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第10話 叔母さんの黒歴史に行くまでの80年代「おたく」という二人称のはなし

「私がやっていたのは日本の近現代文学なんだけど、その中でも資料の洗い出しみたいなことだったんだ」

「検閲関係とか?」

「見つけたな」


 叔母さんはにやりと笑った。


「何処まで判った?」

「……私はそんなに近現代史に詳しい訳じゃないけど、一応史学科だから、ある程度知識あると思ってたんだけど――― 戦前の検閲は知ってたけど、戦後の検閲は知らなかった――― ので、びっくりした、かな」


 そうだね、と彼女は微妙にご機嫌そうな表情になった。


「そもそも私が研究しようと思った作家ってのは、大学の卒業論文でできなかった人なんだ」

「え」


 その話は父親からも聞いていない。


「私が行ってたのは教育系の大学だったからね。まあきちんと規定枚数書けば卒業させてくれる雰囲気はあったな。それ以前の、六週間教育実習の方がきつかった」


 げ、と私は顔をしかめた。叔母さんも嫌そうな顔をしていた。


「子供は苦手だ。さすがにすり減ったねえ」

「それで何で教育」

「そりゃ、偏差値さ。私は何ったって、五教科九科目の『共通一次試験』時代世代なんだ。国公立で、国語ができる学科で、ついでに言えばその大学だと、教育学部じゃないと余裕で受かるのは無理だったってこと」

「余裕じゃないといけなかったの?」

「自慢じゃないが、ウチは貧乏だった。私立になぞ行くなんて発想がそもそも無かったね。奨学金も予約の無利子一種だったし、授業料も半額免除で、ついでに格安自治寮に暮らしてた。だから仕送りも、二ヶ月で七万ってとこだったかな」

「それだけ?」

「バイトはしてたな。夏休みのあとにはたいがい。それで東京にオタクなイベントに行ったり、春休みに青春18きっぷでローカル線根性の旅とかやってたなあ」


 しみじみとした声になる。実に楽しそうに。


「いやもう。思い出ってのは美しいからねえ。目を塞ぎたくなる様な記憶だってあるさ。私は高校まではクソ真面目一辺倒だったからね。大学でちょっとだけ羽目を外して、就職して失敗して、また失敗して、それでようやく第二の青春って奴を謳歌して、今は落ち着いた、ってとこか」

「……えーと、私は何処から突っ込めばいいの?」


 顔がひきつる。

 叔母さんはあっさり言ってくれるが、それは今の私の時代の話だ。就職して失敗して、が二回出てきた様な気がしたが。


「何処からでも。何だったら、大学時代の黒歴史でもいいよ。大学時代は美しいばかりじゃないからね」

「黒歴史…… って恥ずかしくないもの?」

「うーん…… さすがにもう、時間が経ちすぎたというか。黒歴史の中心人物には絶対に遭うことは無いだろうし。遭ったとしてももう誰か判らないだろうし、そもそもそんなこと覚えてるのはこっちだけだろうっていうか」


