森を包む穏やかさは異様の一言に尽きた。
ハロルドは冒険者である。気の合う仲間達と共に一攫千金を目指して、様々な危険地帯へと赴く。
今回訪れたその場所は、魔王の支配下に置かれた森だった。
鬱蒼と木々が生い茂ってこそいるが、不気味さというものがおそろしいぐらいまったくなかった。
木漏れ日によって森は暖かく、それでいて優しく照らされている。時折吹き抜ける微風はほんのりと温かい。そっと優しく頬を撫でていく感触は気持ちよかった。どうなってるんだ、と仲間の一人がもそりと口にした。
まったくもってそのとおりだよ。ハロルドは返答こそしなかったものの、内心では彼の言い分に対し首肯していた。
魔王が支配しているはずなのに、森全体の雰囲気は至って普通だった。
おどろおどろしさはなく、逆に穏やかなのがハロルドたちは困惑してしまった。
これではまるでピクニックにきているみたいだ。別の男の一言に、今度は「本当にそのとおりだ」と、ハロルドは返した。
魔王アスタロッテ……かつてその猛威を振るった魔王の首にかけられた懸賞金はすさまじい。
討伐できれば一生だけでなく、その次の世代も遊んで暮らすのも可能だ。
そうした目先の欲に囚われ愚かにも挑んだ冒険者は、未だ誰一人として帰ってきていない。
彼らの末路がどうなったか、想像するのは実に容易なことだった。
「本当に魔王アスタロッテのところにいくの?」
女僧侶がそう口にした。
言霊がひどく弱々しいように、彼女の表情には不安の感情が色濃く渦巻いていた。
恐れてしまうのも無理はない。ハロルドはふっと口角を緩めた。
「大丈夫だよ。俺たちはこれまでにだってどんな状況だって乗り越えてきたじゃないか」
「そう、だよね。きっと私たちならなんとかなる……よね?」
「そゆこと。もっとさぁ、余裕を持ったほうがいいよぉ? ウチみたいにさぁ?」
弓を手にした少女がにかりと笑った。
女僧侶も苦笑いを小さく浮かべて返す。さっきと比較して不安の感情はほとんどなかった。
しばらくして、ハロルドたちはその歩みを止めた。
「なんだ、これは……」
森を抜けた時、小さな検問所があった。
つい最近突如として設けられた話をハロルドは思い出した。
どうやらこれがそうらしい。検問所という割にはその造りはお粗末なこと極まりない。
小さな木柵によって囲われた空間は無駄に広く、そしてそこを守護する魔物はたった一匹のみ。
魔物にしては珍しい姿をしていた。
朱色の髪は後ろで一本に束ねられ、浅葱色にだんだら模様のコートを羽織っている。背中に書かれた文字らしきものは、ハロルドにははじめて目にするものだった。意味はわからない、が形状はとてもかっこいい。ハロルドはほんのわずかにだけ興味を持った。
一見すると端正な顔立ちをした女性でしかない。
その身から発せられる気は、明らかに普通ではなかった。
いったいこの娘はどれだけの人を殺してきたのだろうか。ハロルドは生唾を飲んだ。
周囲に咲いた花の甘い香りにわずかに混じるそれは、濃厚な血の香りだった。
見た目に惑わされてはいけない。ハロルドは腰の剣をゆっくりと抜いた。ここはすでにアスタロッテの敷地内である。
いつ奇襲されてもなんらおかしな話ではない。
「――、ん? あぁいらっしゃい」
女性の口ぶりはとても穏やかだった。まるで友人に接するかのような口調に思わず困惑してしまう。
「……一応尋ねる。君は、魔族なのか?」
「魔族……まぁ一応そうなりますね」
「アスタロッテの仲間か?」
「仲間というより、息子ですかね」
「む、息子だって!? つ、つまり君は男なのか!?」
「……もういい加減そのネタでいじられるの飽きてきたんですけど」
女性――もとい青年は頬をムッとさせた。
まさかこんなにも女性のような男がいたとは……! ハロルドはひどく驚愕した。
仲間である女僧侶と女弓兵に至っては、彼に対し羨望の眼差しを向けてすらいた。異性として自分たちよりもかわいいのが、どうやら悔しくて仕方がないらしい。
とにもかくにも、魔王の息子とこうして対峙している。彼が手にした剣がいつ抜かれるか、一触即発の状況だ。
