どうしたんだ、と叔母は言った。
「立ち止まってちゃ入れない。それとも、裏庭でも見るか?」
「裏庭が…… あるの?」
すぐ横にでかい家があるというのに。
ある、と叔母は答えた。こっち、と手招きする。
緑の錆だらけのトタン壁、草がぼうぼうに茂っている細い路地(?)を進むと、やがて視界が開けた。
「裏庭には庭がある」
言ってから、違ったかな、と呟くと叔母は首を傾げた。小さなポリカーボネットの小屋、まだ葉がつきだした木が何本か。足下には無闇にもしゃもしゃとした草が。
「昔から蛇のひげだらけでな。知ってそうなのは…… あっちがカラスノエンドウ。で、ちょっと前にソバとトウモロコシを蒔いた」
「畑?」
「って程でもないからなあ。庭だ庭」
頭をかきかき、彼女は進む。足下に気をつけて、と付け足して。わ、と一瞬踏み外しそうになる。段差。
叔母は考えると、右手へ向かった。隣の家との境がある。薪が積まれていた。
「お隣は、薪ストーブがあるんだよね。ほら煙突」
確かに。
「で、このでかい葉はオオタニワタリ」
「オオタニワタリ?」
「と、親父は言ってたな。昔まだ、この町が九州からの出稼ぎの人があった頃、もらったんだって」
「出稼ぎ?」
こんな寂れた町に、と言いそうになる。
だってそうだ。ここに連れてきてもらったのも、タクシーだった。叔母はバスがあったら簡単だけどね、と言っていた。どうやら無いらしい。かと言って、自家用車を持っている訳でもないらしい。通ってくる家々には車が当たり前に、時には一軒に二、三台あったが、この家にはその気配は全く無い。
そんな町に出稼ぎに。
「昭和三十年代くらいかな。小さな町工場が沢山あったらしい。親父はまあ、その幸せな世代かな」
「幸せ?」
「朝八時に出かけて、昼を食べに帰ってこれて、一時にまた出てって、夕方六時には家に居たな。土曜は半日。残業の記憶は、少なくとも私には無いね」
「信じられない」
「今じゃね。正社員でそれっていうのはまずないだろ。まあその分、給料がもの凄く高いということは無かったが、年金は綺麗に出たから、悠々自適な……」
彼女はそこで少し言葉を切った。
「まずまずの人生だったんじゃないかな」
「叔母さんは?」
「私か?」
ふい、と彼女は私の方を振り返った。大きな木を振り仰ぐ。
「まあ、結構幸せな方だと思うよ」
今度は私が首をひねる方だった。
「これは梅。何の種類か知らなかったんだけど、実のでかさから南高梅っぽいんじゃないか、って以前にお隣さんから聞いたんだけど」
「そこの?」
「いや、もう片方の」
「だけど」
「うん、東のお隣があった頃だな」
現在は更地になっている、東側にもかつては隣家があったということか。
「この家はこの辺りで、昭和三十年代にぽつんと親父が建ててな」
錆の入りまくった壁を思い返す。
「建て増しを少しずつして、まあ、今の形。不完全なまま、私が引き継いだ」
これも、と梅の木をたどりながら北側へと抜けていく。一段高い向こう側には北側の隣家が数件見える。
梅の木は全部で三本あった。
「六月に入ったら、地面にネットを敷く」
「何で?」
「実が落ちるから」
「取るんじゃないの?」
「そんな高さか?」
そう言って、くくっ、と叔母は笑った。見上げる。思わずぐらり、とめまいがする。慌てて叔母は手を出す。
三本ともかなりの高さがあった。さわさわと揺れる葉の隙間から差し込む陽がまぶしい。
「まだ小学生の時に、スケッチをしたことがある。その時もうちゃんと実をつけてたな」
「凄い、古いんだ」
「古いな。でもまだ現役で花も実もつけてくれる。大役立ちだ」
だがな、と彼女は言うと、ぽきんと小さな枝を折った。
「こうやって枯れてしまうものもある。そういうのは適度に取らないとな」
「いけないの?」
