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第4話 やってきた顛末とビニル袋のパン生地

 卒業も就職も一度に駄目になった。

 私は一月中、ずっと家に引きこもっていた。担当教官から電話があった。出たくなかった。出なかった。母か兄が代わって出てくれた。

 二人の心配は見ていられなかった。見たくなかった。だから部屋の中に閉じこもった。

 二人とも聞いてきた。何でそんなことをしたの。訳がわからない。もう一度書き直せば。

 そんなこと言われても。

 正直私自身、何でそんなことをしたのか、さっぱり判らなかった。今までの人生の中でも初めてだった。


「羽目を外したことは無い?」


 父親は戸口で聞いてきた。無い、と私は答えた。本当に無かった。羽目を外す暇なんてなかった。外し方も知らなかった。

 そっか、と父親は言った。


「大学は辞めたいかい?」

「そんなこと」

「じゃあ休学しようか」

「そんな、勿体ない」

「でも卒業できなかった。そして今卒論を書き直す気も無い。だったら書く気になるまで、行っても仕方がないよな」

「だけど……!」

「行こうという気が無いのに行っても仕方がない」


 すっぱりと言い切ってくれた。


「だから一年、すっぱり休めばいい。ただし条件がある」


 条件。私はそろそろと戸を開けた。


「一つは、休学の前に一応心療内科の診察を受けること」

「病気じゃないよ」

「診断書があると無いじゃ、先生の対応も変わるよ」


 ただの怠惰で休むんじゃない。そういう証拠を持っていた方がいい、と父親はきっぱりと言った。

 おかしなもので、そうあからさまに言ってくれると妙に納得がいった。それは母や兄の感情が先行したものと違った。


「君がそうなってしまったことは仕方ない。だからどうするかを何とかしなくちゃね。で、二つ目」


 それが、少し離れた地方の叔母のところに行って住むことだった。


「けど叔母さんって、私と別に関係はない人じゃない」

「まああいつは物好きだから」


 答えにならない応えをくれた。



 無論母親は父親のその決定に微妙な顔をした。


「嫌か?」

「嫌じゃないですけど、確かあのひと、一人で暮らすのがいいって、さっくりとお父さん有料老人ホームに入ってもらったひとでしょう?」

「まあ俺でもそうするがな」

「そうなのか?」

「俺の場合も、その時にはそうすりゃいい」


 親父さん、と兄は咎める様に言った。父親は茶をすすりながらのんびりと言った。


「性格は皆違うんだけどな、親父もあいつも、そういうところは無性に似ていてな」

「でも普通は、多少でも居て欲しいって思わないかあ? 俺だったら、かーさんにはできるだけ家で老後迎えて欲しいよ」

「うん。だからその時、そうしたければそうすればいい。だけど俺は、俺らが夫婦で独立して暮らせる様に蓄えをしておくさ」

「俺のこと、頼っていいと思うんだけど」

「頼りにはしているよ。だけどそれとこれは別。何がいつ起こるか判らないだろう? あいつも、古い家で体を壊した親父が暮らしていくのはきついとか、いつまでも昼間一人でぼけぼけしているのは良くないとか、考えはしたらしい」


 本音は別だけど、と後で知ったのだけど。


「でも、本当にそうやって一人でやっているカンコさんのところに、うちのが行っていいのかしら。血がつながっている訳じゃないのに」

「気になるなら、食費と下宿代少し入れればいいさ」

「でも」


 食い下がる母親に、父親は珍しく決定事項だ、という意味のことを言った。普段この夫婦は、色々話し合ってきた印象があるんだが、この時は父親が押し通したということだった。



