私は都心の大学に通っていた。
いや、正確に言えば今でも通っている身ではある。
行っていないだけだ。
前の住処と違って新しい場所は、通える学校の選択肢が多かった。
私は得意な国語と社会――― 特に日本史を基本に学科を選んだ。目標が格別ある訳じゃなかった。ただ大学は行ける成績と環境なら行くのが当然だと思っていただけだ。
兄は国立に行けたので、私は私立でもいい、と父親は行った。彼にはそれだけ私に出せるだげの蓄えはあった。母親も同じ会社で働いている。余裕があるのは判っていた。
結果、名が知れた私大の史学系学科に通った。
毎日はそれなりに充実していた。学生の本分とは? と聞かれると何だが、ともかく課題とサークルと友達つきあいと就職活動にはそれなりに気合いを入れていたはずだった。
はず。
そう、そのはずだった。
なのに。
「さて」
ぐるり。回ると西側には大きな柿の木が三本あった。
「一番でかいのと、南側のは甘いの。これだけ渋柿」
「……高い」
「これは本当にしまったと思ったね」
ふう、と叔母はため息をつく。何で、と私は訊ねた。
「梅と違って、柿は落ちたらまず割れる。特によく熟れたものは」
あー、と私もうなづいた。
「以前は夏みかんもあったんだ。五月頃に花がいい香りだったんだけどね」
「今は無いんだね」
「根が腐ってね」
「根が」
「虫が食ったんだ。あのへんにも一本あったんだよ」
顔を向ける。カボチャを植えよう、と言った辺りだ。さっきはその横にレモングラスが植わってる、と言っていた。
「花の香りが好きだったから、実はつけさせなかったんだけど、でかかった夏みかんが無くなったら、虫が一気にやってきて、丸裸」
さすがに夏場に葉が無くなったのは致命的だったということだった。
「夏みかんはいいよ。酸っぱいけど、ジャムにできる」
「マーマレードじゃないの?」
「あいにく私はお子さま味覚でね」
苦いのは嫌なんだ、と彼女は続けた。
「煙草も酒もそれで全く駄目」
「珍しい」
「大人が皆得意だと思わない方がいいよ」
そう言って叔母はへらりと笑った。
ようやく入り口を開ける。がらがらと古い柄の入ったガラス戸だ。そして絶句した。
「散らかってるって、あんたの親父から聞いてなかったか?」
「聞いてはきたけど……」
「片づけられない系の人間なんだ。すまん。片づけたければ片づけてもいいけど、その時には何処に何をどうしたか言ってくれないと困る」
「いや、だって、叔母さん」
「あー……」
微妙に気まずそうに彼女は天井を見上げた。よく見ると、壁と色が違う。壁は何か土系のものでクリーム色だが、天井は昔のベニヤ板のままだ。木の壁には同じ色のペンキ。よく見ると、イントスントセメントの袋が二つ三つ靴箱の横に積まれている。
玄関自体は三畳だか四畳半くらいの大きさがある。だけどその端に何やらでかいテーブル。さらにその上に段ボールの山。
そして何故か枯れ草が。
靴箱に主役であるべき靴は滅多に入っていない。真ん中の段に、普段履きらしい黒いのが一足と、サンダルが二足。……それしか無いんだろうか。
上にはおそらく壁を塗った時の道具。何故かガラスのボウルだ。コテが無造作に置かれ、その横にサングラスが数種類。今もしているけど、洒落っ気でこんなに無造作に置かないよな。
その下には何やら判らない…… 肥料? 薬剤?