「生きてる枝でも、こんな風に」
絡まっている枝々を手にする。解く。
「解けるものならいい。だけどどちらかがどちらかの成長を邪魔する様なら、ある程度は刈り込んでやらなくちゃならない。本当はこんなに大きくしちゃいけないんだ」
「何で?」
「大男、総身に知恵は回りかね」
私は首を傾げた。
「でかすぎちゃ、水も栄養もなかなか回りかねる。光合成するにも、日が当たらないところも出てくる」
「じゃあ何でそうしなかったの?」
「さてな」
そう言うと、叔母はサングラスの下の目を細めた。
「それは私には判らんよ」
梅を抜けると、何やらやわやわとした木が細い葉を茂らせていた。右手には、ひどく細かいとげを持った木が何本か並んでいる。
「本当は、ノウゼンカズラが欲しかったんだが、ヒメノウゼンしかなくてな」
「違うの?」
「違う。ノウゼンカズラは、こんな大きな花が真夏直前と、夏の終わりに咲いて、ぼとんぼとんと落ちてくのだけど、ヒメノウセセンは、……そうだな、小さな花があちこちに、……ジャスミンの方が花の形は近いのかな」
「ジャスミンが判らないよ」
「じゃまた後で探してみればいい。箱、もってるだろ」
「箱?」
「パソ」
「スマホで十分だよ」
「大学生じゃなかったか? サナカは」
それを言われると痛い。
「大学生だからって、皆バソが打てる訳じゃないよ」
「じゃ何でレポートを? 今さら手書きってこたないだろ」
「結構あるよ、今しゃ」
「パソのワープロじゃないとあかん、ってちょっと前に私は言われたがね」
「先生によるよ」
へえ、と叔母は肩をすくめた。彼女は自称五十歳なのだが、数年前に二年間だけ大学院に行っていたらしい。
私が今、ここに居るのはそのせいもある。
―――どうせ休学するんでも、全く勉強から遠ざかるのもね。
―――カンコさんは変わってるから、家が本だらけだし。
―――……大丈夫か? 片づけとかさぜられるんじゃないだろうな。あいつは昔から……
―――確かあのひと自身も、医者通ってたんじゃないの? いいの?
―――いや、通っているだけで、安定しているからいいらしい。逆に多少なりとも事情が判る方がいいんじゃないかな。
皆言いたいこと言ってくれちゃって。
「……で、ここにソバとトウモロコシ。もうじきカボチャとサツマイモを育てようと思うんだけど」
「ナスとかトマトは?」
「まだハードルが高い。それともあんたやる?」
「あー……」
さすがにそれは。
「秋になったらライムギを植えたい」
「ライムギ?」
「いや、一緒に蒔けるかな、と思ったんだけど、どうも時期を間違えたらしくって」
「いやそうじゃなくて」
ライムキってあのライ麦だろうか。パンの。
「そうだよ」
訊ねると即答した。
「小麦大麦も考えたんだけど、とりあえずアマゾンで扱ってるのがそれしか見つからなくて。時期の問題だろうな」
「いやそうじゃなくて」
何で麦。
「一応野望はある」
「野望」
思わず眉を寄せた。どんな野望だ。
「収穫して粉に挽いてみたい」
「……何でまた」
「あ、そうだ、言ってなかったけど、ウチの主食はパンだからね」
困る? と彼女は聞いてきた。
「もし困るんだったら、それは自分で炊いてね。私はパンこねが好きでな」
「はあ……」
それ以前に、まともに食事を作ったことすらないというのに。
―――まあ、いろいろ経験してくればいいさ。
父親はそう言った。
と言っても、血はつながっていない。母の再婚相手だ。
三度目の結婚だという。
私は五つ上の兄と一緒に、小学生の時に新しい父と、関東地方の住処を手に入れた。それまでは山がちの場所だった。忙しい彼は、都心と連絡がスムーズな海よりの近県に住んでいた。場所が場所だったので、なかなか憧れがあった。
だが、そこに落とし穴があった。