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第8話 明日はどっちだ、と大学院行って何研究したんだ

「あれはまだ工場つとめの時だったなあ。日曜日だから休みで。朝寝してたら突然父親から起こされたんだ」


 淡々と彼女は語り出した。


「事故を起こしたからすぐに来てくれ、っていうことだって聞いてね。ともかくうちの父親がひどくおぼつかないって言うか、何かまずいな、と思って保険証はどうの財布はどうの、ってともかく一応持ってったんだ。ところが病院に着いてみたら」


 叔母は黙って両手を広げた。


「母親は救急でベッドの上。ものすごく、医者の説明が要領を得ない。結論を先延ばし先延ばししてる様にに感じられた。父親はただ聞いてるだけ。結局? と促したら、私達が来る前にもう心臓は止まっていた。その場で動いている様に見えたけど、刺激を与えているから動いている様に見えるだけで、もう、ということだった」


 私は黙って聞いているしかなかった。


「まあ、後は何というか、父親がまるで役に立たなかったから、あんたの親父さんを呼んだり、親戚に電話したり、遺体を引き取ったり、通夜や葬式の準備をしたりは私がともかくするしかなかった。母親に甘やかされて、親戚関係のその類のことから逃げまくっていたのにね。いきなり、だ。黒い喪服がなかったんで、かろうじて当時持ってた紺のスーツで客迎えたよ」

「うちの父親はその時も、あっちに居たんだよね」

「まあね。で、その時最初の奥さんと、子供二人と十何年ぶりに再会したっていうから何だけど」


 呆れた。

 だけど父親の子供。

 私の義理のきょうだいということだろうが、居るらしい、ということ以外、話題に出たことはない。


「叔母さんも?」

「うん。最初の離婚する前に私は仕事にかこつけて逃げて、隣の県に居たからな。……よくまああんなマトモに育ったよなあ、とあんたの親父と感心しまくったものだ」


 自分や兄の血筋ではありえない堅実な職についていたのだという。


「でまあ、それはそれとして、私はしばらく後で、自分がかなり人でなしな奴だよな、と思ったね」

「人でなし?」


 それはまたひどく物騒な。


「母親が亡くなったっていうのに、まず思ったのは『何で?』で、見えない何かに向かっての怒りが一番だった。ガキか、と今なら思うけど」


 叔母は少し考えると、私に向かい問いかけた。


「あんた悲しいって感情、自分で判る?」

「……たぶん」


 うん。判ると思う。悲しい、ということは昔から結構あったと思う。


「私はたぶん、それが判らない」

「そんな」

「残念ながら。たぶんその時の怒りは、こういう意味なんだ。『予定が狂ったどうしてくれる』」

「予定?」

「何か判らないけど、予定。まあたぶん、母親がこんなに早く居なくなるなんて、考えたことがなかったからだと思う。でもこの時のことで、いろんなことが頭の中でぶち壊れたね」

「いろんなこと」


 そう、と叔母はうなづいた。


「これと震災。この二つで、明日何があるか判らないってなっちまったんだよなそれでまあ、ずっと『いつか』行きたいと思ってた大学院にも行った訳だ。いつかいつかなんて言ってるうちに、私が事故に遭って死ぬかもしれない。この地域は昔から地震が来る来るって言われてる。世界情勢は物騒。何があるか判らない――― うちの父親が倒れた時は冷静すぎて、不謹慎だって手術してくれた先生から怒られたがな」

「その時は」

「うん。うちの父親の方は、まあ年齢と生活習慣病から来る腎臓と心臓の故障だったからね。手術して、治療期間とって、療養入院から、今は有料老人ホームで元気にしてるよ」

「お元気…… なの?」

「あれ? 言わなかったっけ」


 私はうめいた。

 彼女の今までの言い方では、私の義理の祖父は既に亡くなっていたかの様だったじゃないか。

 まあ確かに、そんな話聞いたことは無いし、うちの父親は母親を連れて新年にはこちら方面に来ていた様だけど。

 でもそれは会社の上司が居るから年始回り、とか言っていて。ついでに叔母さんのところへ行くんだろう、と私はずっと思いこんでいた。

 そのことを聞くと。


「ここの中に奴は入らないよ。で、湖のちょうど向かい側にあるホームへ顔出しに。私が正月は忙しくて親父に顔出しできないからちょうどいいんだ」

「え、正月」

「稼ぎ時だろ。ホテルなんだから。金一封も出るしな。まあこういう時、家庭無しは使えるっていうか」


 ははは、と叔母さんは笑った。


「まあだから、いろいろさ、今楽しく過ごして、明日死んでもいいように生きなくちゃなあ、と思った訳だ。それで大学院だ。震災の年に資料取り寄せて、翌年春に受けて、受かったら二年、運が良ければその後三年、と思ったんだけど」


