

「検閲と関係あり?」

「まあこの時期に関係無い雑誌は無いねえ」


 そう言いつつ、彼女はその期間の雑誌を私の前に置いた。


「大東亜戦争が始まって、それから戦後の昭和22年辺りまでが、私としては興味ある辺り」


 恐ろしいことに、彼女は昭和17年から22年のバックナンバーを殆どそろえていた。

 こういう雑誌のバックナンバーが集めづらいことは、大学でも教官が漏らしたことがある。


「何でこういう雑誌なの?」

「何でって」

「叔母さんの専門って、何とかって作家じゃなかったっけ」

「いや? その作家がとっかかりだけど、興味はその辺りの文化全般。で、文化と言っても広うござんす」


 はあ、と私はうなづいた。


「それでもって、この雑誌はおそらく当時、一番売れてました」

「そうなの?」

「講談社のキングとか、そういうのも売れてたとは思うけど、やっぱり女の読者層が広かったんだよね。ちなみに、この時期の女性系の雑誌大手としては、まずこの主婦之友、講談社の婦人倶楽部、実業之日本社の新女苑、あとは婦人画報とか、ああ忘れちゃいけない、婦人公論。こいつは今でもあるからね。版はでかくなったけど」

「今でも!」

「そんでもって、軽くもなったけど」


 彼女は苦笑した。


「ただこの戦中戦後期を通して、一度も休刊しなかったのは、主婦之友なんだよ。で、これが年ごと」


 彼女は17年、18年…… と年ごとに山にしていく。……どんどん山が低くなっていくのが目に見えてわかる。


「まずこれだけで、用紙がどんどん不足していった、っていうのが判る。昭和17年には1センチ厚だったのが、終戦近くの7月号じゃ、たった32ページだ。しかもこうだ。『戦災で今までの活字が使へぬので、七月号は静岡新聞社の御協力によって新聞活字を用ひた』だよ。実際その一つ前の号と印象がずいぶん違う。活字一つでこの違いだ。というより、この6月7月っていうのは、表紙用の用紙も使えない状態だったってことが判るだろ?」


 コミック用のカバーがここでも生かされている。ビニルに包まれたその冊子は、全体が更紙だった。


「そうでなくとも、この20年になってから、表紙が朱と鈍色の二色刷りになってるんだよな。5月号で52ページ。まあそれが空襲とかひどくなる前の限界だったんだろうね」


 表紙のおもてと裏を見返す。二色刷だという表紙の絵は、クールな顔で工場で働く少女が大半だ。それも見たところ、手にしているのがハンマーやドリル。鉱山らしきところもある。バケツで消火の絵もあるが、正直怖いくらいだ。

 裏は裏で、主婦の防空覚え書き、とある。ただ5月号の防空壕の中で煮炊きをしている少女の笑顔が妙に怖い。

 ただ一色の6月になると、「敵の謀略に騙されるな」7月は「罹災者が工夫した地下壕舎」とばかりに、もう防空覚え書きどころではない。


「私が思うには」


 叔母さんはばらばらと中を繰りつつ言う。


「この一色になった辺りでは、もうそんなことは経験しているから今更、という感じが見えるのね。で、それよりは今すぐに必要な情報を、というのが判る訳よ。何せ7月号では『焦土菜園』だの『戦傷食生活』なんてついてて、書いてあるのが塩は自給しましょう、だし」


 曰く。

 それまでは20年は「空襲下の」が枕詞だったらしい。だけどもう空襲下どころか、この時期はもう焼け野原になってしまった後なんだ、と。


「で、19年12月――― は残念ながら、手に入らなかったんだけど―――から、この斜め上の部分にアメリカ憎し、なスローガンが貼られる訳。1月号では『毒獣アメリカ女』というタイトルの文章もあったりするんだけど」

「……毒獣……」


 すごいネーミングだと思う。


「たぶんこの時期、もう書けることが無くなってしまったと思う訳だ」

「何で?」

「雑誌は戦争が始まってから、基本的に、内務省から戦意喪失する様な記事は書かないように、という決まりがあった訳。まあいわば、戦中の検閲」

「戦中の」

「新聞に天気予報が載せられなかった時代だからね。まあ仕方がない。違反すれば発行停止も免れない。私としては、だから戦意高揚記事は、半分以下の本気、半分以上の方便だったと思ってる。そもそも、わざわざスローガンを書かなくちゃならない、ってことは、スローガンが必要だった、ってことじゃないかと思う訳だ」

「必要?」


 また別の本を彼女は持ち出す。日本軍と日本兵、と書いてある。


「この本にもまた別の本からの引用として書いてあるけど、対米戦において、鬼畜米英、とか言われ出したのは、ガダルカナル以降、1944年、昭和19年からとある訳だ。後の首相の田中角栄さんはディアナ・ダービンのブロマイドを持っていて、上官に殴られたらしいね。アメリカ文化には染まっていた人々が、まだ戦場に実際に行く年代には居た訳だ。それは主婦にしたところでそう変わる訳じゃない、と私は思うね。何だかんだ言っても、パンは食べられてたし、ソースもあったし、ケチャップはケチャップだった訳だし。わざわざ憎むタネを作らないと、島国に居た場合、現実感はなかったんじゃないかと思う」

「そんなもの?」

「推測だよ。所詮私は平成に生きてる訳だし、親父は機銃掃射は見たことあっても空襲を受けたことはないらしいし。そもそもその空襲自体が、震災とどれだけ違うか、ってことなんだよな。感覚として。―――無論、比べてどうよ、つて問題だと思うけど、空襲ってのは敵の顔が判らない訳だ。そうすると災害とどう違う? と私は考えざるを得ない」


 ううむ。

 それを言われると難しい。

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