「そりゃ挿し木用の成長促進剤」
「何それ」
「あっちにプランタがあるだろ」
外を指す。確かにプランタが。ただしやや潰れかかっているが……
「今はまだ咲いて無いけど、前の道路際にばらがあるんだ。一応イングリッシュローズで、ピンクで、花が重そうで、いい香りがして可愛い」
重そうって。
「ただ伸びすぎるとまた問題があるしな。冬には枝を結構切るんだ。で、それを挿し木にしておく」
「どうなるの?」
「運が良ければ根が出る。さらに運が良ければ花も咲く。ほれ」
今度はプランタの向かいを指した。
「一本だけ何とか残った。挿し木の結果で、去年ちゃんと咲いた」
「そういうこと、できるんだ」
「できるさ。もう一つばらがあるんだがね、そいつはあんたの親父が高校の時に、ブラバンの定期演奏会でもらった花なんだ」
へっ、と私は外へ飛び出した。ばら。とげのある花――― 木。
「こっちがイングリッシュローズ。名前は忘れた」
横に枯れかけた大きな葉。
「それはハマユウ」
「ハマユウ?」
「裏のオオタニワタリと一緒。昔私の親父がもらったもの。でかい白い花が咲いて、ほら、あんな実をつける」
こぶの様な実。
「何で放っておくの?」
「んー」
叔母は首を傾げる。
「まあそのうち枯れた葉は取るよ。じゃないと、新しい葉が出にくい。オオタニワタリは勝手に枯れて落ちてくれるけど、こっちはどうもそうも行かなくてね」
前の庭にも緑はあふれていた。常緑樹。身長より、下手すると屋根よりでかい木が三本。落ち終わりの紅梅も。
これはキョウチクトウ、と大きな木を指して言う。
「毒があるから、多少触る程度はいいけど、樹液は駄目。かぶれる」
「あっちは?」
一番大きな木を指す。大きく腕を広げて、庭の半分に影を落とすことができる。
「キンモクセイ。……まあ普通はここまででかくはしないよ」
「何でまた」
「昔は小さかっんだけどね。私が大学や仕事で隣の県に住んでるうちに、頭を越えてしまってね」
「……そこで止めておけばよかったのに」
「……そこで止めると、とある時期に虫が糸引いて降りてくるんだよ。前、服に何匹もついたり、髪に」
「げげ」
思わず身をすくめた。
「今は大丈夫だよ。あんだけ高ければ連中、浮いててもへばりつく様なこたぁない。それに、この木があると夏が涼しいし、台風が多少やり過ごせる」
「台風」
「私がガキの頃は、雨戸に支えもつけたなあ。でも今はそうでもない。まあ、一軒家よりはご近所にでかい家があるしな。木が大丈夫なら、まず家も大丈夫だろ」
「建てて何年?」
「そうだな。あんたの親父よりいくつか古いね。密閉性に欠ける作りだから、面倒だからエアコンもつけてないし」
「……建て直すとかは」
「その気は無い」
「……どうして?」
「安いんだよ」
くくっ、と叔母は笑った。
「これだけ古いと、税金がもの凄く安いんだ」
ああ、と私は大きくうなづいた。叔母は決して収入が多くない。そう父親から聞いている。
―――あいつはな、ともかく正社員ってのが駄目でな。四大出て、それでもずっと派遣だの工場だので働いてたって言ったな。ちょっと前に大学院に行ったとも言ってたな。二年で修士とってきた。
今は何をしているの、と聞いたら。
―――確かホテルの掃除を…… ああ、今までで一番長く続いてる、って言ってたな。
掃除のオバサン。
その印象は目の前の叔母に結構合っている。今もふっと気がつくと道路脇のローズマリーに触っては幾つか葉を摘んだり、木の芽を選んで取ってもいる。
「タラの芽。おひたしにしよう」
「食べるんだ」
「食えるものは食う。で、あれは絶対に駄目」
枝が刈り込まれ、芽が出そうな木を指す。
「アジサイ」
「アジサイも毒があるの」
「ある」
「……毒だらけじゃないの」
「まあ、植物も身を守りたいしね。実際こいつらが虫に食われたとこを見たことが無い」
へえ、とうなづいた。
「もっとも、アジサイは裏のやつは去年食われて驚いたね。食った虫、大丈夫だったのかって思ったよ」
「そういうこともあるの?」
「周りの木が旨かったらしいからね。アジサイはアジサイでも、木にこんもりと花がつくタイプは食われるんだ」