 私は指を折って数える。


「修士に二年、博士に三年?」

「うん。で、博士課程は受けたけど、落ちた。で、もうそれ以上は辞めた」

「勿体ない……」


 それは本音だ。


「そこはさっきあんたに言った通り。落ちた時はさすがにショックだったけど、後々考えてみたら、そこまで通っても私のしたいことはできないし、その大学院の教授にとっても私の様な院生は必要じゃない」

「でも、せっかく修士まで行ったのに」

「まあ酸っぱいブドウと言ってしまえばそれまでだけど。でもまあ、そもそも」


 彼女は苦笑いすると、頬を掻いた。


「何というか――― 私がやりたかったことは、修士でできちゃったんだよ」

「……できちゃった?」

「ほれ」


 本棚が多い部屋を指す。


「興味があれば好きに見な。二年間で集めた資料の本だの雑誌だの、投稿した論文が載った奴があるから」

「え、ちょっと待って、投稿論文が載ったって」


 修士論文ではなく?


「うん、書いたから、出して、載った。そんだけ」

「いやそれって、無理でしょ」

「……誰がそんなこと言った?」

「うちの先生は、修士じゃ投稿論文は無理だ、って言ってたよ。博士課程で皆書くって……」

「誰がそんなこと決めたよ。書く題材とまとめる力があれば誰でも書ける。載るかどうかは別だけど、まあ私は運が良かったってことだけどね」



 翌日、叔母さんが朝八時半に出かけた後、私は本棚を漁ることにしてみた。

 本棚の部屋。確かにそれとしか言いようが無い。入り口の向かい一面に作りつけの本棚がある。叔母さん曰く、これは「親父の趣味」だそうだ。叔母さんもうちの父親も、そんな環境で育ったということだ。さりげなく藤子不二雄の『毛沢東伝』とかあるのが確かにその跡っぽい。

 その他、彼女が自分で作ったという本棚が他の壁面にある。根性で壁止めをした、ということだ。


「でもまあ、崩れてきてもケガはしないよ」


 何で、と聞いたら。


「台所の奴が倒れてきたことがあるから」


 そうあっさり言った。

 台所にも同じサイズの本棚が置かれている。何でも木材と釘と電気ノコギリと電気ドリルを一気に買って作ったらしい。

 そのだれにも本が一杯で、……横積みになっているから、何が何だか判らない。彼女には判るのだろうが。まあそれだけ本が溢れかえっているということなんだろうが。

 しかし。

 確かにもの凄く古そうな雑誌が多い。

 とある一区画を見ると、ずらりと系統が同じものがあったりする。頭に紙が出まくっていて、ひどく太った本ばかりだ。

 とりあえず論文が載っているものを探そう、と思った。


「えーと……」


 聞いた学術誌の名は、およそ近現代文学とはほど遠い。むしろ政治とか、そっちの方面だ。


「けど文化だよ」


 そう彼女は言っていた。―――あった。一号から揃っていて…… 何号か言っていかなかった。全部見ろということか。全く。

 大学の図書館で私が見た文学系の学術誌とは雰囲気がだいぶ違った。まず横書きだし、そもそも文学が中心じゃない。政治っぽいと思ったのは当然で、むしろ昭和の歴史と政治と文化、という感じだった。

 ぱらぱらと幾つかを見ていくと、あちこちのページにドッグイヤーがされていた。線も引きまくってある。そういうところに彼女は容赦が無い。

 ここのところ寝る前に借りて読んでいる文庫や新書も結構線やら囲みやらで凄いことになっていた。

 それだけ読み込んでいるということだろうが、本にそういうことをするのにはまだ躊躇がある。

 その中でも特別線が引かれている部分には書き込みもされていた。


「……検閲?」


 これまた物騒な言葉が浮かび上がってきた。

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