 二月はじめにかかった心療内科では、軽い鬱だ、と言われた。一緒に来た両親は私を外した場所で何か言われたらしいが、その内容は聞かされていない。


「まあ、すぐにどうこうという感じではないから」


と、処方箋一枚出すでもなかった。


「もし不安やら自分で訳がわからない行動が起こったなら、引っ越し先で心療内科を探して行くといい。その時に必要なら、こっちからの手紙も出すから」


 そうですか、と流されるままに、私は他人事のように自分への診断を聞いていた。



 三月になる前に、私は 列車と新幹線、また列車にタクシーを使って、ここまでやってきた。

 叔母さんは私の顔を覚えていなかったらしい。約束の時間にホームに出迎えに…… という予定のはずなのだが、誰もいなかった。

 仕方なく駅の待合室に入ったら、「お前は一体何者だ」と言いたくなる様な、フードつきミリタリーコートとやたら暖かそうな帽子をかぶり、濃いめのでかいサングラスをつけた年齢不詳の女…… らしい人が、黙々と何やら読みふけっていた。

 本ではない。束ねた紙を何やら、だ。凄く怪しかった。

 時間は合っていた。念のため、スマホを掛けてみた。

 低い音が響いた。怪しい人がバッグからガラケーを取り出した。私は苦笑した。確か私は覚えていたはずなのだが。ほっ、と彼女は顔を上げた。サングラスを取ると目を細めてやっと「ああ」と言った。


「久しぶり」

「叔母さん?」

「行こうか」


 ……今思うと、そのやりとりだけでよく付いていったと思う。彼女は私の名を呼びもしなかった。

 タクシーの中で聞いたところによると、半分は「どう呼んだものだか迷ってた」もう半分は「ほとんど忘れてたから確証が無くて」だったという。


「人の名前って本当に覚えにくい」


 叔母さんはそう言った。


「自分の名前だって時々忘れそうになるのに」


 何ですかそれは、と私は思わず問い返した。


「普段呼ばれないからな。パートでは名字だし、それ以外ではネットのハンドルネームがほとんどだし」


 ネットは使うのか、と問いかけると、ヘヴィユーザーだと答えた。


「来年で20年だね」


 それは長い。


「ウィンドウズがだいたい普及して、ネットで夜中だけテレホーダイが使われるようになった頃かなあ」

「夜中だけ? っていうか、意味わかんない」

「昔は常時接続なんて無かったんだよ。それにクリックしても結構な時間つながるまで時間がかかるとか」

「うわあ」


 ありえない、と私は思った。


「あんた等には想像できないだろうなあ」

「そりゃまあ」


 そんな会話で始まってしまったので、何か当初から気合いもへったくれもなくなってしまった。


「それにしても…… 叔母さんミリタリー好きなの?」

「あー。好きって言えば好きだけど。別に集めてる訳じゃないな」


 違うのか。


「だってこのコート、十年以上着てるし、そもそも古着だし」

「えええっ」

「こっちは新しく買ったけどね。滅多に買わないよ。……って言うか」


 あー、と彼女は天井を見上げた。


「軍ものは、丈夫だし、防水がある程度利くし、あとここいらの冬には便利なんだよ」

「冬に?」

「ここいらは冬の強風地帯だからさ。私はいつもは自転車乗りだから、ある程度以上防寒できる服がありがたい……」

「は? 自転車?」


 その時走っていたのは、湖を渡る橋の上だった。道路以外何も無い。ただただ風が吹き荒んでいるところだ。


「叔母さん車乗らないの!」

「乗らないというか、乗れないというか。うん、何年か前まではさっきの駅までバスも出てたんだけどね」


 採算が取れないとかで、廃線になったのだという。


「だから自転車しかないんだよね。あんた乗れる?」

「一応……」


 高校は自転車通学だった。


「そっか。じゃあ買った方がいい。じゃないと生活困るよ」


 それは後でしみじみと感じた。


***


「ああ、終わったん」


 下へ降りて行くと、何やらビニル袋を揉んでいた。


「何それ」

「パンの生地」


 黙って目をすがめた。


「ホームベーカリーとかは……」

「無い。っか、こういう過程が楽しいのに何でやらせんといかんの」


 ほら、と手渡されたビニル袋の中身がふにゃん、と手の中で崩れた。少し温かい。


「しばらく揉んだら、足の間にでも入れて暖めてて」


 足の間、ですか。

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