だというのに、空気は殺伐としておらず非常に穏やかなものだった。魔王を討伐しにきたというのに、これではまるでピクニックだ。ハロルドはそんなことを、ふと思った。
「――、さてと。あなたたちはアスタロッテを討伐しにきた冒険者メンバー、ということでよろしいですか?」
「――、ッ! ……そうだ。ボクたちはアスタロッテを討伐するためにやってきたんだ!」
「なるほど。じゃあこちらのメニューのいずれかを選んでもらってもいいですか?」
「メ、メニュー?」
ハロルドははて、と小首をひねった。
羊皮紙にびっしりと羅列する細かな文字に目を通していく。
要約すると、あらかじめ応じた金銭を支払うことでそれ相応のサービスが受けられるというもの。
例えば最高額の60ザムでは、命を取らないうえに町の近くまで安全に送り届ける。
本当に彼は魔族なのか? 明らかに自分の知るそれとは全然違う。ハロルドははて、と小首をひねった。
魔族は等しく交戦的である。ここまで対話ができる時点で極めて稀有な事例なのだ。ましてや天敵である人間に対してこうも手厚いサービスまでするなど。
どうやら噂は本当だった。ハロルドは意識を過去へと遡らせた。
魔族でありながら妙に人間臭い奴がいる。先日、ハロルドたちよりも先にアスタロッテの討伐に向かったさる冒険者はそう口にした。その内容はあまりにも突拍子すぎて到底信じられるものではなかった。
「それで、どうする?」
「……ちなみに、もし支払いに応じなかった場合は?」
「別になにも。ただその時はこっちも全力で相手をするだけですので」
青年がすっと手を上げた。
次の瞬間、上空より二体の魔物が飛来した。
見上げるほどの巨体は鎧のように禍々しい。魔王の側近だろう。その身より発せられる魔力はこれまでに相対してきた魔物よりもずっと強力なものだった。それが二体ともなれば苦戦は必須である。どうするべきか……。ハロルドはしばし沈思した。
「……この、一対一のコースを選んで例えばボクが君を倒した場合、その時はどうなるんだ?」
「その時はそのまま進んでもらって結構ですよ。約束はなにがあっても絶対に破りません。そもそも、俺を倒せないようじゃこの先母さん……アスタロッテに挑んでも十割勝てませんから」
「……なるほど。つまりこれは試験ということだね?」
「そう捉えてもらっても結構ですよ。それで、どうしますか?」
「――、じゃあこのコースでお願いしたい」
「毎度ありがとうございます」
「……本当に大丈夫なのですか?」
そう口にした女僧侶の表情は不安げだ。
彼女の言い分はハロルドも重々理解していた。これが罠でない保証などどこにもない。
しかし、不思議のあの青年のことは信じてみようという気になれた。魔族であるのに、妙な信頼感がどこかにあった。
おそらく青年の言葉に嘘はない。確固たる証拠はなく、いわばこれは己の直感にすぎない。
魔族なのに信じるなどと……。ハロルドは自嘲気味に小さく笑った。
「それじゃあ、始めましょうか」
なんだ、あの剣は? ハロルドはジッと凝視した。
青年が手にしたそれは滑らかな曲線を描いた片刃が特徴的だった。特記すべきは刀身そのものにあった。
刃に当たろう部分は漆黒であるのに対し、もう片方は純白に染まっていた。
極端なまでに二色を見事に使い分けた刀身は個性的でありながらも、陽光を浴びて輝く様は芸術品のようにとても美しい。あれはさぞ名のある剣に違いない。ハロルドは自らの剣を中段に構えた。
青年も遅れて剣を構えた。同じく中段である。
するとさっきまであったはずの穏やかな空気が一瞬にして凍った。
凄烈な殺気は鋭利な刃物のように鋭く、それでいて静謐である。
いつでも斬れる。青年の殺気はあたかもそう告げているかのようだった。
空気がとても重苦しい。
目前にいるのは魔族である。見た目はごくごく普通の人間と大差ない。
だが小柄な体躯より発せられる気はまるでドラゴンのようだ。
これほどの重圧を感じたのは、多分はじめてかもしれない。ハロルドは額に一筋の脂汗を滲ませた。だがその顔にはしかと不敵な笑みが浮かんでいる。