 歯切れが悪い。


「今になって反省しきり、ってとこなんだよ。今にもつながる自分のイタさが、当時はこんなにひどかったなあ、と思うしかなくて。あ、それとも転職歴の話の方がいいか?」

「まあそれも興味はあるけど……」

「自慢に全然ならないが、通常の履歴書では職歴が書ききれない」

「何でまた!」

「派遣ばかりだったからな。そうすると、派遣もとの都合とこっちの地理的条件が噛み合わないことが多くてともかく一端切ることが多くて…… あ、こっちに興味あるか?」

「いや、ここは大学の黒歴史を聞きたいです」



 食器を片づけ、拭いたテーブルに食後の茶を置くと、話の続きが始まった。


「学生時代の黒歴史は大きく分けて二つあってな。一つはまあ、減量関係。ダイエットだな」

「ダイエットしてたの?」

「してた。っていうか、夢中になってしまってなあ……」


 何となく危険な気がした。ので、矛先を変えてみた。


「もう一つは?」

「こっちもまた、思いこみ激しすぎてなあ」


 叔母さんは目を伏せた。


「そうだな、これはダイエットより質が悪い。こっちの一方的な感情で人を巻き込んでしまった」


 と言うのも。


「私はその頃、他愛ない文章書きもしていた。まあ今も全く書かない訳じゃないけど。腐女子は聞いたことがあるか?」

「一応。クラスにはだいたいそれなりにそういう子、いたから」

「今はもう、文化の一つになってしまってるからなあ。ジャパン何とやら。だけど私の時は、本当にオタクってのは相手のことを『おたく』って呼んでいたんだよな」

「『おたく』って呼んで?」


 よく意味が判らなかった。


「たとえば」


 本の部屋へ行くと、数冊のコバルト文庫と、パステルカラーのソフトカバー単行本を持ってくる。


「これは高校の時にはまった作家。何か引っかかる文体だったんで、処分しては、また買い直すってことをしてたな」

「無駄……」

「田中芳樹の『銀河英雄伝説』は大学の時にリアルタイムで買ったあと、二度売って、また二度買い直したよ」

「まじですか」

「マジです。大学の時かな。全十巻中、八巻が最新刊だった頃で、九と十の展開に若い私としては実にはらはらしたもんだ」

「でも売ったの?」

「何となく、オタクであるのが嫌になった時期もあったんだよ。だけど駄目だ。無駄無駄。あれはもう、どうしようもない性としか言い様が無い」

「大げさな」

「まあそのくらい、自分の中で外せない属性なんだよ」


 ぱら、とコバルト文庫の方を眺める。


「大和…… しんや?」

「まや。この作者、どうも執筆当時、隣の県の一番いい大学に通ってたふしが、今となっては透けて見えるんだよな。あくまで今となっては、だけど。そこの理系なのか、SF研究会のノリなのか判らないけど、その内部だけが世界、って感じが凄く見えて今としては実に痛々しい。あ、無論今となっては、だけどな。当時はやっぱり年が近いから、何となく違和感はあるけど、面白い話だったんだ」


 コバルト文庫の方と、単行本の方の二つがその作者の大きなシリーズだという。


「残念ながらどっちも未完。特にこっちは三冊出したところで、出版社が駄目になった。何か起こりそうだっただけに、今でも当時を懐かしむ元読者は読みたがってる」

「そういう場合、続きを書くというのはあるのかな」

「私だったら無理だねえ」


 何で、と問いかけた。


「若い時に熱意でぱーっと書き上げた話ってのは、あとになって絶対同じテンポやら熱さじゃ書けないんだよ。まあこの作者の場合、あとがきで当初はBGMが杉真理のスターゲイザーだったが、いつの間にかいつの間にかスターダストレビューになってしまった、という類のことを書いてる」


 どっちのアーティストも私は知らない。さすがにそこは。


「つまりは作品全体にかかるイメージのようなものが、当初のものから、書いてるうちに変わってきてしまったってことだと思う。話の途中でこうなんだから、それから何十年も経って、続きを書くことはまず無理」

「そこは腕ってものが」

「若い時の文章ってのは、後で読むと無茶苦茶赤面ものだったりするんだよ。その時精一杯なら精一杯すぎるだけ、自分の若さとかが突き刺さってくるっていうか」


 そういうものだろうか。


「まああんたはまだ若いから。今は書けるものを書けばいいだけだ。ってまあ、あんたは別に小説書きじゃないからな」


 全くだ。クラスに必ず何人か居た腐女子の類も、私はあまり接触がなかった。彼女達は何かしら彼女達特有の言葉だの、共有する世界を持っていて、私がそこに入り込むには相当な勉強が必要な気がしたくらいだ。

 私は学校のクラスでは、あたりさわりの無いことを口にしたり、スマホで伝えたり、その程度だ。

 だから、という訳ではないが、今ここにこうやって来ていることを知っている友人も――― 考えてみれば、居ない。

 大学の同じゼミだった子は、もう皆就職だ。今はきっと研修時期だろう。ゼミ知り合い程度が連絡したら邪魔になる。絶対。


「話が飛んだな。ともかくその本で、登場人物達が、二人称に何使ってるか、見てみな」


 文庫の方をぱらぱらと見る。


「あ」


 そういうことか。


「皆、誰かが誰かに呼びかける時に、『おたく』を使ってたんだな。八十年代半ばの、アニメやマンガや小説や特撮に格別打ち込んでた連中が好んで使った二人称。私も使ったよ」

「叔母さんも?」

「何か、そう使うものだ、って気分だったんだね。だけどそのうち、こういう言い方をする連中、という囲いができてしまって、それがまたそういう趣味の連中一般を示す呼び名になってしまった。と、私は思う。ただそこで、マイナスなイメージがついたのは、―――仕方ないな」


 苦笑した。


「何たって、まあ今の私を見りゃ判ると思うが、年相応な洒落っ気というのが、特に当時は無かった。まあ、そっちに使う気持ちと頭と予算が無かったんだと思う」

「……今もそうじゃないの?」

「残念ながら否定できない」


 ははは、と私達は笑いあった。


「それが格好いいと思っていたのか、それで特別な気分になってたのか、その辺りは判らないな。だけど、中学辺りまでで周囲に違和感があった部分が、とりあえずこっちのカテゴリに入るんじゃないかな、っていう安心感?」

「安心感」

「残念ながら私の中学には、吹奏楽以外に文化部が無くてな。美術も文芸も無かった。辛かったなあ」

「高校ではあったの?」

「まあさすがに高校だからな。中学が運動部が基本なのは、前に中学講師の友達から聞いたんだが、目一杯疲れさせて、家で勉強までさせたらそれ以上のことはできないようにするためらしい」

「―――やだなあ」

「私も嫌だった。そもそも私は基本、引きこもり体質なんだ」

「嘘」

「嘘じゃない。でなくてこんなに本が増えるか?」


 そう言われたら何も言えない。


「まあたまたま私は速読できたからな、何処へでも持っていってある程度読めたから、外には出られたが。ああまた話が飛んだ」


 本当にそうだ。あっちに行ったりこっちに行ったり。だが妙に、私の中では引っかかるものはあった。

 既視感。

 叔母さんの話すことには、何処か私にとっての既視感があるのだ。

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