しばしの静寂が流れた。
「が、がんばってくださいハロルドさん!」
「負けるんじゃねぇぞ!」
「気合入れていきなさい!」
仲間からの声援にハロルドは沈黙をもって応えた。
彼らがいてくれたからこそ、これまでどんな危機も乗り越えてきた。
このメンバーだからこそいつも以上の力が発揮できる。そう言っても過言ではない。
仲間たちのためにも、必ずボクは彼との戦いに勝つ! ハロルドは地を蹴った。
相手の実力は未知数である。なんの作戦もなく馬鹿正直に正面から太刀合うなど、それは愚か者のすることだ。とはいえ、ジッとしているだけで勝利は得られない。
真に勝利を掴みたくば己で掴む他ない――師の教えと共に、ハロルドは今日と言う日まで剣を振ってきた。
いついかなる状況であろうと、自身がすべきことになんら変わりはなし。
いつものように剣を振るう、ただそれだけ。ハロルドは剣を振り下ろした。
ハロルドが驚愕したのは、そのすぐ後のことだった。
なんだ、これは……? 剣が、吸い寄せられるみたいにまるで離れない! ハロルドは目をぎょっと丸くした。
二つの刃が交わった瞬間、信じられないぐらい強い引力が働いた。まるで磁石のようにぴったりとくっついた刃は離れる気配がない。ならば無理矢理にでも引きはがそうとすれば、その主導権をあっさりと握られ阻止されてしまう。
もがくほどに四肢の自由はどんどん奪われ、たっぷりと吸水した衣服の重みが体力を根こそぎ奪っていく。息継ぎすらも許されない様は、まるで荒れ狂う大海原に放り投げられたかのようだった。
程なくして、鋭い痛みが全身に走った。すぐ目の前では無数の赤い滴が舞っている。
仲間たちの声がよく聞こえない。だが彼らの悲痛な表情から察するのは実に容易かった。
あぁ、どうやらボクは斬られてしまったらしい。薄れゆく意識の中でハロルドはふっと笑みを浮かべた。
斬られたというのに、青年に対する憎悪や怒りが不思議となかった。むしろ逆に清々しさすらあった。
本当になにからなにまで不思議な気分だ――地面の冷たい感触が背中を通じて全身に広がったのを最後に、ハロルドはそっと目を閉じた。
「――、はい俺の勝ちと言うことで。それじゃあ早速止血しますね~」
「……え?」
ハロルドは目をバッと開けた。
魔族があろうことか人間を治療しているのだ。これには彼だけでなく、仲間たちも激しく困惑した面持ちで見守っていた。命までは奪わない――この青年は本当に約束を守った。
にわかに信じがたい光景が終始続いている。軽く頭痛がするのはきっとそのせいに違いない。治療が終わったのと同時に、ハロルドはそう思った。
「命まで奪うつもりはありませんので、俺が欲しいのは……まぁ恥ずかしい話、本音をいうとお金なんですよ。でも略奪するのは俺の性に合わない。ということで――」
「この方法で合法的に金銭を得ている……と? 君は、魔族なのにものすごく変わっているね」
「よく言われます――はい、とりあえず傷口に塗り薬はしておいたので、治るまで無理に身体を動かさなかったら大丈夫です。というわけでお帰りはあちらですどうぞ」
青年に促されるがまま、ハロルドはその場を離れた。
「……本当に約束、守ったわねアイツ」
「あぁ……完全にボクの完敗だ。そして本当だったらボクは今こうして生きていない」
「……これからどうしますか?」
「決まってるよ」
ハロルドはにっと笑った。
「リベンジに向けてもっと強くなる。そのためにもまずはいろんな場所に冒険しにいこう。今のままじゃ何度挑んだって彼には敵いそうにないからね」
負けた悔しさはもちろんある。だがそれ以上にあったのは挑戦心だった。
いつかあの青年に勝ちたい。命がほしいのではなく、一人の男として勝利がほしい。
これも噂どおりだった。彼と負けた者の多くが、高みを目指さんとしている。憎悪はなく、純粋に勝ちたいと心から願う。そんな気持ちを抱いたのは、いつぶりだったか。
たまたま町で出会った大男は、そうがらがらと笑っていた。
もっと強くなってみせる。新たな決意を胸に抱きながらハロルドは静かに拳を握った。